地方競馬と中央競馬。普段は隔てられている2つの競馬界。
その交流重賞が1日に3レースも行われる一大イベントがある。
それがダートの祭典・チャンピオンデーであるJBCだ。

地方・中央からダートの猛者たちが集う夢のような1日、JBC。
レディスクラシック、スプリント、クラシックの3重賞が組まれているが、過去の勝ち馬を見てみると、そこにずらっと並ぶのはJRA所属の馬ばかり。
JBCが交流重賞だということを忘れてしまいそうになるくらいだ。

しかしそんななか、中央馬たちを撃破し、見事JBCスプリント優勝を果たした地方馬がいた。

フジノウェーブ。
生涯成績59戦23勝。
その23勝の中のひとつに、燦然と輝くJBCスプリントの文字がある。

地方馬としてはじめてJBC優勝馬にその名を刻んだフジノウェーブは、後世に語り継がれていくべき、紛れもない名馬である。

2002年4月27日、フジノウェーブは北海道・浦河でこの世に生を受ける。
父ブラックタイアフェアー、母インキュラブルロマンティック、母父Stop The Music。
半兄には富士Sを勝ったキネティクス(父フォーティナイナー)がいる血統だ。

2004年には笠松所属馬としてデビューを迎え、2勝をあげると、2005年7月には中央競馬にも参戦し、人気薄ながら3着と健闘。
その秘めた能力の高さを見せる結果となった。
続く黒潮盃で大井へ初遠征し6着となると、その後は大井に移籍し3連勝。

2006年からは御神本訓史騎手とコンビを組み、初戦こそ2着だったものの、その次のレースからは怒涛の10連勝を飾る。

2007年にはさきたま杯(G3)で初の重賞挑戦を果たしたが、中央馬・メイショウバトラーの前に4着に敗れ、帝王賞ではボンネビルレコードの11着に終わっていた。
その後の目標はJBCスプリント競走で、レースに向けて着々と調整が行われていく、はずだった。
しかし、この2007年には馬インフルエンザが大流行。
大井競馬場でも馬インフルエンザが発生し、競馬開催も危ぶまれる中、フジノウェーブも帰厩が遅れるなど影響を受けることになる。

そうして迎えた、2007年のJBCスプリント競走。
5歳の秋という絶好の時期に、フジノウェーブは大金星をあげることとなる。

1番人気に支持されたのは、メイショウバトラー。
さきたま杯、スパーキングレディーC、クラスターCを制して勢いのある7歳牝馬の中央の馬だ。
2番人気リミットレスビッド、3番人気プリサイスマシーン、4番人気アグネスジェダイと上位人気を中央の馬が占め、フジノウェーブは7番人気。あくまで「地方馬の中では力のある存在」というポジションだったように思う。

そして、地方・中央入り混じっての重賞レースの、ゲートが開く。
各馬、勢いよく飛び出していく中、フジノウェーブの芦毛の馬体も先行争いの一角を成している。

逃げたのは中央馬・アグネスジェダイ。
その半馬身後ろに2番人気のプリサイスマシーンがつける。

それから船橋のナイキアディライトが続き、フジノウェーブは前から4頭目、インコースの位置をとっている。
……と、隊列を確認している間に、もう最終コーナーがやって来る。

地方のコンパクトな競馬場では、直線も短い。
ここからゴールまでなんて、あっという間に終わってしまう。

慌てて先頭に目を遣ると、前にいた3頭がそのまま残っており、熾烈な追い比べがはじまっていた。
フジノウェーブはその時すでに外に持ち出して、馬場の真ん中から一気に前へ襲いかかろうとしている。
伸び脚を欠いたナイキアディライトを横目に、ラストスパートをかけるフジノウェーブ。

そこからは、フジノウェーブの鮮やかな走りに見惚れる時間だった。
残り100mで、しぶとく粘るプリサイスマシーンとアグネスジェダイを颯爽と抜き去る。
芦毛の馬体がしなやかに伸びる。
少し余裕すらあるのではと感じたゴールの瞬間、フジノウェーブは2着プリサイスマシーンにクビ差をつけて勝利を決めていた。

1200m、電撃のスプリント戦。
それはほんの一瞬の出来事だったが、その場にいた競馬ファンの胸に永遠に刻まれる一瞬となった。
こうして、初の地方馬によるJBC制覇が成し遂げられたのだった。

しかし、その後のフジノウェーブの成績は、決して順風満帆と言えるものではなかった。
2008年には東京盃(G2)、2009年東京シティ盃を勝つものの、苦しい日々が続いた。
JBCスプリントにも参戦したが、7着、5着といった結果に終わっている。

それでも、フジノウェーブは走り続けた。
そして迎えた2010年。

フジノウェーブは東京スプリング盃を勝つのだが、それはまだ伝説の序章に過ぎなかった。
2010年から2013年までの間、フジノウェーブは毎年、休むことなく東京スプリング盃に出走。
そしてついには、なんと、東京スプリング盃を4連覇してしまったのだ。
しかも、4連覇のかかった年にはフジノウェーブは11歳だった。11歳の馬が1勝することも大変なことだというのに、その勝利で大記録を打ち立てたのだ。
これは、怪我などをすることなく、元気にハイレベルな走りを続けてこれたからこその素晴らしい記録である。

4連覇を達成した後、続くアフター5スター賞のレース中に右第一指節種子骨剥離骨折、種子骨靭帯炎を発症。
引退の運びとなり、フジノウェーブの長い長い現役生活は終わりを迎えた。

引退後は同期のボンネビルレコードらと誘導馬として活動する予定だった。
しかし、去勢手術中の不慮の事故のため、死亡。

これには多くの関係者、ファンに衝撃が走った。

「フジノウェーブのことを忘れてはならない」

そんな想いから、2014年より東京スプリング盃競走は名を改め、現在では「フジノウェーブ記念」として開催されている。
これが、大井の雄・フジノウェーブの生き様、その足跡である。

中央馬が揃うJBC優勝馬たちにまざり、地方所属馬であるフジノウェーブ。
中央馬を撃破しての地方馬の勝利に、特別な想いを抱く人は少なくないだろう。
地方と中央の交流レースが行われる中で、中央上位の結末は、予定調和に感じる人もいるかもしれない。
しかし、中央馬が強いのには、理由がある。
地方と中央は、その調教や普段の生活環境、施設の設備から何もかもが違っているのだ。
そういう点から地方競馬ことを「中央競馬よりも劣っている」と思う人もいるかもしれない。
しかし、ファンとの距離感をはじめ、人間味溢れる地方競馬が好きな人も多いはずだ。

地方には地方の良さが、中央には中央の良さがある。

「中央>地方」という図式が変えがたいものであるならば、その中で、中央馬を負かす地方馬を作っていく。

そうすることで、地方だけでなく、日本における競馬界全体のレベルの底上げが図れるのではないだろうか。
競馬界として、あえて地方と中央の垣根を越えるような手助けをする必要は、案外ないのかもしれない。

地方は地方らしさを追求し、中央は中央としての役目を果たす。そうしているうちに、地方と中央の垣根を越える名馬が誕生する──そんなことを願いながら、今年もJBCに熱い視線を送る。

フジノウェーブのようにJBCを制覇する地方馬が現れる日を願うからこそ。
フジノウェーブというたった1頭を語り継ぐことで、後世に希望を託していこう。

それが、昔を知る競馬ファンが、未来の競馬界のためにまず出来ることではないだろうか。

JBCを制した地方馬・フジノウェーブ。

その偉大なる功績は、今も曇ることなく輝き続けている。

写真:ウマフリ写真班

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