[安田記念]1995~99年まで毎年出走。世界にも羽ばたいた大樹ファームの名馬たち

「あなたにとって思い出の安田記念は?」と聞かれた時、ある一定数以上に聞けば必ずと言って良いほど「タイキシャトルの勝った安田記念」と答える人がいるのではないだろうか。

同レースを勝ち、世界へ羽ばたいて行ったそのレースぶりには、リアルタイムで彼を見ていない人でも映像越しから感じることのできる衝撃がある。

そんなタイキシャトルを所有していた大樹ファームだが、実はタイキシャトルが出走する3年前から1年後までの4年間、毎年このレースに実力馬を送り込んでいた。

今回は、そんな大樹ファームが1995年から1999年に安田記念で残した戦歴を振り返ってみたい。

1995年 タイキブリザード 3着

1990年の牧場設立に伴って、その前年に中央競馬の馬主資格を習得した大樹ファーム。外国産馬を集めて仕上げるというスタイルで一口馬主の運営をスタートさせた同クラブは、瞬く間に存在感を発揮していった。

馬主開業から僅か5年で56勝を挙げ、馬主リーディングも中堅順位まで進出。新進気鋭のクラブとして競馬ファンに注目されるようになっていく。

そんな時期に、大樹ファームの主役として活躍したのがタイキブリザードだった。

彼は父に名種牡馬シアトルスルーを持ち、兄にはエクリプス賞最優秀芝牡馬を受賞したシアトリカルがいるという超良血馬であるタイキブリザード。当時から名門クラブだった社台RHに所属していたジェニュインが4000万円で募集されていたこの時代において、タイキブリザードの募集総額はなんと8000万円。まだまだ黎明期のクラブとしては相当な高額出資馬であった事が分かる。

外国産馬のため4歳(旧齢表記)時はクラシックへの参加権がなく、G1への出走機会もなかったが、古馬初戦の谷川岳Sを強い勝ち方で制すると、陣営は中1週で安田記念の参戦を決定。

しかし、いくら良血馬で前走が快勝だったとはいえ、重賞未勝利では厳しいという見方は強く、6番人気の低評価でレースを迎えた。

ゲートが開くとタイキブリザードは強豪相手に臆せず2番手に。道中も折合いを欠くことなく進むと、そのまま手応え抜群で直線へ向かっていった。先行勢が脱落する中で唯一好位から脚を伸ばすその姿に、G1初挑戦で初勝利という快挙の達成を夢見たファンも少なくなかっただろう。

だが、その伸びはあと一歩のところで止まった。ゴール前、内を抜けてきた英国のハートレイクと、タイキブリザードの外から併せ馬のような恰好で上がってきたサクラチトセオーに突き放され3着。しかしキャリア初となるG1、それも海外の強豪が参戦した大舞台でこれほどやれたという事実は、同馬の能力を裏付けるものであった。

1996年 タイキブリザード 2着

前年、悲願の重賞初制覇こそならなかった大樹ファーム。だがタイキブリザードらの活躍もあって、同クラブは馬主リーディングを23位から7位に上昇させた。
その勢いはとどまることなく、3月の毎日杯をタイキフォーチュンで制してクラブの重賞初勝利を成し遂げると、翌週にはタイキブリザードも産経大阪杯で1着。しかもその内容はG1馬であるダンスパートナーを1.9倍の断然人気に応えて下すという、彼の本格化を感じさせるものであった。

そして5月、タイキブリザードは京王杯SCで惜しくも2着に敗れたものの、翌日に開催されたNHKマイルCをタイキフォーチュンが勝利。重賞に続いてG1初制覇まで叶えた大樹ファームは、完全に波に乗っていた。来たる安田記念では、馬主の好調、そして重賞未勝利だった前年とは違いG2ホースになった実績も評価され、タイキブリザードは3番人気に支持された。

前年同様の4枠からスタートを切ったタイキブリザードは、この年も好位からレースを進めていく。逃げたヒシアケボノが引っ張るペースは800m45秒8と、前年に比べてコンマ3秒速い展開に。それでもバテることなく坂の上りでヒシアケボノを射程圏に捉え、抜け出しを図ったタイキブリザードだったが、大外からトロットサンダーが強襲。マイルでは無敗のライバルにハナ差差し切られたところがゴール坂だった。

勝ち切れはしないものの、強いところはしっかり見せるタイキブリザードはこの後、日本馬として初めてブリーダーズカップにも挑戦したが、結果は13着。

遠征先でのトラブルや寒さなどもあり、帰国した彼はガリガリに瘦せ細っていたという。

1997年 タイキブリザード 1着 タイキフォーチュン 14着

そんな米国遠征を経験したタイキブリザードだが、時間と共に驚異的な回復力を見せ、翌年の春には再び走る意欲を見せていた。異国での経験が彼を強くしたのか、帰国初戦の京王杯SCは快勝。威風堂々、前哨戦を勝った本命馬として安田記念へ臨むこととなった。

更に、前年大樹ファームへ初の重賞・G1制覇をプレゼントしたタイキフォーチュンもここへ参戦。彼もまた、NHKマイルC以降は不振に苦しんでおり、復活の足掛かりを狙っていた。

ゲートが開くとタイキフォーチュンはいつも通り中団に構えるが、なんとこれまで好位での競馬がほとんどだったブリザードも馬群の中へ。

前の年に逃げたヒシアケボノに加え、エイシンバーリンやマサラッキ、ジェニュインなど先行したい馬が多いのを嫌ったか、タイキフォーチュンの1列前あたりで競馬を進めていく。

そして4コーナー、両者の進路ははっきりと分かれた。内を突いたタイキフォーチュンと、大外に持ち出したブリザード。フォーチュンは伸びあぐねたが、ブリザードは鞍上の叱咤に応え、頭を低く下げるいつものフォームで先頭へと迫っていった。

府中の長い直線で、前を行く各馬を交わしていくタイキブリザードの眼前に映るのは、ジェニュインただ1頭のみとなった。昨年までの彼ならここで止まっていたかもしれない。だが、経験を力に変えたタイキブリザードは、まるで地を這うかのようなフォームでそのまま先頭をクビ差だけ捉えてゴールイン。ハナ差に泣いた前年の雪辱を晴らす見事な勝利を飾り、見事に念願のG1初制覇を叶えて見せたのだった。

秋には再度米国遠征をし、ブリーダーズカップに挑戦したタイキブリザード。このチャレンジから20数年後、日本馬によるブリーダーズカップ競走の制覇という快挙が成されたが、その礎を作ったのは間違いなくタイキブリザードであった。

そしてこの年、大樹ファームは重賞を8勝し、うちG1は3勝。馬主リーディングも3位に食い込み、絶頂期へと突入していった。

1998年 タイキシャトル 1着

前年秋、タイキブリザードが再度のブリーダーズカップ挑戦でアメリカへと飛び立った時期、大樹ファームではもう1頭の怪物候補がベールを脱いでいた。その馬こそ、マイルCSでG1初制覇を遂げたタイキシャトルである。

タイキブリザードと同様に外国産馬であったタイキシャトルは、クラシックへの出走権はなし。だが、4歳4月の遅いデビューから僅か8か月でG1を2勝したそのポテンシャルは、世界を狙えるレベルにあるとの噂も立っていた。

そしてその期待に応え、タイキシャトルは古馬初戦の京王杯SCを残り200mまで全く追われないまま快勝。このレースの後、管理する藤沢和雄師が「安田記念で結果を残さないことには海外遠征の話はできない」と報道陣に語ったことで、安田記念への注目度は一層増したとも言われている。そしてファンは、タイキシャトルを1.3倍の1番人気に支持した。

レース当日は雨が降り続け、芝は田んぼのような馬場に。そんなコンディションの中でゲートが開くと、タイキシャトルはスタートから番手を下げて行った。しかしその理由は道悪に脚を取られたわけではなく、むしろ行きたがるような姿勢を見せたため。岡部騎手はその動きに「慌てる必要はない」とどっしり構え、相棒に末脚を溜める作戦を取った。

直線、ここまで我慢した爆発力を解き放つかのようにタイキシャトルは弾ける。残り200mで鞍上がGOサインを出すと、後は脚を伸ばすだけ。2着のオリエンタルエクスプレスに2と1/2馬身差をつける完勝劇で、世界への壮行レースを制して見せた。

夏、安田記念を勝利したタイキシャトルは勇躍フランスへ飛び、ジャック・ル・マロワ賞を制覇。

前週にモーリス・ド・ゲスト賞を制していたシーキングザパールに続き、2週連続で日本調教馬が世界を制した、伝説の夏を作り上げた。

1999年 タイキブライドル 7着

安田記念を連覇し、世界に通用するマイラーを作り上げた大樹ファームが1999年に同レース3連覇を目指して送り込んだのがタイキブライドル。同馬は外国産馬ではないものの、彼の母であるサブミッションはクラブの黎明期に欧州からやってきた持ち込み馬であった。

内国産馬として生を受けたタイキブライドルは、4歳2月のデビューながら抜群の安定感を見せてダービーの出走にこぎつける。結果は11着に終わったが、古馬となりマイルに矛先を変えると再び安定し、OP、G3と連続連対の結果で安田記念に挑んだ。

この年は前年のグランプリホースであるグラスワンダーが出走しており、同馬の人気は1.3倍という圧倒的な支持を集めていた。2番人気のキングヘイローが6.0倍で、3番人気以降からは10倍台以上。
そのなかでタイキブライドルは8番人気だったものの、展開次第ではチャンスがあってもおかしくないと考えられていた。

ゲートが開くとタイキブライドルは中団に位置し、グラスワンダーを見ながら進める。だが、ペースの上がった3コーナーでやや置かれ始めると、直線入り口では最後方に。そこから懸命に追い上げたが7着。上位争いに割って入ることは叶わぬまま、同一馬主3連覇の夢は幕を閉じた。

その後タイキブライドルは、重賞で好走するがあと一歩届かないという事が多く、遂に重賞を勝てないまま引退。だが、募集額2200万円に対して総獲得賞金は2億円を超えていることからも、十分に馬主孝行な名馬であったと言えるだろう。

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