![[有馬記念]イクイノックスという「天才」が教えてくれたこと](https://uma-furi.com/wp-content/uploads/2025/12/img_5464.jpg)
1.撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり
撰ばれてあることの
恍惚と不安と
二つわれにあり
ヴェルレエヌ死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
──太宰治『葉』より引用
太宰治初期の短編『葉』の冒頭の一節である。一見すると選民思想的な傲慢さが感じられるかも知れない。しかし、ここで太宰が引用しているポール・ヴェルレーヌの『叡智』という詩は、フランス文学者・大熊薫氏によると、神に対する真摯な信仰心と、そこから逃れようとする自分の弱い心とを率直に表現したものだという(大熊薫「『叡智』におけるヴェルレーヌの神」『熊本大学教養部紀要 外国語・外国文学編』第32号、1997年)。
ヴェルレーヌは同じく詩人のアルチュール・ランボーを口論の末銃撃。懲役刑に処せられて服役する中でカトリックに改宗し、信仰心を表現する詩を多く残した詩人である。『叡智』はその代表作であり、太宰が引用した一節も「自分には神の祝福を受ける資格があるのか」という懊悩の表出と見ることができる。
太宰も自身の文学的才能を「撰ばれた」ものとする一方で、「その資格があるのか」という懊悩を抱えていたのだろう。だからこそ、「とりあえず夏までは生きる」という短期の目標で日々を乗り切ろうとする。太宰の人生観が滲み出る一節である。
2.「撰ばれてあること」の資格
さて、私が本稿で問題にしたいのは、「撰ばれてあること」と競走馬との関係である。人為的に生み出された動物であるサラブレッドは、神ならざる人によって生を規定されている。勿論競走馬自身にその自覚は無いのであるが、「撰ばれてあること」によって馬生は大きく変わってくるのである。
例えばキングヘイローの場合。父は「欧州最強」を謳われたダンシングブレーヴ、母は米GⅠ7勝馬グッバイヘイロー。以前『ウマフリ』にコラムを寄稿した際(縁記台「キングヘイロー - 輝ける「一流」の血統」『ウマフリ』2022年)、この馬を「一流の血統」と表現したが、「撰ばれてあること」を血統という面から見ると、これ以上のサラブレッドを探す方が難しいだろう。2歳にして重賞馬となってその選良たる由縁を証明したかに思われたが、同世代にはスペシャルウィーク・グラスワンダー・エルコンドルパサー・セイウンスカイら競馬史に名を残す優駿が顔を揃え、こうした強力なライバルたちと戦う中で何度も壁に跳ね返されることとなった。輝ける舞台を模索しながら走り続けた6歳。春のスプリント王決定戦・高松宮記念が初にして唯一のGⅠタイトルだった。「撰ばれた者」には「その資格があるのか」という問いがつきまとう。「超良血馬」と喧伝された馬が結果を残せずに引退することも珍しくない競馬の世界において、GⅠを制して種牡馬入りしたキングヘイローは見事にその責務を果たしたと言えるだろう。
キタサンブラックの場合。ヴェルレーヌを「撰んだ者」が神だとするならば、この馬を「撰んだ者」ははっきりしている。生産したヤナガワ牧場と縁の深い演歌歌手・北島三郎氏である。「目も顔も男前で惚れて購入しました」(大恵陽子「『目も顔も男前で惚れた』 キタサンブラック北島オーナー、菊花賞制覇喜びの声」『netkeia』2015年10月25日)と後に語った北島オーナーとの出逢いが、この馬の運命を変えた。購入価格は350万円であるから、それほど大きな期待をかけられた馬では無かった。それでも北島オーナーが芸能界で長年培ってきた「顔を見る目」は確かだった。血統面からの距離不安を囁かれながら菊花賞を制すると、その後は古馬王道路線を堂々と歩み続けてGⅠ7勝を積み上げ、18億円以上の賞金を稼いだ。生まれたときから選良としての生涯を宿命付けられたキングヘイローとはまた異なる形で「撰ばれた者」たる資格があることを示した名馬である。
競馬における「撰ばれてあること」の異なる形を見せた名馬2頭の血を継ぎ、2019年3月23日に誕生したのが、イクイノックスである。余談であるが、この3月23日は太宰治の思想に大きな影響を与えたキリスト教思想家・内村鑑三の誕生日でもある。ここに縁を感じてしまうのは穿ちすぎた見方だろうか。
3.異例のローテーション
シルク・ホースクラブにおけるイクイノックスの募集価格は1口8万円。500口募集だったから、総額4000万円ということになる。キタサンブラック産駒はイクイノックスの世代が初年度産駒であり、まだ未知数な部分が多かった。加えて母のシャトーブランシュは、キングヘイロー産駒の重賞馬ではあったもののイクイノックスの募集開始時はまだ繁殖牝馬としての実績に乏しかった。そういう意味では「デビュー前から大きな期待を集めた」とは言い難い。
ところが2021年8月のデビュー戦で6馬身差の圧勝を見せると、前月に行われたラジオNIKKEI賞で半兄のヴァイスメテオールが重賞馬になったこともあって、「良血の素質馬」として注目を集めることになる。ちなみにこの新馬戦の6着はJBCクラシックや南部杯を制したウィルソンテソーロである。芝とダート、それぞれの路線でトップホースとなってキタサンブラックの種牡馬としての名声を高める2頭が一緒にデビューしたことも巡り合わせだろう。2戦目に選ばれたのは、祖父キングヘイローも制し、近年はGⅠ馬の登竜門となっている東京スポーツ杯2歳ステークス。1番人気に応える快勝はもとより、上がり3ハロン32秒9という衝撃の末脚は、この馬の将来性への期待を膨らませるものだった。
勿論狙うはクラシックのタイトル、となるわけだが、管理する木村哲也調教師は異例の決断を下す。イクイノックスをこのまま休養させ、12月の2歳GⅠにも3歳春の前哨戦にも出走させずに皐月賞に直行するローテーションを組んだのである。トライアルを使わずに3歳初戦を皐月賞とすること自体はサートゥルナーリアやコントレイルという成功例があるものの、この2頭はいずれもホープフルステークスの覇者。レース間隔が5ヶ月も空くリスクが勝るように思われるローテーションだが、リカバリーに時間がかかるイクイノックスの体質を第一に考え、皐月賞と日本ダービーを万全の体調で迎えるための判断だった。
皐月賞で3番人気となったのは競馬ファンの懸念の表れであろう。しかし休み明けとは思えない素晴らしい走りを披露。大外枠もあってベストな展開とは言えないレースだったが、同厩舎のジオグリフに次ぐ2着、2歳王者のドウデュースには先着したのだから木村調教師の判断は間違っていなかった。
日本ダービーも大外枠。それでも2番人気に支持されると、後方から直線一気の末脚で先頭に立とうとする。しかし、この年は同じく素晴らしい末脚を披露した馬がもう1頭いた。逆襲を期す2歳王者ドウデュースである。わずかクビ差での敗戦。イクイノックスは異例のローテーションで臨んだ春二冠でその素質を十分に見せつけたものの、未勝利に終わった。
4.「天才」
春を無冠で終えたイクイノックス。秋の目標は父と同じ菊花賞ではなく、天皇賞(秋)に据えられた。この頃、イクイノックスを象徴する二つ名である「天才」という表現が木村調教師の口から登場している。
体質的な弱さを抱えているため、まだキャリアは4戦。それでも皐月賞と日本ダービーで僅差の2着に好走しているように、才能を秘めていることは間違いない。木村師は「彼は天才肌」と評する。そのナイーブな3歳馬に、ひと夏を越してたくましさが備わってきた。
──「【天皇賞・秋】天才が覚醒!イクイノックス最少キャリアVへラスト11秒5」(『サンスポZBAT!』2022年10月27日)より引用
(中略)
トレーナーは「ちょっと出走馬のリストは見たくないですね」と苦笑いしつつ、「2000メートルは問題ないですし、日曜の午後を楽しんでいただけるような脚を使えれば」と前を向く。
木村調教師のコメントからは、「抜きん出た才能を有している」というよりも「素質は他馬に負けていない」というニュアンスを強く感じ取れる。「天才」はあくまでも「キャリアの少なさを補える要素」という文脈に過ぎない。
ところが、天皇賞(秋)本番のレースを境に、「天才」の意味するところは一変する。パンサラッサ渾身の大逃げを上がり3ハロン32秒7の鬼脚で差し切り、初のGⅠタイトルを獲得。フジテレビで実況を務めた倉田大誠アナウンサーの「天才の一撃」というフレーズは、おそらく今後も競馬実況の歴史に刻まれ続けるだろう。「天才」はイクイノックスの強さを端的に示す二文字となった。
4.「撰ばれてあること」の証明
3歳最終戦として選ばれたのは、父キタサンブラックが引退レースで悲願の勝利を果たした有馬記念。木村調教師は、秋のグランプリに臨む心境を次のように語っている。
もっと多くのファンの皆さんにも喜んでもらえるような仕事をしたいよね。だから勝つしかない
──恩田諭「【有馬記念】木村哲也調教師、イクイノックスは「やっぱり天才。キャプテン翼でいえば岬くん」」(『馬トク』2022年12月19日)より引用
(中略)
俺はいい脚を使えるように頑張るだけ
(中略)
どういう馬になっていくかっていう試金石になっていくんじゃないかな。内弁慶で終わるか、世界のホースマンに見てもらえるか
イクイノックスがGⅠ馬になったことで「ファンに喜ばれる結果を出したい」「勝つしかない」という思いが生まれるとともに、「内弁慶で終わるのではないか」という危惧も抱く。ここに見えるのは「天才」、つまり天から「撰ばれてあること」の「恍惚と不安」である。加えてその中でも「いい脚を使えるように」というところに注力する木村調教師の姿勢には自分の仕事に徹するトレーナーとしての矜持がうかがえる。
2022年の有馬記念は豪華なメンバーだった。5歳世代からはジャパンカップ覇者ヴェラアズール・大阪杯勝ち馬ポタジェ・前年有馬記念2着のディープボンドら強豪がズラリ。4歳世代も春秋グランプリ連覇を目指すタイトルホルダーと前年の年度代表馬エフフォーリアにエリザベス女王杯でGⅠ制覇を果たしたジェラルディーナが揃って出走。3歳世代も菊花賞組から2着馬ボルドグフーシュと3着馬ジャスティンパレスが参戦。その中でもイクイノックスは1番人気に「撰ばれた」。イクイノックスが、祖父や父のような、あるいは彼らを超えるような名馬たる資格があるのかが問われる一戦が始まる。
クリスマスのグランプリ、スタート直後のジェラルディーナの出遅れこそあったものの、奇策に出るような馬はいなかった。タイトルホルダーが逃げ、ディープボンド・ジャスティンパレスが好位追走。エフフォーリアは中団に構え、イクイノックスはそれを見るような位置取りだった。後方ではヴェラアズールとボルドグフーシュ、そしてジェラルディーナが末脚にかける。

実力馬同士の激突らしく、それぞれが得意とするポジションでレースを進めていた。だからこそイクイノックスの強さが目立った。3コーナーから馬なりで進出を開始したイクイノックスは、さも当然というように先頭に立つとあとは後続を突き放すばかり。ボルドグフーシュとジェラルディーナの追い込みも届かないのは明らかだった。ボルドグフーシュとの着差は2馬身半だったが、それ以上の力差を感じさせる余裕の勝利であった。
父キタサンブラックが果たせなかった3歳での有馬記念制覇。クラシック無冠ながら年度代表馬に選出されたのも納得である。「撰ばれた者」たる資格を示す実績を残してイクイノックスは3歳シーズンを終えた。

5.「撰ばれてあること」の物語は次代へ
イクイノックスの4歳シーズンは更に凄まじいものだった。ドバイシーマクラシック→宝塚記念→天皇賞(秋)→ジャパンカップと全てGⅠを使い、4戦全勝。ドバイSCと天皇賞はレコード勝利だから、圧巻という他無い。2023年のロンジンワールドベストレースホースランキングで1位を獲得した際のレーティング135はエルコンドルパサーを超える日本馬歴代トップの数字だった。
2025年には顕彰馬に選出。「撰ばれた者」の極北とも言える地位を築いた。日本文学史において太宰治が欠くべからざる存在であるのと同様に、イクイノックスも日本競馬史を語るうえで欠くべからざる存在として今後もその名は残り続けるだろう。
顕彰馬選出のセレモニーの場で、木村調教師は次のように語っている。
現役期間中は無我夢中でやっていて余裕がなくて…。世界一をそこまで実感しないまま現役期間を終えたんですが、2年たって、現役を終えてからのほうが〝すごい馬だったんだな〟と改めて感じることがあり、ぞっとするような感覚です。
──大坂寅生「イクイノックスの顕彰馬選出セレモニーを実施 木村哲也調教師が「ぞっとするような感覚」明かす」(『東スポ競馬』2025年11月28日)より引用
「ぞっとするような感覚」と木村調教師が言語化したものは、「撰ばれてあることの恍惚と不安」なのではないかと思われてならない。だからこそ、このコメントには「恍惚と不安」を乗り越えるための考え方が表れているように思える。「無我夢中」で「実感」をせずにただ目の前の事象に向き合うこと。贈られた着物を理由にして「夏まで生きていよう」と自死を思いとどまる太宰の境地に似たものを感じる。先ほど引用した有馬記念前のコメントでも「俺はいい脚を使えるように頑張るだけ」と述べているように、これが木村調教師が貫いた考え方なのだろう。
では、当のイクイノックス自身はどう感じていたのだろうか。勿論「撰ばれてあることの恍惚と不安」に懊悩するのは人間だけだ。しかし、馬は賢い動物である。どれだけ素晴らしい実績を残した名馬でも、メンタル面を理由に不振に陥る例は枚挙にいとまがない。競走生活はそれだけ精神をすり減らすのである。しかし、そういう意味においてもイクイノックスは非凡な競走馬だった。
静かに雰囲気は出しているんだけど、努力を人に見せない。ガリ勉で進学塾通って勉強できますってタイプとも違う。
──恩田諭「【有馬記念】木村哲也調教師、イクイノックスは「やっぱり天才。キャプテン翼でいえば岬くん」」より引用
自分をアピールするような素振りを見せず、ただ淡々とやるべきトレーニングをこなす姿を木村調教師は評価している。主戦を務めたクリストフ・ルメール騎手も次のように述べる。
レースでは僕の指示もよく聞いてくれたし、僕がどうしたいのかも理解できるほど賢かった。
──福嶌弘「世界1位の勲章を胸にターフを駆ける新時代の王者 イクイノックス」(マイクロマガジン名馬取材班編『もうひとつの最強馬伝説 ~ 関係者だけが知る名馬の素顔』マイクロマガジン社、2023年)より引用
(中略)
彼は僕とよく似ている。やるときはやるけどそうでないときはリラックスしている。僕も彼も競争心がとても強いし、レースには全力で臨む。
レースに勝つために何が必要なのかを理解する馬、それがイクイノックスだった。
「撰ばれた者」には懊悩がつきまとう。しかしどのような状況でも目の前の事象に向き合い、自分に必要なことを淡々とこなしていくこと。イクイノックスはそれこそが大切なのだと教えてくれる。
5歳シーズンからは種牡馬として第二の馬生を歩むこととなったが、その種付料は新種牡馬としては破格の2000万円。ディープインパクトの初年度が1200万円だったことを踏まえると、日本馬の国際的な地位向上を考慮したとしても、どれだけ評価が高いかが分かる。しかも、父キタサンブラックの評価が上昇したことにあわせて2026年シーズンからは2500万円に増額された。期待は膨らむばかりだ。
初年度産駒がデビューするのは2027年。母馬にはアーモンドアイやリスグラシュー、クロノジェネシスといった豪華な顔ぶれが並ぶ。今度は子供たちが「撰ばれた者」たる資格を示す番である。次代にはどのような物語が生まれるだろうか。
写真:Sarcoma
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