年間無敗。
重賞8連勝。
G1、5連勝。
古馬中長距離G1、完全制覇。
新世紀の幕開けで世間が沸いていた2000年、偉大なる記録をたった1年で連発した名馬がいた。
テイエムオペラオー。
強力な世代に挟まれながら、1年間を通じて"競馬界最強"という称号を守り抜いた、絶対的王者だ。
17年越しのドラマ
このドラマは、1982年から始まる。
きっかけは82年ダービー。
バンブーアトラスが当時のダービーレコードを塗り替えるタイムを叩き出したレースだ。
鞍上は岩元騎手。師匠である布施調教師の計らいにより、バンブーアトラスのデビューから引退まで、全レースで騎乗した。彼にとっても所属する布施厩舎にとっても、さらにはオーナーや生産牧場にとっても、初めてのG1制覇となった。
そして、その勝利ジョッキーインタビューをたまたま目にした事で、馬主になる決意をした人物がいる。
岩元騎手の幼馴染、竹園氏だ。
のちのテイエムオペラオーのオーナーである。
時は流れ、1996年3月2日、一人の若者がデビューした。
その若者は、和田竜二騎手。花の12期生と呼ばれる世代の1人だ。
デビュー戦の騎乗馬は、テイエムカミカゼ。竹園オーナーの所有馬だった。
結果は7着で、その後もテイエムカミカゼは6走したものの、引退まで勝利することはなかった。その引退までの6戦のうち5戦は和田騎手の騎乗であり、彼の騎乗技術成長の礎となった。
その和田騎手が初めて重賞に騎乗したのはデビューから半年後のオールカマー。騎乗馬はサージュウェルズで、結果は6着。
しかしさらに3ヶ月経った96年12月、和田騎手はそのサージュウェルズに騎乗してステイヤーズSを勝利、重賞初制覇を達成する。
その翌年にはテイエムトップダンとのコンビで皐月賞に出走したことで、初めてのクラシック競走も経験。
異例のスピード出世とも言える。
そして上記の馬はすべて、当時和田騎手が所属していた厩舎の馬である。
その厩舎とは、岩元厩舎──かつてバンブーアトラスでダービージョッキーとなった、かの名手が開いた厩舎である。
そして99年、皐月賞。
和田騎手はテイエムオペラオーに騎乗し、G1初制覇を達成する。
この勝利は岩元厩舎・竹園オーナー・杵臼牧場にとっても初めてのG1制覇となった。まるで82年のダービー勝利をなぞるかのように。
そしてバンブーアトラス同様にテイエムオペラオーも、デビューから引退まで一度も鞍上が変わることはなかった。
1982年から17年の時を経た、脈々と繋がるドラマである。
開花、前夜。
テイエムオペラオーと聞いて「皐月賞馬」というイメージを持つファンは少ないだろう。
古馬になってからの彼が達成した偉業が、あまりにもインパクトが大きいためだ。
そのせいもあって、当時を知らないファンにとっては「クラシックとは無縁の晩成馬」と思われてしまうことすらある。
しかし、彼は3歳クラシック競走全てで3着以内に入っているし、ダート戦も含めた通算26戦全てで掲示板を外していない。それほど安定した実力馬なのだ。
──テイエムオペラオーが3歳戦を戦っていた当時の競馬界は、古馬に夢中だったように思う。
前年末に3歳(現表記)ながら古馬を打ち破り有馬記念を制したグラスワンダーらが、大きなムーブメントを巻き起こしていたからだ。
エルコンドルパサーは海を渡り名勝負を繰り広げ、国内でもグラスワンダー対スペシャルウィークのライバル関係が人々の注目を集めていた。
そんな脚光を浴びる上の世代を眺めつつ、テイエムオペラオーは虎視眈々と力をつけていった。
本格化、前夜である。
事実、大きく負ける事はないものの、勝ち星からも遠ざかっていた苦しい時期でもある。皐月賞の勝利が、テイエムオペラオーにとって3歳であげた最後の白星となっていた。
菊花賞で2着に敗れたのは和田騎手の騎乗(仕掛けのタイミング)によるところが大きかったと判断され、一時期はコンビ解消の危機すらあったという。
しかし、一時期出走すら危ぶまれた有馬記念に、テイエムオペラオーは駒を進める。
先述の通り、99年は98年クラシック世代が競馬界を賑わせていた。
その1つの集大成とも言えるのが、有馬記念だった。
G1を2連勝中のスペシャルウィーク。
グランプリ競走2連勝中のグラスワンダー。
そのライバル関係に、人々は熱狂していた。
テイエムオペラオーはその2頭が人気するなか、5番人気に甘んじていた。
結果は、グラスワンダーの勝利。
世間からすれば「グラスワンダー強し」「スペシャルウィーク、借りを返せず引退」だ。
スターホース2頭の大接戦である。否が応でも注目が集まり、人々は夢中になる。
大接戦──そう、2頭の間にタイム差はなかったのだ。
そして世間は、それほど大きな注目を寄せていなかった。
もう1頭、タイム差なしの3着に食い込んだ3歳馬がいることに。
テイエムオペラオー、スペシャルウィークとクビ差での3着。
今思えば、ここが快進撃前夜であった。
今思えば、ここで、バトンを渡されていたのだ。
名馬たちが引き継いできた、バトンを。
スペシャルウィークはそのレースで引退し、グラスワンダーもその勝利が現役時代最後の勝利となる。
偉業、達成。
開幕は、京都記念だった。
同期のナリタトップロードやベテランのステイゴールドらを相手に勝利。
続く阪神大賞典も、ナリタトップロードに加えて同世代のラスカルスズカを相手に勝利。
まだ世間は、これらの勝利が「伝説そのもの」に組み込まれるような勝利となる事に、気が付いていなかった。
迎えた天皇賞・春。ここでもナリタトップロード・ラスカルスズカ・ステイゴールドを相手に勝ち切った。
G1勝利は約1年ぶり。これでG1も2勝目。十分な偉業だ。しかし、記録はまだ折り返しにもきていない。まだまだここから、なのだ。
テイエムオペラオーが本来の意味での本格化を迎えたのは、この天皇賞・春ではないだろうか。
しっかりと勝ち切る──後ろからは抜かせず、前は余すことなく差し切る──そんなテイエムオペラオーの強いレースの完成形を、ここで目撃したように思う。
そして、宝塚記念。
ここでテイエムオペラオーは、同期でありながら今まで1度も顔を合わせたことのない馬との出会いを果たす。
メイショウドトウ。
テイエムオペラオーの連勝街道後半は、この馬抜きでは語れない。
テイエムオペラオーは宝塚記念をクビ差勝利。今後の関係性を考えれば、2着のメイショウドトウにとってそれがどれほど大きなクビ差だったか、計り知れない。
休養明けの京都大賞典を、ナリタトップロードにアタマ差で勝利すると、続く天皇賞・秋も勝利。
天皇賞・秋の2着もメイショウドトウ。今回の差は2.5馬身に広がっていた。
ジャパンカップは7頭の外国馬参戦、1つ下の世代のダービー馬・アグネスフライトや二冠馬エアシャカールの参戦で豪華なメンバーとなった。
しかし観衆は既に、テイエムオペラオーの強さを疑っていなかった。
単勝1.5倍の圧倒的1番人気。
その人気に応えるように、テイエムオペラオーはクビ差勝利する。
そう、またもやメイショウドトウを2着に退けて。
そして、伝説の締めくくりは有馬記念。
「そろそろメイショウドトウに勝たせてあげたい」という声が聞こえた。
「テイエムオペラオーが強すぎて、競馬がつまらない」という声すら聞こえた。
既にその時、テイエムオペラオーは「誰かが倒すだろう」という状況になかった、と思う。
そして、周囲が導き出した回答は「みんなで倒す」だったのかもしれない。
ペースを握るであろう逃げ馬ホットシークレットが出遅れたこともあり、レースはスローペースに。
馬群が固まったこと、テイエムオペラオーをマークしようと考えていた馬が多かったことから、まるで「テイエムオペラオー包囲網」とも言える集団が形成された。謀られたわけではないだろうが、あまりにも周囲からの注意を集め過ぎたがための、非常に難しいポジショニングでのレースとなった。
中山競馬場の短い直線に入っても、その隊列は変わらない。
ようやく間を抜けだせそうな道筋を確保したのは、ゴールまであと少しのところだった。
しかし、そこから瞬間的にギアをあげる。本当に、瞬間的な加速と言える。
絶望的なポジションからの、差し切り勝ちだった。
ゴール板がどこにあるか、テイエムオペラオー自身も深く理解していたのでは、というような勝ち方である。
テイエムオペラオーの、文句なしの年間無敗が決まった瞬間でもあった。
そしてバトンは繋がっていく
テイエムオペラオーが持っているバトンは、いくつかあった。
そして既に美しく完成された成績を持ちながらも、彼は現役を続行した。
年明け初戦の産経大阪杯で、テイエムオペラオーは4着に敗れる。
それでも天皇賞・春では勝利し、シンボリルドルフの持つ最高G1勝利数7勝に並んだ。
記録更新がかかった宝塚記念では、戦法を変えたメイショウドトウをついに捉えきれず2着。
そしてその年、競馬界はまたもや3歳勢に夢中だった。
早くして引退となったアグネスタキオンと、個性豊かな同期たちだ。
一方でテイエムオペラオーは、天皇賞・秋を4歳のアグネスデジタルに差し切られていたものの、ジャパンカップでは1番人気に推されていた。
2番人気は3歳馬・ジャングルポケット。昨年もこの舞台で、ダービー馬アグネスフライトに完勝していた。
記録達成はここか、という声も聞こえた。
レースでは、直線で早めに抜け出したテイエムオペラオーをジャングルポケットが追い、2頭のマッチレースのような形に。
テイエムオペラオーにとっては苦手じゃないレース展開に見えた。
しかし、ここでゴール前、クビ差だけ交わされていた。
内国産馬が3歳でジャパンカップを勝利するのは初めてのことだった。
ニューウェーブがやってくるのを感じた。
あの、スペシャルウィークたちの世代のような、大きなうねりを。
テイエムオペラオーのラストランに選ばれた有馬記念に、ジャングルポケットの姿はなかった。
そこで彼は単勝1.8倍という圧倒的支持を受ける。
ここでこそ、というファンの想いもあったのかもしれない。
しかし、その暮れの大一番を制したのは、またもや3歳世代であった。
菊花賞馬・マンハッタンカフェ。翌年には天皇賞・春も制覇する馬であった。
テイエムオペラオーは、5着に沈んでいた。
デビュー以来、最低の着順であった。
それは、ターフで既に全てを出し切ったかのような敗北だった。
その敗北が、私の目には美しく映った。
若いころには強豪揃いの上の世代に、多少無理をしながらも果敢に挑戦。
自らが王座につくと他を寄せ付けずに勝利を積み重ねる。
強さの絶頂で引退することなく、最後までレースに出走し続け、挑戦を受け続ける。
引退年にも、7戦出走した。
出走し続けてくれたからこそ、メイショウドトウは「テイエムオペラオーを倒して遂にG1制覇」が達成できた。
出走し続けてくれたからこそ、新興勢力との名勝負も実現した。
どうしても「たら、れば」が多くなる競馬界で、しっかりと下の世代からの挑戦も受け止めてくれた功績は大きい。
2017年、テイエムオペラオーが約16年間保持してきたバトンが、1つまた1つと受け継がれた。
世界最高の獲得賞金額を、アメリカのアロゲートが更新。
日本最高の獲得賞金額を、キタサンブラックが更新。
日米2頭の名馬が、テイエムオペラオーからのバトンを受け取った。
だが、この記録もきっといつか、未来の名馬によって破られるのだろう。
その時彼らは、次の名馬へと、このバトンを渡すのだ。
さらに2018年2月末、岩元厩舎が引退により解散。
有馬記念で戦ったスペシャルウィークは2018年4月27日に逝去。
全てを見守っていたかのように、2018年5月17日、心臓麻痺によりこの世を去った。
22歳。奇しくも、バンブーアトラスの享年と同じであった。
一時代を築いた絶対的王者。
晩年に若駒に負けようと記録が塗り替えられようと、彼の君臨した2000年の栄光は、いつまでも色あせることはない。
悠々と差し切る、憎らしいほどの強さ。
平然とその強さを発揮し続ける、眩いほどの偉大さ。
テイエムオペラオー、完成された覇道を見せてくれて、本当にありがとう。
写真:RINOT