
一人の情熱溢れる男がこの世を去ってから5年。2026年には、男が人生を注いだ一口会員クラブの最後の募集が行われた。
故・岡田繁幸さん(享年71歳)が創設した「サラブレッドクラブ・ラフィアン(愛馬会法人・有限会社ラフィアンターフマンクラブ)」は、ファンドこそ運用終了まで続くものの、約40年にわたる新規募集の歴史には幕を閉じる。それは、ひとつの時代の終焉を意味する。
在りし日の繁幸さんの行動力と相馬眼は卓越していた。日高の中小牧場を足しげく渡り歩き、馬の素質を見抜く。必ずしも市場で高く評価されない馬にも可能性を見いだし、独自の育成で多くの活躍馬を送り出した。
期待の原石はキーンランドのセリで発掘
96年7月、繁幸さんが一頭の良血馬を購入した。アメリカはケンタッキー州で開催されていた名馬の原石たちが売りに出されるキーンランド・ジュライセールにおいて、37万5000ドル(当時のレートで約4095万円)で購入したSeeking the Gold産駒。のちにマイネルラヴと名付けられることになる青鹿毛馬である。
マイネルラヴはクラブの第二次募集馬の一頭に名を連ねるも、総額7000万円×200口と高値なこともあり、満口には至らなかったという。しかしビッグレッドファーム真歌にあった長さ1500メートルの坂路を“うなるような勢い”で駆け上がり、抜群の動きを示していたことから、繁幸さんの期待は高まる一方であった。
97年7月、2歳となったマイネルラヴは函館の新馬戦を楽々勝ち上がると、休養後に東京ダート戦のプラタナス賞で2着に敗れた後、百日草特別を快勝してオープン入り。そして勝ち馬のキングヘイローに2馬身半の差をつけられてしまうが、単勝オッズ2.6倍の2番人気で臨んだ東スポ杯3歳S(現・東スポ杯2歳S)では、好位追走から2着に好走してみせた。
続く朝日杯3歳S(現・朝日杯FS)では単勝25.8倍の6番人気と大きく評価を落としての一戦となったものの、前半1000m通過が57秒1のハイペースの中、先行2番手を追走。直線でも脚勢を保ったまま、同じ外国産馬の“怪物”グラスワンダーが叩き出したレースレコードから0秒4差の2着に粘り通した。
飛躍の年としたい3歳時のマイネルラヴだったが、初戦の京成杯では単勝1.2倍の断然人気に支持されるも、直線での不利もあって5着に敗れてしまう。その後もクラシックへの出走権のない外国産馬の王道路線へ進んだが、ニュージーランドTやNHKマイルCではこちらも同じく外国産馬の“怪鳥”エルコンドルパサーが登場。重馬場のNZT4歳Sで3着、稍重のNHKマイルCでは7着とそれぞれ期待を裏切ってしまった。
稲葉隆一厩舎に転厩後、秋初戦のセントウルSこそ圧巻の末脚で3馬身差の快勝劇。待望の重賞初制覇で好発進を決めるも、続くスワンSでは単勝1.8倍の1番人気を裏切る結果の7着に惨敗。年末のスプリンターズSでは単勝37.6倍の7番人気と大きく評価を落として臨むこととなった。
クラブ歴代5位の賞金獲得馬による一世一代の激走
新馬戦以来となった電撃の6ハロン戦であったが、先行しては末脚を失くす競馬が続いていたため「距離短縮はいい」と、繁幸さんはじめ、陣営は密かな期待を抱いての一戦となった。
ただし、ライバルには同年の夏、日本調教馬としてフランスで海外GⅠを初めて制したシーキングザパールとタイキシャトルの外国産馬2大巨頭が立ちはだかる。ラストランとなるタイキシャトルに至ってはここまで12戦11勝。遠征帰りの前走・マイルCSを5馬身差で楽勝しており、単勝オッズは1.1倍。さらにレース後には引退式が用意されているという舞台であった。
ところが、ここで一世一代の激走をみせたのが、ほかでもないマイネルラヴであった。レースでは、調教を含めてこれが初騎乗となる吉田豊騎手を鞍上に迎え、序盤は無理せず7番手あたりの馬群の外を追走。3~4コーナーを抜群の手応えで上がっていくと、前をいくタイキシャトルの外に並びかける。
直線を向いても、タイキシャトルには余力があり、ここからエンジン全開か、という雰囲気になったのも束の間。直線半ばに入ってもマイネルラヴの手応えにはまだまだ余裕があり、勢いの差は歴然。鞍上の吉田豊騎手に「おいおい、タイキシャトルに勝っちゃうぞ。世界のタイキシャトルに勝っちゃうぞ」と思わせるほどであった。

そのままクビから半馬身ほど前に出た直後、大外から後方一気の末脚を発揮したシーキングザパールの猛追に遭ったが、これをアタマ差抑え込んだところがゴールとなった。見事に世紀の大金星と言っていい勝ち星を挙げたマイネルラヴの鞍上で、殊勲の吉田豊騎手は左手でスタンドに向けて大きくガッツポーズ。興奮を抑え切れない様子を体で表した。
その後は11戦したが、勝ち鞍は4歳時にシルクロードSのみに終わったマイネルラヴ。それでも26年9月末時点で、これまでラフィアンが所有した歴代2000頭を超える競走馬としての獲得賞金額では5位となる3億1647万円を稼ぎ上げた。外国産馬としては、もちろんクラブ歴代1位を誇る。
岡田繁幸さんという男の人柄が表した、必然に近い勝利
しかしあの時の勝利はなんだったのだろう。大番狂わせだったのか。奇跡だったのか。けれど筆者には、マイネルラヴが本来持っていた力を大舞台で発揮した結果だったように思えてならない。
筆者は、02年の秋、偶然にも門別競馬場で、多くの観客に紛れて観戦していた一人の背の高い、在りし日の繁幸さんと遭遇したことがある。自分にとって憧れの繁幸さんを前に、躊躇なく声をかけさせていただけたのは、繁幸さんのお人柄以外にない。

「あのラフィアンの○○という募集馬を買おうかと思っているんですが、どんな感じの具合ですか?」などの質問を、自分の血統知識を持ち出しながら聞いてみたり、生意気にも反論もしたりした。しかし、繁幸さんは嫌な顔ひとつせず、こちらの競馬熱を悟ったのか、素人相手にもかかわらず本音で相手をしてくれた。
私が「いつの日か、あのゲストハウスに泊まりたいんです」そう言うと、間髪入れず会員でもなく、会ったばかりの若造に「きょう泊まっていけばいい。蛯名(聡マネージャー)というやつがいるから、私が言っていたと伝えれば泊まれるから」と断言して引かない。その時点では、「まあそれもリップサービスのひとつだろう」とも思い、そこでは話半分程度に流した。
しかし、ひと通り競馬談議に花を咲かせた後、一足先に競馬場を後にしようとした矢先、またも駐車場でバッタリ。車を横につけると、ドライバーを務める子息で、当時大学生であっただろう岡田紘和氏を制し、助手席に座る繁幸さんは窓を開けた。
車から顔を出すなり、「本当に、蛯名ってやつに伝えれば泊まれるから! ぜひ来てください」と先ほどの話の続きに念を押したのだ。結局その日は自分の予定を合わせることができず、実現しなかったのだが、競馬界ですでに一定のステータスを持っている方であるにも関わらず、あんな情熱的な姿はほかに見たことがなく、競馬熱を伝えれば、腹を割って本音で応えてくれる方なのだ、と感服させられた出来事だった。
あの日に接した繁幸さんの情熱を思えば、馬を求めて各地を歩き、競走馬づくりに力を注ぎ続けた姿にも、改めてその人柄が重なる。ましてや競馬界や競走馬に注ぐ愛情たるや、こちらの想像を絶するものだったであろう。あのとき門別で触れた繁幸さんの競馬への情熱を思い返すたび、私にはマイネルラヴの激走が単なる大番狂わせや奇跡であったとは思えなくなる。あの馬の素質は繁幸さんが見抜いた通りの評価額に見合うスケールの大きさだった。その能力がすべて嚙み合って発揮されたのが、98年のスプリンターズSだったのだ──と今は思える。
マイネルラヴ自身、現役時代のGI勝利は1つに終わったが、種牡馬入り後も複数の重賞勝ち馬を送り出し、その血は後世へ受け継がれた。そして12年6月に17歳という若さで死したが、自身のスプリンターズS制覇から四半世紀以上の時が流れた25年、母の父としてウインカーネリアンの勝利へと血をつないだ。
サラブレッドクラブ・ラフィアンの歴史が終わるとともに、繁幸さんの想いは終着点を迎えることとなる。あれだけ熱望していた日本ダービーを獲れないまま、その意志は儚く消えるのか。それとも最終世代からダービー馬が誕生するのか、はたまた関係する馬の中から、今後その意志を受け継いだ馬で叶える時が来るのかは未知数だ。だが奇しくも、あの日、父を乗せた車を運転していた紘和さんが、今はサラブレッドクラブ・ラフィアンの代表を務める。その紘和さんは、2026年度募集を最後とする決断について「悩みに悩んだ末の苦渋の決断」と説明。約40年にわたる募集の歴史は終幕へ向かうこととなった。
それでも、繁幸さんが競馬に注いだ情熱までが消えるわけではない。最後の募集世代がどのような走りを見せるのか、その先に何が残されていくのか。ラフィアンの物語は、まだ完全に終わったわけではない。次世代の芽が確実に顔を覗かせはじめ、新たな挑戦の歴史が始まるその第一歩は、まさにスタートしたばかりだ。
写真:Horse Memorys、TOM
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