皆に愛された主人公、キセキを語る。

クラシック三冠最後の頂、菊花賞。この一冠を巡り、世代の優駿が淀のターフへ集う。その事実だけでも心掻き立てられ、魂は燃え上がる。このGⅠレースに勝った馬は、世代で最も強い馬だと称される。3000mもの長距離レースを制する速力、スタミナ、根気が求められる故だ。

菊花賞馬の中で私の記憶に特に残っている馬は、2017年の菊花賞馬キセキだ。台風が迫る豪雨の最中、果敢に過酷なレースに挑んだ駿馬。時代とライバルに翻弄されながらも、長くGⅠ戦線を駆け抜けた彼の、菊花賞を綴ってゆこう。

真面目で賢い下河辺っ子

後にキセキと名付けられる仔馬は、2014年に日高地方の下河辺牧場で生を受けた。父は良血の個性派GⅠ馬ルーラーシップ、母は下河辺牧場ゆかりの血統を持つブリッツフィナーレ。下河辺牧場は戦前から続く名門牧場で、馬主資格を持つオーナーブリーダーとしても長らく活躍している。キセキの母方祖母であるロンドンブリッジはこの牧場で産まれ、現役時代には下河辺牧場の勝負服『白、赤袖』を背負い、引退後はその牧場で繁殖牝馬になったという、まさに下河辺っ子だ。

そんな両親から生まれたキセキの性格は、とても真面目であった。普段は大人しくも、レースとなれば一生懸命に走ってくれた。この素直で真面目な性格は、下河辺牧場で育まれた故の魅力であったように思う。そして、一たび実戦となると首を上げ下げする「鶴首」を繰り返し、気合乗りは充分であった。自分がこれからレースに挑むのだという事を把握できている、賢い馬でもあったのだ。様々な騎手と共に自在な戦術を選べたのも、その賢さがあってこそだ。

キセキの名前は、福永祐一騎手の2000勝を報じるニュースで私は知った。「二色のみの二本輪勝負服とは、ホウヨウボーイやヒシ、タマモみたいでレトロかつ格好いいな」というのが、ニュースを見ての感想だった。日高の水が合ったのか、キセキはデビュー当時から500kgに迫る馬体を持つ大型馬であった。ダービー出走にこそ賞金額が届かなかったものの、その後の3歳夏には夏の上がり馬と称されるほど、飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長を遂げた。その夏の勢いのまま9月の神戸新聞杯でも2着に入線し、キセキは菊花賞への優先出走権を獲得したのだった。

雨のカーテンを切り裂いて

2017年の菊花賞は、一体誰が勝つのか…さっぱり見当が付かなかった。というのも、台風21号の接近で開催が危ぶまれるほどの荒れた天候だったからだ。重馬場を超えた泥沼の中で、平場競走のタイムは平均よりも数秒も遅くなってしまっていた。加えて他にも理由が重なる。毎年そうだが3歳馬の中で、3000mもの長距離レースの経験者は誰も居ない。また、この年のダービーの1着馬から3着馬はすべて、この菊花賞を回避しており軸馬が不在であった。それゆえに、オッズはこれといった優劣が無い群雄割拠の様相であった。こうなると予想どうこうではなくなる。私は、菊花賞で4勝を挙げた武豊騎手の経験に期待して、ダンビュライトを軸に指名している。皐月賞馬アルアインや1番人気キセキは紐予想であった。

過去3回しかない不良馬場での菊花賞。雨粒がテレビ映像でもハッキリ見える程の嵐が吹き荒れる中、ゲートが開いた。真っ先に飛び出したのはウインガナドルだった。キセキは出遅れてしまう。ただ、菊花賞は3000mの長丁場。キセキはM.デムーロ騎手の扶助もあって立て直しに成功し、中団やや後ろを確保した。

一周目のスタンド前へ馬群が回ってきた時、先頭はマイスタイルへと変わっていた。その隊列を見て、思わず私は馬達へ同情する。どの馬も既に泥まみれで苦しそうにしていた。蹄鉄で叩かれ、ターフに水しぶきが大きく跳ねる。前半1000mの計測タイムは驚きの64.1秒。長距離としてもあまりにも遅すぎる。泥と雨風に阻まれて、それだけ行き脚が落ちていた。この過酷な環境で勝敗を分けるのは、パワーと根気になる。2コーナーを曲がるあたりで、主導権争いが徐々に激しくなる。ウインガナドル、アダムバローズ、ベストアプローチ、様々な馬が順位を上げようと必死にもがく。縦に伸びていた隊列がぎゅっと固まり、一段の塊になりながら最終コーナーの坂を駆け降りてくる。コーナーを曲がる最中、各馬一斉に外へと進路を取り、隊列が横へと広がる。京都競馬場ならではの壮観な光景だ。

直線入り口で、ダンビュライトが先頭に躍り出た。その景色に、私の心はにわかに踊る。しかし後続も負けてはいない。クリンチャーとポポカテペトルが追いついて、叩き合いの様相を呈す。この3頭で決着なるか。

しかし、大外から何かが飛んできた。

泥で汚れた白い勝負服で一瞬、見分けが付かない。ゼッケン13番の馬名を確かめた時、私の予想は外れたのだと悟った。

キセキの豪脚が、馬群をまとめて撫で切った。

跳ね返る土塊、叩きつける風雨。そのどれも、君の闘志を折るには足りない。

どれだけの雨が降ろうとも。凍てつく寒さに耐えて勝機を見据え、君は駆ける。

最終直線で後続を突き放し、君は更に加速した。

その血に宿した情熱が雨風を切る原動力となり、持ち前の冷静な知性がゴールを駆け抜ける助けとなる。

降りしきる雨を切り裂いて、君はクラシック最後の一冠を我が物とした。

鞍上は破顔一笑で、拳を上げた。観客へ応えるかのように。

賢い君にはわかったはずだ。君の勝利に皆が喜び、歓声を上げていた事が。

最も強い馬が菊花賞を制する。その格言を証明するようなレースだった。

心から消えぬ、彼の描いた軌跡

キセキのGⅠ戴冠は、この菊花賞が最初で最後である。運のめぐりあわせか、九冠馬アーモンドアイやダービー馬レイデオロ、グランプリホースクロノジェネシスなど、同年代に強敵が多すぎた故だ。けれども、彼は間違いなく速く強い馬だった。キセキはその後も長らくGⅠ戦線で活躍し、GⅠで2着を4回も獲得しているのだから。その闘いぶりは、父ルーラーシップ譲りの後方脚質かと思いきや、騎手も戦術もグルグル変わるというマヤノトップガン以上の変幻自在振りで、ビックリしたものだ。そして長い活躍の中で彼に熱心なファンがたくさんついた。一戦ごとに色を変える彼の闘いぶりからは、私も本当に目が離せなかった。競馬には時おり、ギャンブルの枠を超えてしまうエンターテイナーが現れる。それがまさしくキセキだった。

正直なところ、私は特定の一頭を熱心に応援することは不思議と無い。だから、キセキのファンが本心から彼を愛していた様が、微笑ましくあり、羨ましくもあった。一方で私は、現役時代を知っている種牡馬は贔屓にしてしまう性質でもある。キセキの産駒はまだ競馬場に現れたばかりだが、彼ら彼女らからキセキの後継者が現れないか、それが週末の小さな楽しみだ。

今年の最後の一冠は果たして誰が勝ち獲るのだろう。今年は特に気になってしまう。緊張と期待に胸を焦がしながら、その決着の瞬間を静かに待つ。そして過去に菊花賞に思いを馳せた時、私はあの美しい馬体と記憶に残る活躍を、思い出したのだ。

スタンドに集う観客は期待と不安を綯交ぜにして、君の到来を待つ。
皆が考えているはずだ。今日の君はどんな作戦で来るつもりだ?と。
主役が来た。歓声が舞い起こる。
地下馬道から現れる君はいつも通り、闘志に満ちている。

鞍上が身に纏うのは、ターフに映える古風で鮮やかな「白、緑二本輪、白袖」の勝負服。
直線に吹き抜ける荒々しい風を受けて、逞しい黒鹿毛の馬体は武者震いする。
二度三度鶴首を繰り返した後、君は嵐に立ち向かうかごとく、遮二無二走り去ってゆく。
かつてのGⅠ戦線の舞台にはそんな君がいつも居た。目が、離せなかった。

月日は経つ。季節が移ろい、鞍上も変わり、戦略さえ変更しても、遠きGⅠの頂。
それでも君は諦めず、愛する人の期待に応える主人公であり続けた。
人々の心に刻まれた君の轍の跡が、いつまでも消えない事がその証明であり続ける。
今でも、君のファンは歓喜の時を待ち続けているはずだ。勝利の女神が君の産駒へ微笑むことを祈って。

困難へ果敢に立ち向かった勇士の名を、誰も決して忘れない。忘れられない。

その優駿の名は、キセキ。

皆に愛された、一瞬の奇跡。

この先もずっと繋がる、永遠の軌跡。

さあ、主人公の血を受け継ぎし者達よ!

もう一度、新緑のターフにキセキを描け!

写真:Horse Memorys、かず、はねひろ(@hanehiro_deep)

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