競走馬における生来の気難しさというか、いわゆる「癇性(かんしょう)」……もっと言えば「狂気」と呼ばれる類の難儀な性格は、代を経ても失われずに子孫に受け継がれることがままある。
有名なのは、かの詩人・寺山修司が「一族の呪い」と形容した種牡馬モンタヴァルのファミリーだろうか。
その狂気に加えて不幸が続いた故、直系は残らず、21世紀を迎えるとすっかり「懐かしの血統」と化したモンタヴァル。
しかし、近年屈指の名馬モーリスの母方の祖先としてひょっこり顔を出すのだから、血統というのは面白い。
サンデーサイレンスの登場以降、現代の「狂気の血統」というとステイゴールドあたりが知られているが、それ以前だと“皇帝”シンボリルドルフのサイアーラインが著名かも知れない。
その母スイートルナに起因すると思われる7冠馬ルドルフの気難しさは、代表産駒であるトウカイテイオーの仔に隔世遺伝の形で発現する。
トウカイテイオー自体は賢い馬で、身体の柔軟さや楽しげな歩様から、気性難はイメージしづらかった。
だが、同馬の産駒には気の強さや体質の弱さが災いし、大成できずに現役生活を終えるような馬も多かったようだ。
中央重賞制覇を果たしたタイキポーラやトウカイパルサーにしても、生来の気性難はどうにも抜けなかったという。
1996年生まれのトウカイポイントは、そんな“帝王”の初年度産駒に当たる馬だ。
元々は公営岩手競馬出身。新馬齢表記で3歳2月の中央入り後も、早い時期から後の重賞ウイナーたちと小差の勝負を展開するなど、彼の素質の高さは所属の美浦でも評判になっていた。
脚質も逃げたり差したり追い込んだりと自在性に富む。降級後の4歳秋に900万下条件級の身で挑んだ札幌日経オープン(芝2600m)では、好メンバーを向こうに回してあわやの逃げで2着に食い込んだ。
このように相手なりに走れるのが彼の強みであり、持ち味であった。だがその反面、次走の自己条件戦にてコロッと5着に負けて、圧倒的人気を裏切ってしまうなど、成績は決して安定しなかった。
血統の額面通りに芝中長距離での走りは悪くない。しかしながら血筋由来の激しい気性が、彼の出世をどうにも阻んでいるようだった。
トウカイポイントを管理する後藤由之調教師はセン馬の育成に長けており、どんな牡馬でも必要とあらば去勢手術を施すことで知られる存在であった。
長距離重賞3勝のホットシークレットがその一番の成功例と言えよう。
ホットシークレットがG2・目黒記念を勝ち、続く宝塚記念にてメイショウドトウの3着に食い込んだ2001年の夏。己の激しい気性故に伸び悩んでいたトウカイポイントは、齢5歳にして去勢された。
こうしてトウカイポイントは“男”を無くし、“皇帝”と“帝王”の血筋を継承する権利を永久に失ったわけである。
中国の前漢期、敵に投降した友人を弁護したことを咎められて宮刑(去勢される刑罰)を受けた司馬遷は、その後発奮して歴史書「史記」を著した。
この隣国の先人のように、ある程度歳を重ねてから去勢手術を受けたトウカイポイントも、5歳の夏以降目覚ましい活躍を見せることになる。
9月の札幌・HTB賞、10月の東京・オクトーバーSを連勝。それから中1週で出走したG3・カブトヤマ記念(この年は新潟芝1800mで開催)ではハンデ48kgのタフネススターには後れを取ったが、しっかりと2着を確保し収得賞金を積んだ。
去勢後のトウカイポイントはもっぱら芝の中距離以下を使われた。これは相馬眼に定評のあった後藤師による判断だったと思われるが、師の期待にきっちりと応えるトウカイポイントもさすがであった。
そんなトウカイポイントが立身出世を遂げる過程を語る上で欠かせないレースが、翌2002年2月24日に行われたG2・中山記念である。
年明け2戦で不本意な競馬を続けたトウカイポイントは14頭立て8番人気。
6歳を迎えていた彼の目の前に、前年暮れの香港マイルを楽勝したエイシンプレストンや上がり馬ミレニアムバイオなどが立ちはだかった。
だが、前者は酷量60kgを背負っていたし、後者は千八という距離にやや不安があった。絶対的中心馬を欠くメンバー中において、父や祖父の背中を知る“稀代の名手”岡部幸雄騎手を前年秋以来に鞍上に迎えたトウカイポイントは、何とも不気味な存在と言えた。
レースは大方の予想通りゴーステディの先導でスタートしたが、それに外からトウカイパルサーが競り掛ける。
積極果敢で知られた逃げ馬と“もう1頭の帝王の息子”が2頭揃って引っ張る態勢は厳しい流れを生み、前半5ハロンは58秒3のハイラップを刻んだ。
当のトウカイポイントは中団でしっかり折り合い虎視眈々。本命馬エイシンプレストンのすぐ後ろに付けて己の出番を待つ情勢だ。
局面は3コーナーを迎えた。逃げた2頭が堪え切れずに失速し、ミレニアムバイオや前年の2着馬ジョウテンブレーヴが先頭を争う展開に。
それらのすぐ後ろからエイシンプレストンが進出を図る。一方、岡部騎手はコーナーで外を回した。
やがて直線に入ると、ミレニアムバイオが早めの競馬で押し切りを図ったが、中山名物の急坂に至ると途端に伸びあぐねる。
エイシンプレストンやジョウテンブレーヴも末脚を失う中、コースの外目からトウカイポイントとトラストファイヤーが一気の脚で伸びてきた。
これら2頭が残り150mぐらいで先頭に立つと、最後は激しい叩き合いになった。
一瞬だけ外のトラストファイヤーが前に出かけたのだが、岡部騎手のアクションに応えたトウカイポイントが内から差し返し、ゴール前クビ差だけ先着。
マル地の6歳セン馬が重賞初制覇を飾った。勝ち時計は1分45秒4。伏兵馬による見事なコースレコード決着であった。
同父&同馬主のトウカイパルサーのアシストもあって、トウカイポイントは中山記念にて最高のレースを見せた。
後藤師は岡部騎手を「この馬の良さを引き出してくれた」※1と称えた。
以降、同年春から夏にかけては不完全燃焼な競馬を繰り返したが、札幌記念でテイエムオーシャンの2着に入ると持ち直し、秋にはマイル戦線に殴り込みを図る。
そして富士S(5着)を叩いて出走したG1・マイルチャンピオンシップを制覇し、ついに大輪の花を咲かせた。
辛抱実った後藤師は「(G1勝ちまで)長い間かかりましたから、嬉しいですね」※2と喜びを爆発させた。
直線不利を受けて掲示板どまりだった前走が隠れ蓑となり、11番人気という低評価での勝利だったが、蛯名正義騎手に導かれたレースぶりは堂々たるもの。
日本競馬史上2例目となる、父子3代G1制覇の偉業を達成。こうしてトウカイポイントは、6歳秋にして充実期を迎えたのだった。
12月には香港マイルに遠征し、直線あわやの競馬で3着に健闘した。
更には、同年のJRA賞最優秀父内国産馬の栄誉にもあずかった。
5歳時に中級条件で不振にあえいでいた馬が、去勢の決断を経て翌年秋にマイル戦線の主役として転身を遂げたというわけだ。
管理する後藤師の慧眼ぶりには脱帽するほかない。
だが、トウカイポイントの天下は案外短かった。
種牡馬入りの道が閉ざされていた故に、翌2003年も現役続行。7歳初戦には前年に飛躍の舞台とした中山記念が選択された。
そして、ラストシーンは唐突に訪れた。持ち込みの良血馬ローエングリンがマイペースで逃げを打ち、先頭をキープしたまま入った直線、中団で競馬を進めていたトウカイポイントは、右前浅屈腱不全断裂を発症。完走すること無く競走を中止した。
不幸中の幸いと言うべきか予後不良は免れたが、競走能力喪失との診断を受け、現役引退を余儀なくされた。引退後の彼は乗馬に転身し、苫小牧のノーザンホースパークを経て、現在はある個人牧場で余生を過ごしているという。
どんな物事にも表裏があるように、トウカイポイントにとって中山記念は歓喜の舞台であり、同時に現役生活の終焉を迎えた苦い舞台である。
また、去勢という判断にも気性や体質を改善する“光”の側面と、子孫を残す役割から強制的に降板させられるという“影”の側面が存在する。
いわゆる「狂気」についても馬によって良し悪しがある。
トウカイポイントの生涯は様々な類の二面性によって彩られたが、寺山修司のような"競馬の語り部"のいない時代にその全盛を迎えたのは、もしかすると不幸だったかも知れない。
なぜなら彼はマル地のマル父でセン馬、加えて日本競馬屈指の高貴な血筋を引いているのだ。
これほどまでに個性的なプロフィールを持った馬は、G1級ではまず見掛けない。
正当な評価を得ていない個性ある馬を、人々の記憶から抹消させぬように語り継ぐ。馬を物語る人は、これからそういった役目を果たさなければなるまい。
(馬齢表記は新表記で統一)
※1「サラブレ責任編集・全部見せます中央競馬2002」
※2「Gallop臨時増刊・JRA重賞年鑑2002」
写真:かず