私の幼い頃の記憶に、新潟競馬場の厩舎地区側にある外厩にいた、重賞馬・キリサンシーの姿があります。
引退後数年のあいだ、彼はそこで過ごしていました。
昭和から平成への転換期、挑戦を続けた「公営新潟」出身の名馬の姿が、そこにはありました。
1985年(昭和60年)に、父サンシー母アンナリビアとの間に生まれたキリサンシー号。
公営新潟の向山勝厩舎に入厩したものの、かなりの気性難で、当時向山勝厩舎に所属していた津野総夫騎手・吉川豊光騎手・向山牧騎手の3騎手が交代しながら、担当の南厩務員と共に馴致をしていました。
ようやくデビューにこぎつけたのは、雪が溶けた3歳の春(昭和63年)の三条開催。
向山牧騎手を背に出走したものの、惜しくも2着と惜敗しました。
しかしその後は、コンスタントに使われながら4連勝を上げ、1回3着を挟みつつ、さらに2連勝します。そうして、いよいよ3歳A1クラスに格付けされたのです。
3歳A1に格付けされてからは、2着、3着、2着と勝ち切れない競馬が続くも、一般格付けをされたB2戦では、吉川豊光騎手を背に3馬身差の快勝。続く3歳馬による準重賞・岡村記念では津野総夫騎手を背に、またもや3馬身差の快進撃を見せました。
3歳時に公営新潟で岡村記念を制したキリサンシー
キリサンシーにトレードの話が巡って来たのもこの頃でした。いよいよJRAへ移籍する事になり、美浦の西塚安夫厩舎へと入厩します。
移籍初戦は、中山の芝900万条件戦を使われ4着と敗れるも、続く年明け(平成元年)中山のダート900万条件戦では2着に2馬身半差を付けてJRA初勝利を上げます。
続く東京のダート900万条件戦特別の節分賞でも、2着に3馬身を付けての圧勝。
一息を入れて、5月東京の当時ダートのオープン競走だった武蔵野ステークスに格上挑戦をするも、10着と惨敗。
夏には北海道シリーズへ参戦して、札幌のダート900万条件戦特別の大倉山特別で1番人気に支持されるも5着と惨敗してしまい、ここで芝へと転向する事になります。そして函館の芝900万条件戦特別・STV賞では、2着に半馬身差を付け、芝での初白星を上げました。
続く芝準オープンのシーサイドステークス、芝オープンのUHB杯と挑むも、共に6着と惨敗。その後は長期休養に入り、復帰戦は翌年(平成2年)の北海道シリーズ・函館の芝オープンの巴賞で、人気薄ながら格上挑戦で4着と健闘。しかし続く函館のダートオープンのシーサイドステークスでは、8着と惨敗します。
さらに意欲的な挑戦は続き、道営札幌で行われた交流重賞・ブリーダーズゴールドカップへ格上挑戦するも、シンガリ負けと苦い結果に終わりました。
秋の東京で行われた芝オープンの多摩川ステークスへまたも格上挑戦すると、シンガリ人気ながら2着と大健闘。久々の上位進出となりました。
続く東京で行われた自己条件の準オープン・ノベンバーステークスでは4着、晩冬の中山の準オープン・冬至ステークスでは3着。好走が続くようになり、勝利への希望が見え始めます。
そして、久々の白星は年明けに舞い込みました。
平成3年、中山の準オープン・迎春ステークスで、名手岡部幸雄騎手を背に1馬身3/4の差で快勝。いよいよオープンに格付けされる事になったのです。
格上挑戦を続けながら歩んできた長いトンネルを、ようやく抜けた瞬間となりました。
待望のオープン格付け初戦は、当時冬に行われていた東京の目黒記念。蛯名正義騎手を背に、道中は好位に付ける走りをみせ、僅差の5着と健闘。続く中山の日経賞では田中勝春騎手を背に、道悪馬場の中、前走の目黒記念の勝ち馬・カリブソングをゴール前で捉え切って、念願の重賞初勝利を上げます。
そして、いよいよ京都で行われる天皇賞・春に挑戦。
鞍上は前走時と同じ田中勝春騎手。
道中後方からレースを運び、最後の直線で馬群の中央から追い込んで来て、優勝馬のメジロマックイーンから0,6秒差の5着と大健闘しました。
しかしその後、重度の故障が発覚してしまい、安楽死まで検討されるほどの事態となります。
そこに救いの手を伸ばしたのは、公営新潟時代に管理していて──数々の故障馬を復活させてきたことで、JRAでも「再生師」の名で知られていた──向山勝調教師でした。
ここまで活躍してくれたのだから、せめて命だけでも……との想いから、向山調教師は、自身が所有していた新潟競馬場の厩舎地区の直ぐ脇にあった外厩でキリサンシーを療養させる事にします。
私の幼い頃の記憶にある、外厩にいたキリサンシーは、この頃のものでしょう。
確か数年間は在厩していたかと思いますが、その後乗馬として引き取られた記憶が、微かにあります。
昭和に、新潟から中央へ。
そして平成になり、また新潟へ。
時代を跨いだ名馬のお話でした。
写真:スーダン