年を重ねるとともに、人はいろんなものを忘却という海に沈めていく。
忘れることで、人は生きていけるのかもしれない。
けれども、競馬ほど、その忘却の海から追憶を呼び覚ますものはない。
馬券で楽しむとしても、スポーツとして楽しむとしても、物語・ドラマとして楽しむとしても──そもそもが、競馬の愉悦とは記憶と密接に結びついている。
誰かに連れられて行った競馬場で初めてターフを見たときの、あの感動。
初めて馬券を買ったときの、あの胸の高鳴り。
大好きな騎手が高らかに右手を挙げたときの、あの憧憬。
ほんの僅かな差で軸馬が届かなかったばかりに歩くオケラ街道の、あの寒さ。
デビューから応援していたサラブレッドがターフを去るときの、あの寂寥感。
そして、その引退した彼らの名を血統表で見かけたときの、あの光悦──。
競馬ファンを長く続けていれば誰にでも、似たような経験があるのではないだろうか。
30年と4か月ほど続いた平成という時代が過去のものになったいま、その平成という時代の競馬を振り返ることは、誰かの心の奥底に眠っていた感動の記憶を呼び覚ますことができるのではないだろうか。
今回は平成5年の日本ダービーに寄せて、そんな競馬の愉悦を描いてみたい。
過ぎ去りし「平成」という時代に想いを馳せながら。
おおよそ時代を覆う空気と競馬社会を包む空気感というのは、別に存在するものらしい。
1989年に「昭和」からバトンを受け取った時代は、次第にその色を「平成」へと濃く染め上げていく。
平成元年12月に3万9千円に迫る史上最高を記録した日経平均株価だったが、平成5年の年初にはその半分以下の1万7千円弱までに下落しており、バブル崩壊という言葉が広く社会に認知されるようになる。
折しも海外では平成3年には湾岸戦争、そして翌年にはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が勃発する不穏な国際情勢が続いていた。
そんな暗い世相や不景気とは裏腹に、オグリキャップが1990年に引退するまでに巻き起こした空前の競馬ブームは、加熱の一途をたどっていた。
週末の場外馬券場には長い行列ができ、大レースの観戦には入場券の「事前購入」が必要になるほど、多くの人が詰めかける。平成3年のダービーでは、多くのファンが中野栄治騎手のアイネスフウジンの逃げ切りに酔いしれ、そのウイニングランで「ナカノ」コールを合唱した。
立錐の余地もないほどに詰めかけたそのファンの数、実に19万6517人。
おそらく今後も世界のどこでも破られることのないであろう、不滅の入場者レコードである。
その翌年の平成4年の日本ダービーは、ミホノブルボンと小島貞博騎手による無敗での2冠達成──。
そんな熱狂が、まだ競馬場を覆っていた平成ヒトケタの時代。
不景気が社会を覆っても、季節は巡る。
生命力あふれる新緑の季節がやってくれば、競馬の祭典・日本ダービーの足音が聞こえてくる。
平成5年、5月30日。
第60回の節目となる開催となった、記念のダービーを迎えていた。
その年は、人気と注目が3頭の優駿に集中しているダービーだった。
ビワハヤヒデと岡部幸雄騎手。
ウイニングチケットと柴田政人騎手。
ナリタタイシンと武豊騎手。
その3頭の頭文字からBWNと称された三強を、東西の名手たちが駆る、名勝負必至のダービーとなった。
そのダービーから遡ること42日前。
BWNの三強は、牡馬クラシック第1戦となるG1・皐月賞で初めて顔を揃えた。
その3コーナー過ぎの勝負どころ、先団外目から仕掛けにかかる赤いメンコをした芦毛の馬体があった。
三強の一角、「B」こと2番人気に支持されていたビワハヤヒデだった。
シャルード産駒のビワハヤヒデは、イギリスからの持ち込み馬で、母馬はパシフィカス。この誉れ高き名牝を見出したのは、早田牧場の慧眼といえる。その1歳下の半弟は、翌年3冠ロードを歩むこととなるナリタブライアンである。
ビワハヤヒデは、平成4年の9月、阪神のマイル戦で岸滋彦騎手を背にデビュー勝ちしたのち、G2・デイリー杯3歳ステークスまで三連勝。
G1・朝日杯3歳ステークスは外国産馬のエルウェーウィンに鼻差で競り負け、年が明けてG3・共同通信杯も2着に惜敗。必勝を期した前哨戦のオープン特別・若葉ステークスを快勝して皐月賞に駒を進めてきていた。
若葉ステークスから手綱を取ったのは、美浦の名手・岡部幸雄騎手。
皇帝・シンボリルドルフの背を知り、昭和62年と平成3年に全国リーディングを獲得していた押しも押されぬトップジョッキーである。
4コーナーを回って直線を向き、好位から抜け出しにかかるビワハヤヒデ。
先頭で坂を登りきって残り50メートルほど、彼の戴冠によって始まるはずだった平成5年のクラシックロードに、暴風が吹き荒れる。
長身の美しいフォームの騎手によって追われた鹿毛は、獰猛なまでの末脚でゴール寸前に芦毛を外から差し切っていた。
三強のもう一頭、ナリタタイシンと若き天才・武豊騎手だった。
ナリタタイシンの父は、前年に産駒がデビューした輸入種牡馬・リヴリア。
リヴリアの母・ダリアもまた、極上の斬れ味を誇った名牝だった。
前年の10月に福島の未勝利戦を勝った後、年末に格上挑戦でG3・ラジオたんぱ杯3歳ステークスを優勝。
この2勝の手綱は、清水英次騎手が取っていた。
天皇賞母子制覇のトウメイ・テンメイ両馬の背を知る名手。
彼からバトンを受け取った武豊騎手は、皐月の風を待つ中山競馬場に暴風を巻き起こした。
ナリタタイシンは、ファンからの「三番目」という彼自身への評価に反発するように、暴力的とも言える末脚で三冠の一つ目を「強奪」したのだった。
いっぽう三強の最後の一頭であり、1番人気に支持されていたウイニングチケット。
父は凱旋門賞を制した名馬・トニービン。
イタリアから輸入され、ウイニングチケットはその初年度産駒であった。また同じく初年度産駒のベガが桜花賞を制し、その評価は高まるばかりであった。
そしてウイニングチケットは、母系をたどればオークス・有馬記念を制し、その血統から数々の重賞優勝馬を名牝・スターロッチの名が見える良血馬だった。
ウイニングチケットのデビューは前年9月の函館、芝1200m戦で5着に敗れる。
ウイニングチケットの祖母・ロッチテスコにも騎乗していた関東の名手・柴田政人騎手は敗れこそしたが、その素質を感じていたのだろうか。柴田騎手の海外遠征や騎乗依頼の重なりなどで次の新馬戦・葉牡丹賞では乗り替わりがあったものの、年末のオープン特別・ホープフルステークスからその手に手綱が戻ってきた。
新馬戦からホープフルステークスまで3連勝を重ねたあと、弥生賞では泰然と構えた最後方から豪快に追い込んで4連勝目を飾る。その勝ちっぷりが評価され、1番人気に支持されてこの皐月賞を迎えていた。
しかし、弥生賞とは打って変わって中団からレースを進めたウイニングチケットと柴田騎手は、早めに仕掛けるも末脚不発で5着入線(他馬の降着により記録は4着)。
1番人気に支持された期待は、落胆へと変わった。
「弥生賞と同じように最後方から進めた方がよかったのではないか?」
その疑問への答えは、次の大一番・ダービーに持ちこされることになった。
さて、柴田騎手が雪辱を期した平成5年のダービーから遡ること23年。
昭和45年に、21歳の若き柴田騎手にとって心待ちにしていたはずのクラシックは、苦い思い出となった。
東のダービー候補とされたアローエクスプレスという逸材を「本番の皐月賞は実績のある騎手で」という馬主側の要望でクラシック本番を乗り替わるという憂き目にあっていたからだ。
いまは特段珍しくもなくなった大舞台での乗り替わり。しかし若い柴田騎手が、加賀武見騎手を乗せてクラシックを走るアローエクスプレスを忸怩たる思いで見ていたことは、想像に難くない。
皐月賞2着、ダービー5着と宿敵・タニノムーティエに敗れたアローエクスプレスの姿を、どんな思いで眺めていたのだろうか?
それから23年。
のべ18回ものダービーに騎乗したが、ついに勝利の女神は柴田騎手に微笑まなかった。
そんな中で手にした、ウイニングチケットという逸材。
若手というだけで騎乗すらできないダービーもあり、雪辱をもう一度期すことができるダービーもある。
人の世はわからないものだが、その違いはひとえに柴田騎手が23年の間に積み重ねた「信頼」が導いてくれたのだろう。
迎えた5月30日、日本ダービー。
ファンの揺れる心理が映し出されたような微妙なオッズは、それでもウイニングチケットを3.6倍の1番人気に推した。
続く微差の3.9倍の2番人気にビワハヤヒデ、さらに微差の4.0倍の3番人気にナリタタイシンと続く。
それにG2・NHK杯勝ちのマイシンザン、皐月賞3着の大器・シクレノンシェリフが10倍以下の人気で続いた。
柴田騎手は、44歳にして19回目の日本ダービーで、初めて1番人気で挑むことになったのだった。
さまざまな人々の想いを乗せて、2400m彼方の栄光へのゲートは開いた。
18頭揃った発馬と思われたが、直後にマルチマックスの南井騎手がバランスを崩し落馬。
波乱の幕開けとなった。
そして1コーナーを回り、アンバーライオンが先手を奪う。
ビワハヤヒデはちょうど中団あたりのポジションを確保し、ナリタタイシンは皐月賞と同じように最後方から2番目を焦らず追走して脚をためている。
ウイニングチケットは──。
いた。ゼッケン10番は皐月賞と同様に、中団少し後方の12番手で最内にもぐりこんでいた。
柴田騎手が選択したのは、快勝した弥生賞のような最後方からの競馬ではなく、敗れた皐月賞と同じ中団のポジションで折り合いをつける正攻法だった。
1000m通過が1分ジャスト。
ゆるみのないペースで隊列の変化のないまま、向こう正面を過ぎていく。
そして3コーナーに差し掛かったあたりで、柴田騎手は動いた。
ウイニングチケットを7番手あたりまで押し上げ、さらに4コーナー手前ではビワハヤヒデよりも前の5番手まで進出という早めの仕掛けで、逃げるアンバーライオンに照準を据える。
ダービーのこの大舞台で敗れた皐月賞と同じ強気の早仕掛けをするには、いったいどれだけ強く自分とウイニングチケットを信じる必要があったのだろうか。
今回は、皐月賞とは違う。
手応えは十分に見えた。
ビワハヤヒデと岡部騎手はそのままのポジションで進み、ナリタタイシンと武豊騎手は大外を通って差を詰めてくる。
まるで怒号のような16万人の大歓声に迎えられて、17頭は最後の直線を向く。
残り300mあたりでアンバーライオンを交わし先頭に立つウイニングチケット。
しかし府中の直線はここからが長い。
柴田騎手の渾身のアクションに応え、伸びるウイニングチケット。
その内から差しにかかるビワハヤヒデと岡部騎手。
そして、やはり外から伸びてきた暴風・ナリタタイシンと武豊騎手。
──やはり、この三頭だ。
三強の刻む運命の歯車の音が、ぎしぎしと聞こえるような追い比べ。
内から抜け出そうとするビワハヤヒデ。
ビワハヤヒデの脚色がいい。
先頭のウイニングチケットと馬体が並びかける。
しかし、柴田騎手の23年間の雪辱を期した執念のようなアクションに応えて、ウイニングチケットは最後の死力を尽くして、よく伸びた。
チケットか。
ビワか。
オカベか。
マサトか。
どっちだ──マサトだ!ウイニングチケットだ!
ウイニングチケットが、詰め寄られたビワハヤヒデを半馬身差で凌ぎ切ったところが、栄光のゴールだった。派手なガッツポーズはなかった。
こみ上げる万感の想いを、ただただ、噛み締めていたのだろうか。
乗り替わりも、絶望も、屈辱も、蹉跌も、すべてはこの瞬間のためにあったかのように見えた。
もしも敗れたときの批判も非難も承知の上で、敗れた皐月賞と同じ中団からの早めの仕掛けという、柴田騎手の覚悟の騎乗。
ウイニングラン、大団円。
響き渡る16万人の「マサト」コール。
柴田政人騎手、19度目の正直だった。
単勝1番人気で、ウイニングチケットとともに日本ダービーを制覇。
通算で1659回目の1着は、生涯忘れられないであろう勝利になった。
「BWN三強物語」には、後日談がある。
同年秋の菊花賞で、再び彼らは相まみえたのだ。
その淀の三冠最終戦では、春無冠だったビワハヤヒデと岡部騎手が雪辱を果たし、BWNは三冠をそれぞれ分け合うことになった。
BWNという物語が美しいのは、三強が同じレースを走ったのは三冠最終戦の菊花賞が最後だったから、ということにもあるのかもしれない。
ビワハヤヒデは、その後古馬になってから、天皇賞・春、宝塚記念を制するまでの活躍馬に成長する。
しかし春秋連覇を狙った秋の天皇賞で、屈腱炎を発症。
そのまま引退し種牡馬となり、京都・芝2400mのレコードホルダー・サンエムエックスなどを輩出した。
岡部騎手は、トップジョッキーとして2943の勝利(平地・障害含む)を積み重ね、平成17年に56歳で引退するまで一線級で活躍を続けた。
ナリタタイシンは翌年の天皇賞・春でビワハヤヒデに惜敗し、その後ビワハヤヒデと同じ屈腱炎を発症。
再起を目指したが、1年後の宝塚記念16着を最後に引退となり種牡馬入りした。
武豊騎手はその後も驚異的なペースで勝ち星を重ね続け、数々の名馬を勝利に導いた。
平成30年には前人未到の4000勝を達成し、平成が終わっても未だ現役を続けている。
ウイニングチケットは、菊花賞で3着に敗れた後に果敢にジャパンカップに挑戦。
レガシーワールドの3着に入線と、ダービーと同じ舞台で輝きを見せた。
翌年、古馬になり夏の高松宮杯から戦線に復帰したが、5着と敗れた。
その背には柴田政人騎手の姿はなかった。
柴田騎手は念願のダービージョッキーとなった後、好調を維持して翌年はリーディング首位を走っていたが、4月に発生した落馬事故により休養していた。そしてオールカマー2着、天皇賞・秋8着の後に、奇しくも先の2頭と同じ屈腱炎を患い、引退となり種牡馬となったのだった。
柴田騎手もまた、懸命のリハビリを重ねたがレースに騎乗できるまで回復せず、そのウイニングチケット引退の1ヶ月前に鞭を置いた。
その後は調教師に転身して活躍しながら、平成31年2月に定年で調教師を引退した。
平成という時代が終わり、BWN三強と呼ばれた彼らが紡いできた物語も、エピローグを迎えた。
けれどもあの平成5年のダービーは、折に触れて誰かの心のどこかで追憶の愉悦を呼び覚ます。
地割れのような大歓声の中「来るなら来い」とばかりの、覚悟の早仕掛けから。
全身が千切れんばかりの渾身のフォームで、府中の長い長い直線を追った、柴田政人騎手とウイニングチケットの栄光とともに。
三強と目された優駿たちが、三人の時代を代表する名手たちに導かれて激突したダービー。
BWN三強のダービー。
ウイニングチケットのダービー。
マサトの、ダービー。
あのダービーは、いまも色褪せることはない。
そしてあの時間をともに過ごした者の心に、それを観る者の心に、いつまでも情熱の炎を灯し続ける。
写真・がんぐろちゃん、かず