勝負ごとは、ときに人の世で曖昧になりがちな「勝ち」と「負け」を色鮮やかに切り分け、それだけに、危険な香りを放って人々を魅了する。そして、死屍累々と積み上げられた「敗者」の上に、燦然と輝く「勝者」というものが存在する──。
そして、ときにすべてのタイトルを独占するような「勝者」が現れる。
勝負の世界に独占禁止法は、ない。
Winner takes all.
彼らが、時代を象徴するのか。
時代を象徴するのが、彼らなのか。
才能の輝きは、ときに雄弁に、時代を語る。
時は、平成6年。
政局に目を向ければ、前年8月に発足した8党派による連立政権が擁立した細川護熙首相が、連立政権内の調整に苦慮するなどして、4月に辞任。その後を継いで首班指名を受けた羽田孜首相も、連立政権内の調整が難航して6月には在任わずか64日間で総辞職する結果となる。それを受けて、自民・社会・さきがけの三党による連立政権が樹立され、社会党の村山富市党首を首相とする内閣が発足するなど、政局は混迷を極めていた。
わずか1年の間に首相が3人も交代するという混迷ぶりを見せる政局。
そんな政治情勢とは対極的に、この平成6年の棋界には揺るぎない絶対王者が君臨しようとしていた。
同年、6月7日。
福岡県北九州市の「北九州プリンスホテル」で行われた第52期名人戦において、羽生善治四冠は86手で米長邦雄名人を破り、初めて名人位を獲得。
それは木村義雄・大山康晴・中原誠という昭和の大名人の系譜に連なる、平成という時代を象徴する新たな名人が誕生した瞬間だった。
昭和60年に史上三人目の中学生棋士となってから、わずか10年。
最高位のタイトルの一つである名人位を獲得したこの恐るべき23歳は、すでに保有していた棋聖・王位・王座・棋王の四冠に加えて、同年に竜王位、そして翌年に王将位まで奪取して七冠となり、棋界における全タイトル制覇という前人未到の偉業を成し遂げる。
大きな寝癖をつけたまま対局に臨むなど飄々としているように見えながら、オールラウンダーな指し手、そして「羽生マジック」と称される終盤に繰り出される絶妙な勝負手は、新しい時代のうねりとなって平成の棋界を従えた。
時に、同じく平成6年。
棋界と同じように、この年の競馬界──クラシック戦線においてもまた、絶対王者が君臨しようとしていた。
同年、11月6日。
この日の京都競馬場には、その絶対王者による日本競馬において10年ぶり、かつ「平成という時代において初めて達成されるかもしれない」偉業の目撃者たらんと、12万人を超える大観衆が詰めかけていた。
春の二冠馬、ナリタブライアン。
黒鹿毛の毛色と対比を成すように、この日も鼻先のシャドーロールが白く凛として見えた。
イギリスのレース体系を模範として、4歳馬限定の皐月賞、日本ダービー、菊花賞の3つのG1レースを頂点とする、日本のクラシック競走。
ナリタブライアンがこのクラシック最終戦の菊花賞を勝てば、平成という時代が初めて「三冠馬」を得ることになる。
セントライト、シンザン、ミスターシービー、シンボリルドルフ……
多くのホースマンが目標としてきた、偉大なる三冠馬の系譜に、ナリタブライアンはその名を並べるのか、どうか。
京都競馬場を埋め尽くした12万人の大観衆の注目は「シャドーロールの怪物」に注がれていた。
ナリタブライアンの父は、その名の由来となったブライアンズタイム。
アメリカで21戦5勝の戦績を残した後、早田牧場が中心となり輸入された種牡馬であり、ナリタブライアンはその初年度産駒であった。
母は、こちらも早田牧場がイギリスから輸入したパシフィカス。
輸入された際に受胎していた一つ上の半兄・ビワハヤヒデは、前年の菊花賞を制すなどの活躍をしていた。当時拡大路線を推進していた早田牧場の「生粋」ともいえる血統を持って産まれた、ナリタブライアン。
彼は栗東の大久保正陽厩舎に入厩しトレーニングを積み、平成5年8月15日、函館競馬場でデビューを飾る。
南井克巳騎手を背に、芝1,200mの新馬戦に出走したが、先に抜け出たロングユニコーンを捕まえきれずに2着。
中1週で臨んだ、仕切り直しの同じ1,200mの新馬戦。
振り返ってみれば、生涯唯一となる「逃げ」に出たブライアンは、4コーナーから独走態勢に入り、ゴールでは2着馬に9馬身差をつける圧勝で勝ち名乗りを上げる。
その後、G3・函館3歳ステークスは道悪が堪えたのか6着、500万下のきんもくせい特別は清水英次騎手を背に1着。
南井騎手に手綱が戻ったG2・デイリー杯3歳ステークスは3着と惜敗した後、次走のオープン特別・京都3歳ステークスから、トレードマークとなる「白いシャドーロール」を装着して出走するようになる。
そして、その京都3歳ステークスから破竹の連勝が始まる。
11月21日、京都3歳ステークス:1着
勝ち時計1分47秒8、3歳コースレコードを1秒1も更新する好時計で快勝。
12月12日、G1・朝日杯3歳ステークス:1着
約1ヶ月前に菊花賞を制していた半兄・ビワハヤヒデとともに、G1兄弟の誕生となり、最優秀3歳牡馬のタイトルを獲得する。
年が明けて平成6年になってからも、ナリタブライアンの快進撃は止まらない。
2月14日、G3・共同通信杯4歳ステークス:1着
初の東京コース初出走となったが、好位追走から直線抜け出し4馬身差の圧勝。
3月27日、G2・スプリングステークス:1着
向こう正面入り口では最後方を追走していたにもかかわらず、そこから2着のフジノマッケンオーに3馬身半差をつける圧勝。
ナリタブライアンは、南井騎手がゴーサインを出すと、グッと沈み込み地を這うようなフォームから他馬を圧倒する豪脚を繰り出し──圧勝を重ねていった。
連勝中のいずれのレースも、2着馬に3馬身以上の差をつける圧勝劇。
──今年のクラシックはブライアンで仕方ない。
そんな声が聞こえてくるほどの、圧倒的な強さ。
迎えたクラシック一冠目のG1・皐月賞でも、デビュー3連勝を飾ったエアチャリオット、弥生賞を勝ったサクラエイコウオー、素質馬・メルシーステージなどを相手にせず、直線を突き抜けコースレコードでの快勝を飾る。
続く2冠目である、4歳サラブレッドの頂点を決める日本ダービーでも、4コーナーでロスの大きい大外を回しながらも、2着のエアダブリンに5馬身の差をつける完勝を飾り、春のクラシック2冠を成し遂げる。
夏を越して秋の復帰戦となった菊花賞トライアルであるG2・京都新聞杯は、体調不良による調整遅れもあり、最後の直線で内から伸びてきたスターマンに競り負けて2着に敗れる。
しかし体調が戻れば、ブライアンの能力を疑うべくもないはずだ。
ファンは、迎えた3冠最終戦であるG1・菊花賞に、1.7倍という圧倒的な支持を預けた。
舞台は、京都・芝3,000m。
向こう正面の上り坂途中からスタートして、外回りを1周半するコースであり、超長距離を走り切るスタミナと折り合いを付けられる精神力、それに加えて6つのコーナー回り、3コーナーの坂を2回登って降るという器用さと大胆さが要求される、淀の大舞台。
ナリタブライアンの偉業を阻止せんと2番人気で続くのは、7月と10月の福島で連勝して臨んできたヤシマソブリンと坂井千明騎手。
3番人気は日本ダービー2着のエアダブリンと岡部幸雄騎手、そして前哨戦でナリタブライアンにほぼ1年ぶりの土を付けたスターマンと藤田伸二騎手が4番人気で続く。
さらには、セントライト記念組のウインドフィールズとラグビーカイザーもそれに続き、虎視眈々と最後の1冠を狙う。
果たしてナリタブライアンと南井騎手は、この舞台を勝ち切って、平成最初の三冠馬に輝くのだろうか。
ファンファーレが鳴り、ゲート入りが進む。
この日の京都競馬場は午後から小雨が降りだして、馬場状態は稍重と発表されていた。
15頭がゲートに収まり、一瞬の緊張が訪れる。
ゲートが開く。
1周目の3コーナーまでのポジション争い。
3枠4番、赤い帽子のナリタブライアンは中団やや前目にポジションを取ろうとしている。
同じ赤い帽子の5番スティールキャストと13番ウインドフィールズの2頭が先行争いをしながら、3コーナーをカーブしていく。
隊列が決まって、1周目のスタンド前を15頭が駆けていく。
ヤシマソブリンと坂井騎手はナリタブライアンのちょうど前、6番手あたりを進んでいる。
芦毛の馬体のラグビーカイザーと柴田善臣騎手は、ぴったりとナリタブライアンをマークするようにすぐ後ろにつけ、その内側に京都新聞杯で大番狂わせを演じたスターマンと藤田騎手。
岡部騎手とエアダブリンは、後方3,4番手から虎視眈々と追走している。
先頭の赤い帽子が2コーナーに差し掛かったところで、異変に気付いた大観衆から歓声が上がる。
スティールキャストがぐんぐんと後続を離していく。
5馬身、10馬身、15馬身……
絶対的な力を持つ馬が敗れるとき。
その展開のパターンは、一瞬の切れ味で出し抜けを喰らったときか、他馬の徹底マークに遭って大逃げする馬を捕まえに行けなかったときが多い。
まさか……
しかも、スティールキャストの母は、昭和55年、まだ距離が3,200mだった時代の天皇賞・秋を柴田政人騎手とともに逃げ切った名牝・プリティキャストである。
──大丈夫か、ブライアン。
向こう正面から騒然となるスタンド。
3コーナー過ぎで、その差は20馬身以上に開いていた。
全馬が初体験の3,000mの距離は、やはり波乱を巻き起こしてしまうのか?
だが、南井騎手は落ち着いていた。
3コーナーの下りで差を詰めていくと、外目に持ち出して徐々に進出していく。
その手綱は、確信に満ちていた。
直線を向いても、まだ先頭はスティールキャスト。
その外からヤシマソブリンとウインドフィールズが交わしにかかる。
白いシャドーロール、ナリタブライアンは一番外から来た。
南井騎手の手綱には、まだ十分な手ごたえがありそうだ。
残り200mのハロン棒を通過するとき、ナリタブライアンは内をまとめて交わして先頭に立った。
脚色が、違う。
残りの直線は、「三冠」への花道となっていた。
関西テレビアナウンサー・杉本清氏は、
「弟は大丈夫だ。
弟は大丈夫だ。
弟は大丈夫だ」
と連呼した。
半兄・ビワハヤヒデが、前週の天皇賞・秋で競走中に左前屈腱炎を発症したことに寄せた実況だった。
南井騎手の右鞭に応え、脚色を伸ばすナリタブライアン。
たちまち3馬身、4馬身と差が広がっていく。
もう間違いない、三冠馬誕生の瞬間だ。
ナリタブライアン、1着。
栄光の三冠目のゴールは、とどめの7馬身。
勝ちタイムは、3分4秒6。
前年に兄・ビワハヤヒデが刻んだレコードを、さらに0秒1更新する菊花賞レコード。
2着にヤシマソブリン、そして3/4馬身差の3着には後方から追い込んできたエアダブリン。
ナリタブライアン、皐月賞、日本ダービーに続いて、菊花賞を制す──それはすなわち、平成という時代が、初めて三冠馬を得た瞬間だった。
菊花賞を勝ち、平成最初の三冠馬となったナリタブライアンは、その年の暮れのG1・有馬記念で古馬と初対戦。ここでも圧勝し、年度代表馬の栄誉に浴する。
翌年3月のG2・阪神大賞典でも「単勝元返し」1.0倍のオッズで7馬身差をつけて古馬をねじ伏せる。その後、大目標である春の天皇賞に向けて調整が進められたが、右股関節炎を発症しナリタブライアンは休養に入ることになる。
半年以上の休養の末、同年の秋に復帰したが、天皇賞(秋)12着、ジャパンカップ6着、有馬記念4着と悶える。
6歳の初戦、G2・阪神大賞典で前年の年度代表馬・マヤノトップガンと史上に残るマッチレースに競り勝ち、復活の凱歌を上げたものの、続く天皇賞(春)ではサクラローレルに差されて2着に敗れる。
そして同年から「桶狭間の電撃戦」にリニューアルしたG1・高松宮杯に出走。
三冠馬のスプリント戦への出走は多くのファンの物議を醸したが、結果は4着と惜敗。
このレースの後に屈腱炎を発症し、ターフを去ることとなった。
マヤノトップガンとの名勝負もあったものの、4歳の三冠レース出走時に見せたような豪脚が古馬になって鳴りを潜めたのは、やはり股関節炎が影響していたのだろうか。
故障がなければ、古馬になってあの豪脚がどこまで突き抜けていたのか、ファンの妄想は尽きない。
引退後、大きな期待を背負って種牡馬入りしたナリタブライアンであったが、わずか2世代の産駒を残しただけで平成10年に鬼籍に入った。
それは、あまりに早すぎる別離だった。
されど、ナリタブライアンが紡いだ三冠馬の系譜は、そのまま時代を彩る系譜でもある。
その三冠馬の系譜を、冒頭の棋界の大名人の系譜とともに少したどってみたい。
日本競馬史上初めての三冠馬となったのは、昭和16年のセントライトだった。
戦争の影が色濃くなる世相の中で、日本競馬史上初めての三冠馬となり希望を灯した。一方で昭和13年、棋界において初の実力制名人の座に就いた、木村義雄名人。第一人者として圧倒的な棋力を誇り、江戸時代から連なる世襲制から実力制に変更となった「名人」の称号を得て、のちに「十四世名人」を襲位した。
昭和27年に木村義雄名人を破り、名人の座についたのが大山康晴名人だった。驚異的な終盤の粘りと受けの強さ、そして盤外戦を含めて無類の強さを誇り「十五世名人」を含めて5つの永世称号を獲得するなど、大山時代を築いた。
昭和39年、戦後初の三冠馬に輝いたシンザン。
「鉈の切れ味」と称された走りで、デビューから19戦すべて連対。
天皇賞と有馬記念も制して五冠馬と称され、種牡馬入りしてからも優秀な産駒を輩出。「シンザンを超えろ」というよく知られたキャッチフレーズが示すように、長い間多くのホースマンの目標となった。
高度経済成長期も終わりつつあった昭和47年。
大山康晴名人を破り、初の名人位に就いた中原誠名人。棋風は号して「自然流」。9期連続で名人位を防衛するなど「十六世名人」とともに5つの永世称号を獲得し、大山名人以後の棋界を従えた。
シンザンから19年後の、昭和58年。
ミスターシービーが、シンザン以来三頭目となる三冠馬に輝く。最後方から追い込んでくるドラマチックな脚質、そして負ける時はあっさりと負けるレースぶりに、多くのファンが魅了された。
同じく昭和58年。
中原誠名人を破り、史上最年少で名人位を襲位したのは谷川浩司名人だった。終盤の寄せの早さから「光速の寄せ」と称され、棋界に新しい風を巻き起こし、名人位5期獲得により「十七世名人」の資格を保持する。
ミスターシービーの翌年、昭和59年。
「皇帝」と称されたシンボリルドルフが史上初めて無敗で三冠を制し、二年連続で三冠馬が誕生した。好位から抜け出すスキのない競馬で、その後も有馬記念2回、天皇賞・春、ジャパンカップと7つのG1レースを制するなど活躍し、史上初の「七冠馬」と称された。
時代は昭和から平成に移り、冒頭の平成6年。
初めて名人位のタイトルを獲得した羽生善治名人の活躍は、社会現象にまでなり、「十九世名人」を含む「永世七冠」の資格を得るという前人未到の記録を成し遂げる。
──そして、同年のナリタブライアンである。
それから約10年後の平成17年には、ディープインパクトが史上6頭目の三冠馬に輝く。無敗での達成は、シンボリルドルフ以来、史上2頭目であった。主戦の武豊騎手が「空を飛んでいるよう」と表現したその走りで、どの勝利も印象深い7つのG1タイトルを獲得し、種牡馬としても大成功を収めた。
一方、平成19年に森内俊之名人は通算5期目の名人位防衛に成功し、これにより「十八世名人」の資格を得た。その重厚な受けと手厚い差し回しは、大名人の系譜に連なる強さだった。
そして平成23年、東日本大震災による震災禍に沈む日本に現れたのは、史上6頭目の三冠馬である「暴君」オルフェーヴルだった。
コースを逸走したり、ゴール後に騎手を振り落としたりしながら、凱旋門賞でも2年連続の2着に入るなど、規格外の走りでファンを魅了した──。
昭和から平成へ、そして令和へと紡がれる三冠馬の系譜。
現在のおいては、長距離レースの価値の低下や、距離適性を重視するために菊花賞を回避したり、あるいは凱旋門賞の挑戦など3歳の秋には海外遠征も選択肢に入ったりする時流となっているのも事実である。
令和の時代に、「三冠馬」は現れるのだろうか。
それは、今後もサラブレッドの走りに魅せ続けられることでしか、分からないのだろう。
されど、ナリタブライアンの戦った三冠レースの栄光は、平成という時代が終わり新しい時代を迎えても、色褪せることはない。
それは、歴代の三冠馬の記録と記憶と、同じように。
今年も、菊花賞が、やってくる。
写真:かず