2017年11月25日、豪州のオーナーより、1頭の競走馬の死亡が発表された。
アドマイヤデウス号 牡6歳
父 アドマイヤドン
母 ロイヤルカード
JRA戦績 22戦5勝(GⅡ 2勝)
それは自身が豪州馬として予備登録していた、JCの前日の夜であった。
豪州に移籍後、一度も走ることなく、道半ばで彼の馬生は幕を閉じた。
当初、突然の報せをにわかに信じることができずにいたが、思い返せば彼に驚かされたのは、これが初めてのことではなかった。
2度にわたる骨折からの復帰、転厩に海外移籍。その競走生活は、怪我や環境の変化との闘いでもあったと思う。
2013年 2歳
応援馬が繁殖に上がり、産駒達を応援する。
その子たちは、時に親の果たせなかったタイトルを手にし、時に道半ばで退いた親の夢の続きを見せてくれる。
──そういった夢が子へ孫へ、脈々と続いていくところに、私は競馬の魅力を強く感じる。
私の場合、その楽しみを教えてくれたのは、アドマイヤドンとアドマイヤデウスの父子だ。
初めて好きになった競走馬、アドマイヤドン。種牡馬になったのち、韓国に輸出されていた。産駒数こそ数少なかったが、競馬場に行ったときにはレープロの中に “父 アドマイヤドン”の馬を探して、応援馬券を買うのが楽しみであった。
私がアドマイヤドンの子・アドマイヤデウスを初めて見たのは、東京競馬場ターフビジョンに映し出された、京都にいる彼の姿だった。
“京都5R 2歳未勝利 がんばれ 11アドマイヤデウス”
特に気に留めることなく、アドマイヤドン産駒の応援馬券を買った。
ターフビジョンに、ゲート入り前の輪乗りの様子が映し出される。
想像とは真逆の、派手な馬が父と同じメンコを付け、同じ勝負服を背負っていた。
明るく輝く栗毛馬。鼻を覆う大作が大きく伸び、下あごまで白かった。4本脚はハイソックスを履いていて、ひざまで達しているものもあった。
父であるアドマイヤドンは、鹿毛の馬体。
控えめの流星に短いソックス2本と、おとなしい見た目の馬であった。すっかり父に似た見た目の息子の姿を想像していた私は、大好きな父に全然似ていないその姿に──驚きからか──心をつかまれてしまった。
結果は2着。
勝利はならなかったが、私がアドマイヤデウスの姿と名前を忘れることはなかった。
2014年 皐月賞
“派手な見た目の、ドンの子”は地道に勝利を重ね、皐月賞に出走。
「アドマイヤドン産駒、最初で最後のクラシック出走!?」
アドマイヤドン産駒としてのアドマイヤデウスに、私は夢を見ていた。胸を躍らせ、中山競馬場に赴く。
初めて間近に見る、アドマイヤデウス。
四白大作のその姿は目立つものがあった。
美しい馬体に感動したと同時に、やはり父にまったく似ていない容姿。“アドマイヤドン産駒?”と、改めて不思議な気持ちにもなっていた。
結果は9着。意気消沈しつつも「初めて走った重賞、次がある」と、次走こそはという思いとともに、ダービーの日を待った。
2014年6月 日本ダービー後、骨折
2014年クラシック世代。
当初、フジキセキのラストクロップとして期待と注目を集めていたイスラボニータ。皐月賞を二番人気で制覇し、ダービーでは一番人気に推されていた。そんな中アドマイヤデウスもまた、“影のラストクロップ”であった。
ここで、父のアドマイヤドンについて、少し書き出したいと思う。
父 アドマイヤドンについて
アドマイヤドン
父 ティンバーカントリー
母 ベガ
25戦10勝 (G1・7勝)
戦績自体は、ダート15戦7勝・芝10戦3勝とダートの方が良い。2歳時に芝の朝日杯を無敗で制したが、その後のG1・6勝は、すべてダートG1である。
しかし、ダートG1・6勝の後 “ダート国内無敵”と謳われている中で「ダートより芝の方が良い動きをしている」と、突然の芝転向を発表し2004年有馬記念に出走したことがあった。(いま思えば、アドマイヤドン自身もファンを驚かせる馬であった)驚きはしたが朝日杯の勝利と菊花賞4着の実績を考えれば、アドマイヤドンの芝適性に疑問はない。しかし結果は7着に終わる。
その後3戦を凡走し、2005年に引退。引退後、開腹手術を受けながらも種牡馬生活を過ごす。偉大な戦績を持つ種牡馬だが“ダート馬の子はダート馬”と、芝は不向きのイメージが付きまとっていたように感じる。 産駒たちもダートを舞台に走る馬が圧倒的に多く、勝利数も伸び悩んだ。アドマイヤドンは、2010年の種付けを最後に、韓国に輸出された。
話題にのぼることそ少なかったが、2011年生まれのアドマイヤデウスは、アドマイヤドンの国内産としては「ラストクロップ」と呼べる世代であった。皮肉なことに、韓国出国後アドマイヤドン産駒から、重賞勝利馬アドマイヤデウスとアルバートが誕生。2頭そろって芝G1の常連となるとなるのは、またのちの話である。
アドマイヤデウスの訃報ののち、2017年12月にアルバートはステイヤーズS三連覇の偉業を果たした。アドマイヤドン産駒牡系存続の一縷の望みは、アルバートに残されている。
さて、アドマイヤデウスに話を戻そう。
アドマイヤデウスのクラシック出走は、自身の実力の証明とともに、父アドマイヤドンの芝適性を証明しているようにも見えた。そして、名牝ベガの牡系血統存続の夢を背負っていた。アドマイヤドンの後継種牡馬誕生の、最後の光のようにすら思えた。
皐月賞9着→ダービー7着と地道に順位を上げ、距離が延びる菊花賞こそはと期待した矢先、ダービー出走後骨折の発表で、3歳秋を棒に振ることとなる。
2015年 重賞連勝
骨折休養明けの4歳1月、日経新春杯。
現地にこそ行けなかったが、このときも私は応援馬券を買っていた。
印字された“がんばれ”の文字にこめたのは、勝利より、無事に完走してほしいという願いの方が強かった。ダービーの骨折後だったから。そしてクラシック出走後に降級していった馬を何度も見ていたからだ。
しかし、結果は内をついて鮮やかに完勝。
続くレースは日経賞。レースにむけて、私の期待は高まっていたが、一方で「そう何度もうまくいかないだろう」と自分をいさめていた。そして中山競馬場へ足を運んだ私の目の前で、またしても彼は勝利をおさめた。
鞍上・岩田ジョッキーの巧さが光った前回に比べ、大外を回して勝つという自身の力を示す内容。
4コーナーを追い上げる彼は、真っ白な鼻っ面にブルーのメンコ、白く長い脚を、いっぱいに伸ばし走っていた。目立っていた。探さずとも、「俺はここにいる」と主張しているようにさえ感じた。
一着でゴールを駆け抜けた彼が、中山競馬場グランプリロードに引き上げてきた。西日に照らされ、オレンジ色に輝く馬体。全身にまとった汗が、筋肉の凹凸、血管の隆起を目立たせた。日経賞の優勝レイを首から下げ、歩く姿は勇ましくも美しかった。
目の前で見るその姿に、気が付けば私は、アドマイヤドン産駒としてではなく、アドマイヤデウスを好きになっていた。
2015年~2016年 G1の壁
重賞を連勝し、その力は本物だと認められた。波に乗ったアドマイヤデウスの次走は、天皇賞春。古馬G1への初挑戦に期待したが、大外枠を引いてしまう。
しかし、不利な大外枠順にも関わらず、彼は3番人気に推されていた。ダービー馬キズナ、すでにG1を5勝していたゴールドシップに次ぐ人気を集めていたのである。だが、結果は人気を大きく裏切る15着。前走までに降したメンバーにも、ことごとく先着を許していた。レース後、熱中症と軽度の骨折が発表される。またしても彼は休養を余儀なくされた。
始動は10月、天皇賞秋からJC。この2戦でも、彼は大外枠を引いた。G1の舞台で3戦連続ピンク帽をかぶった馬も珍しい。天皇賞秋15着、JC16着。2015年最後のレース、有馬記念ではようやく5番ゲートに入るものの、7着。4度古馬G1に参戦しながら、一度も掲示板に載るすら叶わず2015年を終えた。
2016年 6戦0勝
この年もG1に3度出走したが、一度も掲示板に載ることはできなかった。
しかし、期待を裏切り続けながらも、彼は見限らせない走りを見せていた。
この年に出走したG2での戦績に目を向けたい。
京都大賞典3着、阪神大賞典3着、京都記念2着。そのすべてで3着以内に入っていたのだ。
その勝ち馬はサトノクラウン、シュヴァルグラン、キタサンブラックと、G1馬か後にG1勝ちを収める馬であった。
彼はG2の舞台では、G1ホースを相手に、劣らない実力を見せ続けていたのである。
ステップレースで見せたこの走りが、G1の大舞台で発揮できればと、もどかしさを感じさせた。
2017年1月 転厩の発表
2016年有馬記念は11着と凡走し、年が明ける。彼は6歳になっていた。
そんな中、突如発表されたのは、橋田厩舎から梅田厩舎への転厩であった。
足元の弱い彼のことなので、環境の変化がどのような影響を与えるか懸念された。しかし、この変化が勝ちきれない彼の活路になれば……と、期待もさせた。
転厩初戦の2017年3月 日経賞(G2)にて3着と好走。つづく2017年4月 天皇賞春(G1)では4着と健闘を見せた。
G1での過去最高の成績の要因は、環境の変化か、心身の成熟か。
大外枠を引き続けるなど、運の向かなかった彼の本領発揮とも思えた。
2017年8月 JRA登録抹消と豪州移籍の発表
2017年の天皇賞春では過去最高着順。
それまで幾度となく出走したG1では、掲示板にすら載れずに感じさせた“G1の壁”を、次こそは突き破れると、次走に胸を躍らせた。
次走目標は、コーフィールドカップを経てメルボルンカップへ、と発表される。
2014年に梅田厩舎所属のアドマイヤラクティがコーフィールドカップを勝利したのち、メルボルンカップ完走後に急死。ラクティは遠く豪州の地に眠っている。
梅田厩舎所属馬として、同じアドマイヤの冠名を背負う馬として──日本に帰ることが叶わなかったアドマイヤラクティの弔い合戦が、アドマイヤデウスの背に託されたようにも思えた。
しかし8月になって発表された新たなプランは、意外なものであった。
豪州へのトレード移籍。
梅田厩舎所属の日本馬としてではなく、豪州馬主・オーストラリアン・ブラッドストック社に買い取られ、ダレン・ウィアー調教師の元、豪州馬としてメルボルンカップを目指すというものであった。
橋田厩舎・梅田厩舎所属時より、豪州への遠征プランは数回持ち上がってはいたが、このような形での挑戦を、だれが予測しただろうか。
2017年10月 故障発生
日本馬の海外移籍が増えた昨今、移籍後に活躍を見せる馬も少なくない。
豪州G1を2勝したトーセンスターダム。2018年2月に豪州G1を制したブレイブスマッシュ。彼ら日本出身馬の活躍も、アドマイヤデウスへの期待に拍車をかけた。
現地メディアは、豪州の空港到着や調教の様子など、彼の動向を細部にわたり報じた。
未出走にも関わらず、次走コーフィールドカップでは彼は1番人気に推されていた。
そんな中、コーフィールドカップを一週間後に控えたある日の早朝、それは発表された。
靱帯断裂。
一週間前追い切りの最中の事故であった。
また、それは海外馬のJC予備登録の発表の日でもあった。日本でのG1奪取の夢は潰えたが、豪州に渡った彼がメルボルンカップを制し、JCに凱旋出走する日を夢にみた。
そのため、予備登録の中に彼の名前を見つけ、悔恨の念に駆られるファンも多かった。
2017年10月 手術成功
当初、命が危ぶまれていると報じられた。しかし骨折ではないため、手術回復後、種牡馬になると発表され、ファンを安堵させた。
しかし、一度安堵させながらも報道は日ごとに二転三転。
一時は競走生活に戻れるとも、獣医師の再診を受け安楽死の処置をする可能性があるとも報じられ──報道は途切れた。
そして、月曜日に安楽死になるか否かの診断が下るとの情報が広がる。しかし公式的な発表はなく、案ずるばかりであった。情報が錯綜し、馬主の沈黙は様々な憶測を呼んだ。
固唾をのんで見守るファン。
彼のファンならずともその動向は注目を集めた。
その後経つこと2日。
水曜日、手術成功の発表に歓喜し、命の無事に安堵した。
2017年11月25日 アドマイヤデウス号 死亡の報せ
重度の故障発生、それを聞いて最悪の事態を覚悟したファンは少なくないだろう。
しかし、アドマイヤデウスは生かされたのである。蹄葉炎等合併症の恐れもあり、手放しで喜べる状態ではなかったが、“命あればこそ”と胸をなでおろした。術後のリスクや回復に費やす長い時間を考えれば、“生かす”というのは難しい選択だっただろう。しかし、それを選んだ彼を取り巻く豪州の環境に、深く感謝した。
それは、アドマイヤデウスの能力、血統への期待の裏付けでもあった。
そして開けた種牡馬への道。
安堵と同時に、まだ見ぬアドマイヤデウス産駒に期待を寄せるようになる。
メルボルンカップが近づくにつれ、豪州はお祭りムードに沸いていた。その舞台に出走できなくなった彼への現地メディアの注目は日に日に薄れ、情報は減っていった。
それでも、豪州に居る日本人競馬関係者が、可能な限り彼の情報を発信していた。彼の近況を知る数少ない便り、頼みの綱であった。
脚光を浴びることはなくなったが、アドマイヤデウスに携わった関係者をはじめ、携わっていない競馬関係者からも、発せられる情報。その短い文字には、日本で彼の身を案ずる人々への、気遣いが込められていたように思う。重度の怪我と闘うアドマイヤデウスは、確かに日本と遠く離れた豪州を繋げていた。
しかし、時折入る術後の経過。“2度目の手術を受けたが、食欲元気ともにあり”、“3度目の手術をうけた”と。しかし再手術という単語は、悪化していく経過を想像させた。
頭をよぎるのは“テンポイント”の名であった。
日経新春杯競走中に骨折。即座に予後不良の診断が下ってもおかしくない、重度のものであったが、テンポイントは手術を受ける。貴公子と称され、 “TTG時代”を築いたテンポイント。トウショウボーイ、グリーングラスと死闘を演じた彼の身を、多くのファンが案じていた。結果は無事成功と発表された。その後1か月にわたり治療を受けたが、蹄葉炎を発症。徐々に衰弱し、力尽きた。ファンの祈りに反する、あまりにも悲しい結末。手術が成功しても、生き延びられるとは限らない。それは、競馬ファンであれば既知の事実であった。
それでも、少ない情報の中で“便りがないのが元気な証拠”であると、ファンはアドマイヤデウスの回復を祈りながら待ち続けた。私自身、そう信じていたし、信じたかった。
そんな中2017年11月25日、アドマイヤデウス号死亡が発表された。
日本から遠く離れた豪州の地で、彼はすでに闘いを終えていたのだった。
アドマイヤデウス訃報、その後
アドマイヤデウスが目指し、立つことができなかった舞台、メルボルンカップ。
異母兄弟のアルバートにメルボルンカップを目標とした遠征プランが持ち上がっている。父の血の存続、自身の実力の証明のため、無事に頑張ってほしいと願う。
アルバートに、アドマイヤデウスの夢の続きを託すのは、お門違いの話かもしれない。しかしながら私が、彼のその走りに少しばかり、アドマイヤデウスの面影を重ねてしまうことを、容赦してほしいと思う。
2018年2月、ブレイブスマッシュが豪州G1を制覇した際、その調教師ダレン・ウィアー氏は、アドマイヤデウスの名を口にした。「ブレイブスマッシュも、トーセンスターダムも素晴らしい馬で、軽視などしていない。しかし、アドマイヤデウスはより素晴らしい馬だった。亡くしてしまったのが残念だ」
遠く異国の地で逝った、アドマイヤデウス。ダレン氏の言葉に、その闘いは決して孤独ではなく、日豪の人々に囲まれた、あたたかいものだったのではないかと感じている。
競馬に「たられば」は禁物だが、アドマイヤデウスほどそれを口にしたくなる馬も珍しいのではないだろうか。
それも彼の魅力の一つなのだろう。2度の怪我を克服し、2か国3つの厩舎に所属した競走馬など、そういない。
懸命に走り続ける彼は、勝てずとも決して挫けなかった。そのひたむきな走りに、何度もビッグタイトルを夢に見た。
度重なる怪我からの復帰。手術を受けながら、異国の地で闘う姿に励まされた。過酷な状況下にも関わらず、何度も立ち上がる彼に、エールを送らずにはいられなかった。G1勝ちこそないものの、その姿を今後も語り継ぎたい。
道半ばで幕を閉じたアドマイヤデウスの馬生は、その戦績では測れない偉大なものであると。