父と伯父と息子の物語・ミッキースワロー

2011年10月30日。
ある1頭の鹿毛馬が、最強女王を従え天皇賞を制した。
そのレコードタイムは日本記録となった。

2012年5月27日。
その弟が、兄の辿り着けなかった夢の舞台で惜しくも3着に敗れた。
屈腱炎を発症した彼は偉大な英雄の後継として、息子へ夢を託してスタッドイン。

時を同じくして同年、ひとりの少年が競馬学校の門を叩いた。無事に合格した彼は、伯父を目標とすると誓った。

そんな事からミッキースワローの物語は始まる。

期待の良血馬も、ダービーは断念。
乗り替わりで秋の飛躍を目指す。

ノーザンダンサーの4×4×5。
曾祖父にサンデーサイレンスにノーザンテースト、トニービンと超のつく名種牡馬たち。祖父にディープインパクトとジャングルポケットというダービー馬2頭。祖母ツィンクルブライドはあのオグリローマンが勝利した桜花賞で2着。

そして、近親には天皇賞秋レコード保持者・トーセンジョーダン。
父は、ダービー3着馬・トーセンホマレボシ。

活躍馬で塗り固められた純金のような血統を持つ1頭の牡馬が、2014年2月26日にノーザンファームで生を受けた。

野田みづき氏によって、セレクトセールにて2600万円で落札されたものの、父の脚部不安を受け継いだか、成長段階では体質が強くなく、デビューは3歳の2月。
結局、同世代の実力馬たちがクラシックへ向けて本格始動する弥生賞の、前週までずれ込んだ。

その背中には、彼の父が引退した2012年に競馬学校を受験した菊沢一樹騎手が跨る。

1000m66秒の超スローペース、4角最後方で大外ぶん回し、直線物見しっぱなしという、並の馬なら大敗を覚悟するようなレースぶりだったが、34.3というという驚異的な上りを繰り出し5着入線。
さらにその次走で、あっさりと初勝利。
返す刀で1勝クラスを連勝すると、父が3着に敗れた夢の舞台でその雪辱を果たすべく、クラシックトライアルへ。人馬共に初の重賞挑戦となる京都新聞杯に遠征するが、ここでは先行して最後甘くなり5着に敗れ、ダービーは断念となった。

次走の自己条件も脚を余しまさかの3着と連敗すると、管理する菊沢隆徳調教師は、スワローの手綱を息子から義理の兄第である横山典弘騎手へ渡し、菊花賞トライアル・セントライト記念への挑戦を表明した。


9月に入るとサマーシリーズも終わり、実力馬が続々と秋のタイトルを見据えステップレースで始動を開始。いよいよ秋のG1戦線の雰囲気を感じずにはいられない時期となってくる。

そして鮮やかな秋晴れに恵まれた9月18日の中山競馬場。
皐月賞馬アルアインが、菊を見据えてセントライト記念に出走してきた。
人気は、出走馬で唯一のG1馬という事も評価されてか、抜けた1.7倍の1番人気に支持され、その後ろの2番人気に続くのがミッキースワローだった。

歓声に包まれたスタンド前でゲートが開くと、ハナを主張するサンデームーティエの内から藤岡佑介騎手が出鞭を叩いて前へ行く。

しかし結局サンデームーティエが行ききり、2番手にはスティッフェリオがつけ、クリンチャーはその後ろの3番手。アルアインは皐月賞と同じく4,5番手で抜け出す時をじっと窺う。

その皐月賞馬を獲物の動きを待つハンターのように構えて、ミッキースワローと横山典弘騎手は真後ろにポジションをとった。

1000mは61秒8と、相変わらずのゆったりとした流れ。
そして3,4コーナー中間で人気4頭が一気に先頭めがけて動いてくる。

しかしそれでも、横山典弘はまだアルアインの後ろから離れず虎視眈々と、襲撃の機会を狙って直線へ向かう。

直線、苦しくなったサンデームーティエに代わってスティッフェリオが先頭に立つ。さらにその後ろからアルアインが、内にいたクリンチャーとサトノクロニクルごとまとめて交わして先頭に立とうとする──その刹那。

外から赤い帽子が、先頭集団を撫で切った。

一瞬の抵抗を見せた皐月賞馬をいともたやすく突き放すと、あとは重賞制覇のゴールまで駆け抜けるだけ。
上がり最速の33.4秒で菊への出走を確実なものにした。

その翌週、神戸新聞杯を制したダービー馬レイデオロは、菊花賞でなくジャパンカップへ直行することを発表
それにより依然混戦模様の様相を呈する菊絵巻。
ミッキースワローも、その有力馬の1頭にあがる。それほど鮮烈な勝ちっぷりだった。

菊花賞での敗北、そして苦難の4歳シーズンへ。

そして迎えた10月22日の本番、菊花賞。
しかし台風21号が無慈悲に淀の舞台を襲う。

なんとか開催はできたものの、槍のように降りしきる雨の影響でもはや泥だらけの不良馬場。

しかしそれでも、スワローは懸命に死力を尽くして走った。
直線で前を行くダンビュライトとクリンチャーに並びかけ、伸びる。
なんとか先頭をとらえるか思われたその瞬間、外からキセキが先頭集団を一気に交わし去っていった。

このレースの勝ちタイムは3.18.9。
同じ不良馬場の2013年と比較しても13秒7遅い。
それどころか同年キタサンブラックが記録した3200mのレコードより6秒4も遅い。

ある意味『異次元』とも呼べる、超不良馬場で、幼いころから体質不安を持っていた彼が無事に駆け抜けたのである。これは大きな成長を感じられる結果でもあった。レースは6着に終わったが、誇っていいことだろう。

翌年、4歳になったスワローは、アメリカジョッキークラブカップで始動。
菊花賞を乗り越え、飛躍の1年にしたい4歳シーズンになる。

──しかしミッキースワローに待っていたのは、苦戦の連続だった。

ダンビュライトの2着に終わったこのレースから、1年間未勝利に終わるのである。
大阪杯5着を挟んだ休養明けの札幌記念は、直線前が塞がりっぱなしの13着。
ジャパンカップはアーモンドアイを上回る33.9の最速上がりを繰り出すも5着
ならば実績のある中山ならと期待した有馬記念では11着と、ツキもなかったが勝てないレースが続く。

さらに翌年5歳シーズンは、新潟大賞典・エプソムCと使うが連敗。
G1・G2を使ってきたなかで、初のG3出走と路線変更したものの、勝ち星にはどうしても恵まれなかった。

そんな陣営が次に選んだレースは、七夕賞。
菊沢一樹騎手とのコンビ再結成が発表された。
奇しくも重賞を勝つ直前、最後に手綱を取った福島の地での再会であった。

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