ダンスディレクター〜史上初のシルクロードS連覇、2年越し8歳にして辿り着いた最高の舞台~

2018年3月25日、中京競馬場のパドックには馬番11の8歳馬が登場した。
身にまとう濃い青のゼッケンには「ダンスディレクター」あるいは「DANCE DIRECTOR」の文字。
彼はようやく──本当にようやく、悲願の高松宮記念出走を果たしたのだった。

前走は、2017年末の阪神カップ。引退レースであったイスラボニータとの競り合いの末ハナ差の2着に敗れた。それから、放牧に出されるも1月中に帰厩。前哨戦として阪急杯を使うプランもあったというが自重し、高松宮記念直行を選択した。
1週前追い切りでは横山典弘騎手が栗東トレーニングセンターの坂路を駆けた。直前追い切りは、同じく坂路にて若い3歳馬を相手に併せ馬を行い3馬身先着。そのようにして、仕上がった442キログラムの馬体はターフで踊るのだった。

上述の文章に何か問題があるだろうか。副詞が殊更多いことには気づくかもしれない。しかしこれは決して極端な形容ではないのだ。彼は「2年越しの高松宮記念出走」を叶えたのだから。


ダンスディレクターは、ダービー馬ウイニングチケットやエイジアンウインズで知られる太田美實氏が所有。2010年生まれでキズナ世代である。
そんなダービーから2週間後の2013年6月8日、阪神競馬場の未勝利戦で浜中俊騎手とともに参戦。後続に3馬身半離しての圧勝で勝ち上がりを果たした。続いて500万円以下(現:1勝クラス)も連勝で制した。
その後、出走するたび1番人気の支持を集めるも、2着4回など順調に勝ち上がることができなかった。1000万円以下(現:2勝クラス)では降級も経験。条件戦突破には12戦を費やし、5歳初めの2月、ついに5勝目を挙げた。
オープン競走そして重賞初出走である京王杯スプリングカップこそ4番人気に支持されて12着と凡走となったが、続くCBC賞でウリウリに半馬身差に迫る2着。阪神カップでもロサギガンティアにハナ差届かず2着と重賞でも好走を見せ、重賞タイトル獲得の目処はついていた。

待望の重賞制覇

2016年1月31日、6歳となって初戦に選択したのは、シルクロードステークス。京都競馬場はこれまでの5勝中4勝を挙げている相性の良い舞台であった。阪神カップで3着に下したビッグアーサーが2.1倍の1番人気。それに次ぐ4.4倍の2番人気の支持で出走した。

最内枠からスタートし、最も内側の好位に取り付く。5番人気のローレルベローチェが単独で3馬身近く千切り、果敢に逃げる。ビッグアーサーは中団待機を選択した。
大勢は変化することなく、最後の直線へ。ダンスディレクターの前で進めたセカンドテーブルが外に開いた瞬間、浜中俊騎手の合図に応じ内から抜き去った。ぐんぐんと加速すると、逃げ粘っていたローレルベローチェを楽々とかわし、先頭に。ビッグアーサーなど差し勢がいまだ後方で伸びあぐねていることを騎手が確認すると、流したまま入線、重賞勝利を果たした。
実は、浜中騎手は1週間前に、騎乗したマーキークラブが突然逃避し外ラチに飛び越えて競走中止。落馬し左上腕打撲の診断を受けていた。腕を上げると痛みが生じるため、薬を投与しながらの重賞勝利だったのである。

陣営は、高松宮記念への出走を表明。主戦の浜中騎手は、ミッキーアイルに騎乗する先約があったため(負傷により結局松山弘平騎手が騎乗)、新たに横山典弘騎手を配しての参戦が決定した。
しかし、調教の際に左前脚の歩様に異常をきたして出走を回避。診断は深管骨瘤、一部では筋肉痛との報道があった。その後、福島県いわき市のJRA競走馬総合研究所常盤支所(現:競走馬リハビリテーションセンター)や宇治田原優駿ステーブルで放牧、長期の戦線離脱を余儀なくされた。

再びたどる「シルクロード」

ダンスディレクターの復帰は、秋のセントウルステークスだった。2戦目にはGI初出走のスプリンターズステークスに出走するも、4番人気でブービー賞15着と惨敗した。それでもスワンステークスにて4着、武豊騎手に乗り替わった前年2着の阪神カップでも4着と重賞でも再び好走を見せるようになる。

7歳となった2017年1月29日、ダンスディレクターは前年に続きシルクロードステークスに参戦。前走京阪杯で勝利したネロとともに57.5キログラムの斤量を背負った。人気はネロ、明け4歳ながら重賞2勝のソルヴェイグが共に3倍台で接近。それに続く6.7倍の3番人気という支持であった。
5枠という中枠から好スタートを切る。武豊騎手は先手を主張するソルヴェイグやネロ、セイウンコウセイなどをよそに控えることを選択、中団後方に位置した。ハナ争いはソルヴェイグに軍配、その他はソルヴェイグの後ろにつけ先行集団を形成した。
先頭は前半の600メートルを33.9秒で通過する。ダンスディレクターは10番手あたりから徐々に外に進路を持ち出した。
大勢は変わらず最後の直線へ。外目に持ち出したダンスディレクターは、残り200メートルから武騎手の左ムチに応えて末脚を見せて強襲。先行集団から一足先に抜け出しを図るセイウンコウセイをクビ差ばかり差し切り先頭で入線。史上初のシルクロードステークス連覇を達成したのであった。

重賞を2勝し、再び高松宮記念における有力馬の一頭となったダンスディレクター。
──しかし、余りに残酷な試練が彼に乗りかかることとなる。
高松宮記念1か月前の2月下旬、左第1指骨剥離骨折が判明したのだった。またも高松宮記念のゲートは遠ざかってしまったのである。
管理する笹田和秀調教師も「高松宮記念に縁がないのでは」と漏らすほどであった。

高松宮記念の舞台

復帰は、前年と同じ秋のセントウルステークスであった。
2年連続で歩んだ阪神カップからシルクロードステークスというローテーションを選択せず、連覇中のシルクロードステークスへの出走することはなかった。当初は、阪急杯を使う計画もあったが、最終的に高松宮記念へ直行することに。
このようにして、「2年越しの高松宮記念」出走を果たしたのだった。

ファンは8.1倍の4番人気に推し、念願のゲートイン、問題ないスタートを切った。中団に控えて、最後の直線で馬場の内側を選択し、差し切りを試みた。
しかし、懸命に伸びを見せていたものの、前を行くレッツゴードンキを捕らえることはできず、4着に敗れた。

その約1馬身前、先頭で入線したのはファインニードル。ダンスディレクターが不在のシルクロードステークスを制覇した直後のGI優勝だった。ファインニードルはその後、セントウルステークスを連覇。スプリンターズステークスを制してその年のJRA賞最優秀短距離馬に輝くなど、スプリント界の一時代を築くことになる。


ダンスディレクターは京王杯スプリングカップに進み、4.9倍の1番人気に支持されるも15着に敗退。その後の長期休養から復帰することなく、8歳の12月静かにターフを去ったのだった。

重賞で強さを見せた直後、怪我に苦しむという2年間。
皮肉にも欠場した高松宮記念では、シルクロードステークスで下したビッグアーサー、セイウンコウセイがGIの栄冠に輝いている。そのため、もし順調に出走できていれば、GI制覇していただろうという主張も容易に受け入れられる。

しかしそれ以上に、トップハンデながら鮮やかに差し切り史上初の連覇を達成したシルクロードステークスや、高松宮記念に出走し自身の過去に清算する姿に心を奪われたファンも少なくはないだろう。

写真:Horse Memorys

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