北の大地のドリームレース。札幌記念の価値を高めたエアグルーヴ

「札幌記念をGⅠに」

名伯楽・伊藤雄二は調教師時代、何度もそんな主張を口にしている。もちろん、自身が夏の北海道滞在を楽しみにしていたという面もあるが、やはり本州より涼しい北海道で長距離輸送をせずに出走できる環境は、馬にとって負担が少ない。馬優先を貫く伊藤雄二が北海道を愛した理由はここにある。いかに馬が気分よく、心身とも新鮮な状態を保つことができるか。伊藤雄二が示した馬づくりは、着実に現代競馬へつながっている。出走回数を抑え、効率よく勝ち星を重ね、長く競走生活を送る。もはや常識となっているこのメソッドは伊藤雄二の信念でもあった。

確かに世界に目を向けると、真夏はリゾート地、いわゆる避暑地での競馬開催が多い。フランスのドーヴィル、アメリカのサラトガは代表的存在であり、ドーヴィルにはシーキングザパールが勝ったモーリスドゲスト賞、タイキシャトルのジャックルマロワ賞といったGⅠがあり、サラトガではドラヴァーズステークスが行われ、夏競馬の中心を担っている。日本でそんなイメージに近いのが札幌記念だ。夏競馬唯一の定量GⅡ戦。毎年、天皇賞(秋)や海外遠征を目指す実績馬たちの始動の場となっている。もちろん、涼しい北海道とはいえ、夏に実績馬を立ち上げ、GⅠに挑む状態までつくるのは簡単ではなく、無理にGⅠ昇格せずともという意見もある。

それでも札幌記念をGⅠにしてはどうかと語った伊藤雄二の真意はなにか。ひとつは夏の北海道開催を盛りあげなければという使命感ではなかった。函館も札幌も開催は夏しかない。にもかかわらず、現在、それぞれ8週間から6週間に開催が短縮された。中央場所を重視するJRAの方針によるものだ。この短縮は伊藤雄二の現役時代とは重ならないが、薄々そんな空気に気づいていたのではないか。この流れに抗うために真夏のGⅠが必要だと考えたかもしれない。もうひとつは、秋に向けて馬を涼しい北海道で立ち上げ、万全の状態でGⅠに向かうメリットもあった。それを見事に証明したのがエアグルーヴだ。

天皇賞(秋)が芝2000mに変更された1984年以降、前走が札幌記念だった馬は2023年まで4勝をあげているが、その最初がエアグルーヴだった。札幌記念から天皇賞(秋)は中9週と間があく。当時は毎日王冠や京都大賞典から中3週で本番へというローテが主流であり、札幌記念では間隔があきすぎると目されていた。伊藤雄二はその常識を破り、中9週はむしろ馬によっては最適解であると示した。デビュー2戦目で牡馬に勝る牝馬だと確信した伊藤雄二は、より慎重にエアグルーヴを管理していった。なにがきっかけで才能の芽を摘んでしまうかわからない。軽度の熱発での桜花賞回避などはその代表例。走る馬ほどその扱いは難しい。表裏一体がサラブレッドの常。とてつもないポテンシャルがあれば、馬体の限界以上に走ってしまいかねない。そうなれば、故障のリスクは高まり、気持ちの糸が切れてしまう。

4歳(当時5歳)シーズンは秋華賞以来の故障明けでもあった。慎重にならざるを得ない状況である反面、心身とも充実期を迎えるこの年は、エアグルーヴにとって勝負の年でもあった。その最大目標は天皇賞(秋)。東京芝2000mなら、牡馬の一線級と戦っても負けないはず。伊藤雄二はそう踏んでいた。その確信を得る意味でもこの年からGⅡに格上げされた札幌記念は最適だった。ここにはひとつ年上のGⅠ馬で2年前の天皇賞(秋)2着ジェニュインが出てくるからだ。人気はエアグルーヴ1番人気、ジェニュインは2番人気。人気は上回るも結果はわからない。もしもジェニュインに完敗するようなら、天皇賞(秋)出走に踏み切っていたか。

だが、それは仮定の話にすぎない。エアグルーヴは札幌記念を勝った。中団で流れに乗り、背後をジェニュインにとられるも、追撃のスキを一切与えなかった。2着エリモシックに2馬身半、4着ジェニュインには0秒5と着差をつけた。骨折休養明けから2戦目であり、まだまだ仕上げ途上のエアグルーヴがみせた圧勝劇は伊藤雄二に天皇賞(秋)への自信を与えた。本番まで中9週。札幌記念での消耗を回復させ、そこからエアグルーヴを最高の状態に仕上げるには、これ以上ない期間だった。競馬を使って維持し、少しずつ上向かせれば、目に見えない疲労も同時に溜まっていく。エアグルーヴにそんな調整過程は合わない。もちろん、そういった仕上げで強くなる馬もいる。そんな個体差をとらえ、最適な形でレースへもっていく。エアグルーヴの札幌記念から天皇賞(秋)という道にはそんな意味がある。

以降、札幌記念からの中9週は常識となりつつある。2005年には同じ牝馬のヘヴンリーロマンスが連勝し、トーセンジョーダンはこのローテで天皇賞(秋)1.56.1のレコードを記録した。2016年にはモーリスが札幌記念2着から本番を勝ち、中距離GⅠ初制覇を遂げた。またハープスターとゴールドシップが凱旋門賞の壮行レースに札幌記念を選ぶなど、札幌記念の位置づけは明らかに変わった。伊藤雄二とエアグルーヴが札幌記念の価値を高めたといっていい。

今では中9週というローテーションはおろか、直行ローテが主流となりつつある。完全に疲れを抜くステージとそこから競馬に向けて体をつくるステージ。きっちりと区切られた馬づくりの過程が日本競馬を二歩、三歩と前進させた。心身の充実、疲労の軽減が最高のパフォーマンスへの道となる。エアグルーヴはその象徴でもあった。

馬産地北海道には心から競馬を愛するファンが多い。札幌記念はGⅠ級を目にできるまたとない機会であり、北の大地は今年も札幌記念を心待ちにしている。そして、ここからGⅠを、いや世界を制する馬があらわれることを願ってやまない。いずれ世界のホースマンが札幌記念に注目するときが来るかもしれない。

写真:かず

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