清秋の京都開催を迎え、本格的なG1シーズンが到来すると競馬場のボルテージは俄然高まる。京都大賞典を皮切りにファンは毎週のように列を為し、開門と同時に我先にと思い思いの特等席に急ぎ足で歩を進める。
南東を向いたスタンドに座って眩しい朝日を真正面から浴び、煌めく水面に目を細めながらターフビジョンで放映される過去のVTRを眺めていると、私の心にあの日、あの時の熱気の記憶が蘇る。朝のうちにライスシャワーの碑に手を合わせ、馬頭観音像に全馬の無事を祈り、ターフィーショップの特設ブースを覗き見て、ささやかな応援馬券を購入し、自販機で一杯のコーヒーを飲む頃には、日々の仕事と早起きで疲れていたはずの心身がすっかり瑞々しさを取り戻している。
そんな秋の京都開催で4つ行われるG1競走のオープニングを飾る秋華賞は、芝内回り2000mの難しさも相まって激しい戦いが繰り広げられる。
春のクラシックが咲き誇る花の下で才能を披露しあう天才少女たちの煌びやかな社交の場だとすれば、秋の大一番は真の強さを身に着けた大人の女性が繰り広げるタフな戦場の趣を帯びる。それ故か、秋華賞を制する馬は世代の代表として牡馬に交じってタイトルを奪取し、あるいは世界の大舞台へ羽ばたくものも少なくない。
2005年の牝馬クラシック。春の主役を務めたのはラインクラフトとシーザリオという傑出した2つの才能だった。前者は桜花賞とNHKマイルCを制して変則2冠を達成し、後者は今なお語り継がれる"Japanese super star!"という絶叫に送られて日米オークス制覇を達成。今は無きハリウッドパーク競馬場にその名を刻んだ。
そんな才媛揃いの世代に於いて、春の惜敗を糧に牙を研ぎ、秋に大輪を咲かせたエアメサイア。彼女の逆転劇は秋華賞の名勝負数え歌の一つとして、秋の淀を彩る私の心の風景に今も刻み込まれている。
エアメサイアは均整が取れた馬体を持ち、気品ある聡明な顔つきをした美しい馬だった。
母エアデジャヴーは1998年の牝馬3冠路線を横山典弘騎手とのコンビで戦い、主役の一角を担った。桜花賞3着、オークス2着と春2冠は惜敗。クイーンステークスで重賞制覇を果たして臨んだ秋華賞では1番人気に支持され戴冠への期待が高まったが、武豊騎手騎乗のファレノプシスの前に僅差3着に敗れた。G1タイトルには手が届かなかったが、その歯がゆい走りにファンは思いを託しエールを送った。
叔父エアシャカールは燃えさかる気性で武豊騎手の手を焼かせながらも限りなく3冠に近づいた馬だった。3歳夏には英国へと渡りモンジューにも挑戦。日本馬が今なお阻まれ続けているアスコットでも見せ場を作った。菊花賞以降は勝ち星は挙げられなかったけれど、内ラチに吹っ飛んでいかんばかりの個性的な走りはファンを魅了し、種牡馬入り直後の悲運の死は大きな悲しみをもって受け止められた。
管理するのは名伯楽、伊藤雄二調教師。ウイニングチケットで柴田政人騎手と共に悲願のダービー制覇を成し遂げた師だが、長年に亘る調教師としてのキャリアの中でのG1制覇の殆どは牝馬で挙げた。エアグルーヴ、ファインモーション、マックスビューティ、ダイイチルビー、シャダイカグラ、スカーレットブーケ、ワコーチカコ…。師が手掛けた数多の名牝は皆、煌びやかで華があり、物語に溢れ、多くの競馬ファンを虜にした。
エアメサイアのデビューは11月の京都、菊花賞馬ザッツザプレンティの半妹バブルファンタジーら良血馬が顔を揃えた1戦。血統背景と調教の良さから単勝1.4倍の断然人気に支持された彼女は、生涯のパートナーとなる武豊騎手を背に好発から難なく折り合い、直線では軽いゴーサインにしっかり反応。あっさり抜け出し危なげなく初陣を飾った。騎手の意のままに動ける賢さと素直さを発揮し、デビュー戦から若駒とは思えぬ大人びた走りだった。
年明けの白梅賞ではディアデラノビアの豪脚に屈して2着に敗れたが、続くエルフィンステークスでは前半3F36秒3の超スローペースにも折り合いを欠くことなく、逃げ粘るライラプスや1番人気に支持されたキングカメハメハの妹レースパイロット、クラシック本番でも鎬を削ることになるデアリングハートらを相手に2勝目を挙げ、クラシックへの出走を確かなものとした。
エルフィンステークス快勝の余勢を駆り、春の主役を射止めるべく臨んだフィリーズレビュー。ここで彼女は終生のライバル、ラインクラフトと邂逅を果たす。
ラインクラフトはこの時点で3戦2勝。暮れの2歳女王決定戦で僅かに追い込み及ばずショナンパントルの3着に敗れていたが、それまでの2走は圧勝続き。天賦の才に疑う余地はなかった。
白梅賞で後塵を拝したディアデラノビアやデアリングハートも顔を揃えた一戦。エアメサイアは前半3F34秒4という速い流れにも余裕十分に好位を追走し、直線、馬場の真ん中から軽やかに末脚を延ばす。だが、ゴール寸前でラインクラフトの強襲に屈し、前を行くデアリングハートも捕え切れず、3着に終わった。
スムーズに立ち回ったエアメサイアとは対照的に、ラインクラフトは口を割り、終始力みながらの競馬だった。それ故にラインクラフトの強さは一層際立ち、エアメサイアにとっては着差以上の力差を感じさせるものだった。
続く桜花賞。前哨戦を踏まえて武豊騎手が繰り出した一手は後方待機策だった。最大のライバルを前に置き、モンローブロンドが演出した前半3F33秒8のハイペースを後方10番手でじっくり構える。先を行く各馬が徐々に手応え劣勢となる中、勝負処で一気に加速し、大外から溜めに溜めた力を爆発させる。
だが、先に抜け出したラインクラフトやデアリングハートに馬体を併せることは叶わず、幾つもの誤算が重なって後方からの競馬を余儀なくされたシーザリオにも突き放されてしまった。ライバル達の背中は遠かった。
ラインクラフトとデアリングハートが距離への不安からマイル路線に矛先を向けたことで、オークスでエアメサイアはシーザリオに次ぐ2番人気に支持された。出走全馬が未知となる芝2400m戦で、エアメサイアのレースセンスと安定性は大きな武器に思えた。
スタートでやや立ち遅れて後手に回ったシーザリオが後方3番手まで後退するのとは対照的に、エアメサイアは中団のイン、馬群の切れ目のプレッシャーのかからない絶好のポジションを確保し、リラックスしたフォームで道中を運ぶ。ロスなく立ち回ってスムーズに進路を確保し迎えた直線、武豊騎手のステッキに応えてグッと重心が沈む。ここまで100点満点。シーザリオは未だ後方で進路を探してもがいている。
逃げ粘るエイシンテンダーを追い詰め、エアメサイアは先頭に躍り出る。残り100m。猛追するディアデラノビアにエアメサイアに追いつくだけの脚はない。G1の頂が確かに見えた。
次の瞬間、大外から弾丸のように青鹿毛の馬体が姿を現す。一度は馬群に消えたはずのシーザリオが他馬を弾き飛ばし薙ぎ倒さんばかりの末脚で飛び込んでくる。抵抗する間もないほどの一瞬の攻防。エアメサイアは僅差の2着に敗れた。
春の2戦、エアメサイアはたしかに世代上位の一角であった。距離・展開不問の高い能力とクレバーな気性に武豊騎手のヘッドワークが加わり、どのレースでも安定して力を発揮してゴール板前を賑わせ続けた。だが、荒削りで不利を跳ねのける強さを見せるラインクラフトやシーザリオを前にはソツの無さも無力。力差を浮き彫りにされるような悔しい結果だった。
秋、アメリカンオークスでの快挙を成し遂げたシーザリオが繋靭帯炎を発症し、素質を高く評価され続けてきたオークス3着馬ディアデラノビアも剥離骨折が発覚。春の実績馬の相次ぐ戦線離脱を受けた秋の最大の争点は「マイルの女王、ラインクラフトは距離の壁を克服できるのか」だった。桜花賞、NHKマイルカップに続き秋華賞の変則3冠となれば史上初。スピードに勝る牝馬のロールモデルにもなり得る挑戦にファンは沸き、快挙達成に期待を寄せた。
だが、そんな結末を甘んじて受け入れるわけにはいかない。エアメサイアにとっては逆転に向けた負けられない戦いだった。
2005年9月18日。快晴の空の下、まだ夏の暑さを残して気温30度を超えた阪神競馬場・ローズステークスでラインクラフトとエアメサイアは再戦を果たす。1番人気ラインクラフトの2.2倍、2番人気エアメサイアは2.4倍、二頭の馬連は2.3倍。完全な一騎打ちムードでレースの幕は開いた。
オークスと同様に果敢にハナを奪ったエイシンテンダーが作り出したスローペースに、マイル以下を主戦場としてきたラインクラフトは首を上げ、抑えきれない様子のまま2番手でレースを運ぶ。対するエアメサイアは好スタートから馬の行く気に任せ、中団のインでいつもようにゆったりと脚を溜めて機を伺う。
4角。我慢しきれなくなったラインクラフトがエイシンテンダーを交わして先頭に立つと、身体能力の高さとスピードにモノを言わせて一気に後続を突き放す。
「ラインクラフト速い!圧勝か!?」
残り200m地点でもまだ5馬身差。春と同じ結末を誰もが想像した瞬間、エアメサイアは大外からただ一頭、矢のような末脚を繰り出す。一完歩ずつ差を詰め、ゴール寸前で並びかけ、遂には半馬身捉えた。傑出した二頭の一騎打ちを制し、春は及ばなかったライバルに初めて先着を果たした。ひと夏を超えたエアメサイアは、ラインクラフトと比肩しうる存在へと成長を遂げたことを証明した。
「春より反応がよくなっていますね。最後の一冠を取らしてやりたいです」
と武豊騎手が語れば
「本番に向けて今日の2着、全く悲観することはありません」
と福永騎手が返す。3着ライラプスを3馬身後方に置き去りにし、前哨戦からハイレベルな争いを繰り広げた両雄は、トライアルで十分な手応えを掴んで本番へ臨んだ。
秋華賞での戦いはさらに熾烈なものとなった。
前哨戦で距離克服に目途を立てたラインクラフトをファンは僅かに上位に取ったものの、1番人気ラインクラフト1.8倍に対し、2番人気エアメサイアは2.5倍。3番人気デアリングハートは20.6倍と大きく離れ、二頭の馬連1.8倍。ローズステークス以上に一騎打ちムードは鮮明となり、ファンの関心はこの二頭の攻防に集中していた。
ローズステークスと同様にエイシンテンダーがハナを奪うと、レースは再びゆったりとしたペースで進行する。豊富なスピードを押し殺すようにラインクラフトはローズステークスより一列後ろの5番手に構え、エアメサイアはラインクラフトを射程に捉えながら12番手でレースを進める。僅かな判断ミスが命取りとなるような静かな攻防。ひりつくような駆け引きの中で、エアメサイアと武豊騎手は針の穴を通すように精密にレースを進める。
3角で他馬と接触してスイッチが入ってしまったラインクラフトが我慢できずに進出し、先団を飲み込む。この動きに遅れまいとエアメサイアは勢いをつけて大外に持ち出す。
ラインクラフトは直線入り口で後続を一気に突き放すと、勢いそのままに確かな足取りでゴールに向かう。スピードが活きる平坦京都。ラインクラフトは止まらない。残り200m地点での4馬身差はセーフティリードに思われた。
ニシノナースコールとオリエントチャームを置き去りにして、馬群から唯一頭、エアメサイアが飛び出す。決定的と思える差を前にしても諦めない。いや、諦められない。負けられない戦い、どうしても欲しい勝利。「ゴールよ。まだ来ないでくれ」という願いのこもった武豊騎手の叱咤にエアメサイアは呼応する。
2馬身、1馬身、半馬身……
西日を背にした2頭の影が重なる。ラインクラフトと福永騎手は止まっていない。エアメサイアと武豊騎手はなおも伸びる。
クビ、ハナ……ゴール……!!
最後の1完歩。エアメサイアがほんの少しだけ前に出たところで勝負は決した。エアメサイアは遂に戴冠を果たした。
「スタートから少しでもミスをしたら勝てないと思っていました」と名手が述懐したように、一つでも判断を誤れば勝利が零れ落ちてしまう紙一重の戦いだった。
春から秋への成長。トライアルから本番への蓄積。それらが結実し、スター揃いのハイレベルな2005年の牝馬3冠を締めくくるに相応しい名勝負だった。
彼女たちの戦いは少しだけ続いた。阪神牝馬ステークスではラインクラフトが強さを見せて勝利し、ヴィクトリアマイルでは安定感を高めたエアメサイアが先着。2頭は競馬界の主役として駆け、ライバル物語はまだまた続くかに思えた。だがこのヴィクトリアマイルが、エアメサイアにとってもラインクラフトにとっても、最後のレースとなった。
ラインクラフトはヴィクトリアマイルから3か月後、放牧先での事故で私たちの前から永遠に姿を消した。夭逝した彼女が母として血を残すことはなかった。エアメサイアは爪の不安を発症し、長い長い闘病の末にも遂に復帰は叶わず、1年後に引退を表明した。彼女らと3冠を分け合ったシーザリオも復帰は叶わなかった。一年前のクラシックの熱を残したまま、彼女らはターフを去っていった。
2005年の牝馬3冠を戦った馬たちは母としても存在感を示した。ディアデラノビア、オリエントチャーム、ショウナンパントルらは重賞ウイナーを輩出し、後世に名を残した。
シーザリオは3頭のG1馬を産み、母としても稀代の名牝の地位を確立した。その1頭、リオンディーズのライバルとして立ちはだかったのはエアメサイアの仔エアスピネルだった。母仔二代に亘りエアメサイアとシーザリオはライバルだった。
2014年にこの世を去ったエアメサイア。その血もまた、多くの産駒に託され、確かに広がろうとしている。
春の主役が絶対の強さを見せつけるだろうか。大きな成長を果たしたライバルが逆転を果たすだろうか。ひと夏を超えて現れた新星が輝くだろうか。
今年はどんな景色が見られるだろう。
胸躍る秋の戦いがいよいよ始まる。
写真:Horse Memorys、かず