導火線 〜1989年オールカマー・オグリキャップ〜

──この人に出逢っていなかったら、いったい今、どうなっていたのだろう。
時にそんな仮定をしてしまうような大きな出逢いが、人生においては起こる。

人は毎日多くの人とすれ違い、顔を合わせ、そして言葉を交わす。

そんな中でも、得難い人との出逢い、自分を変えてくれたと感じる人との出逢い、返せないほどの恩義を与えてくれた人との出逢いは、誰にでもある。

同じことが、競馬においても言える。

「あの馬と出逢っていなかったら」というサラブレッドによって、競馬に魅せられるようになることは多い。

それは、顕彰馬のような名馬であろうが、条件戦で走るサラブレッドであろうが、初めてパドックを歩く新馬だろうが、変わらない。
されど、平成という時代を振り返ったときに、多くのファンが「あの馬と出逢っていなかったら」と仮定することすら難しいサラブレッドが一頭、いる。

彼の名は、オグリキャップ。

昭和の時代に第一次競馬ブームを巻き起こしたのは、大井からやってきたハイセイコーだったが、オグリキャップはその昭和から平成へ時代が移り変わる隙間にやってきた。
彼の走りは、競馬という存在をそれまでの閉じられた世界から、多くの人の注目を集める陽の光の下へと導いていった。
元来の競馬ファンはもとより、若い女性から小学生まで老若男女がオグリキャップへ声援を送り、オグリキャップの一挙手一投足を見守り、オグリキャップの次走について語り、そしてオグリキャップとともに喜怒哀楽を味わった。

誰もがオグリキャップの走る姿に感動し、地団駄を踏み、快哉を叫び、魂を揺さぶられた。

オグリキャップ見たさに若い女性や家族連れが競馬場を訪れるようになり、果ては府中に18万人が詰めかけ、中山に17万人が押しかけ、週末のウインズでは長蛇の列が並ぶようになっていく。
なかでも、平成元年の9月17日から12月24日までの99日間。
その灼熱の日々は、オグリキャップを「第二のハイセイコー」から「唯一無二のアイドルホース」へと進化させ、日本列島を第二次競馬ブームの熱狂へと誘う。

その導火線となった、平成元年のオールカマーの想い出に寄せて、綴ってみたい。


時に平成元年9月17日。
中山競馬場で施行される第35回産經賞オールカマーに、オグリキャップは復帰してきた。
いまでは秋の競馬シーズンの訪れを告げるG2別定戦として知られるオールカマーであるが、平成元年の当時の格付けはG3の馬齢戦であった。
そして何より、その名の通り広く門戸を開けた競争として「地方競馬招待競走」として、当時数少ない地方所属馬が出走可能なレースであり、各地方競馬の所属馬がジャパンカップへの優先出走権を賭けて争われていた。

昭和61年の愛知・ジュサブロー、そして平成2年の大井・ジョージモナークが、オールカマーの歴代勝ち馬の中に、燦然と刻まれている。

オグリキャップもまた、地方からやってきた。
昭和63年、時代の変わり目に滑り込むように、彼は12戦10勝の戦績をひっさげて岐阜は笠松競馬場から。
いつもゲートイン直前になると、首をブルブル振るわせて「武者震い」するのが、彼の「ルーチン」だった。
けれど、ひとたびゲートが開けば、恐ろしく速かった。

中央転厩初戦のG3・ペガサスステークスで、当時4連勝中だった素質馬・ラガーブラックを3馬身千切った衝撃から、G3・毎日杯、G3・京都4歳特別と連勝を重ねると、G2・ニュージーランドトロフィー4歳ステークスでは後の重賞馬・リンドホシに圧巻の7馬身差。

鞍上の河内洋騎手の手綱が、全く動かないまま後続を突き離す、戦慄の勝利だった。

クラシック競走への登録がなかったことで、同世代と皐月賞、ダービーという晴れ舞台に立つことは叶わず、古馬混合の裏街道をひた走る。
7月の中京で行われたG2・高松宮杯では、初対戦となった古馬を相手にせず、ハイセイコーを超える中央入り重賞5連勝。
続く10月のG2・毎日王冠では3年前のダービー馬・シリウスシンボリをはじめ、重賞馬9頭のメンバーを相手にせず楽勝、これで重賞6連勝を遂げた。

しかし、オグリキャップが魅力的だったのは、ただ連勝街道を突き進むからではなかった。

常にオグリキャップの周りには強力なライバルたちが現れ、そしてどんな相手とも火を吹くような叩き合いを演じたからだ。
ときにその叩き合いに競り勝ち、ときに惜しくも敗れる。
──誰もが、オグリキャップの走りの中に、自らの「喜怒哀楽」を見た。

そんな彼の前に、初めて立ちはだかった強大なライバルもまた、芦毛だった。
同年の天皇賞・春、宝塚記念を連勝していた現役最強古馬・タマモクロス。
10月30日、天皇賞・秋で激突した2頭の第1ラウンドは、タマモクロスが古馬の意地を見せてオグリキャップを1馬身1/4差でねじ伏せる。
オグリキャップは、中央に移籍して初めての蹉跌を味わうことになった。
続く第2ラウンド、11月27日のジャパンカップでは、アメリカからの刺客・ペイザーバトラーが勝ち、タマモクロス2着、オグリキャップ3着。
そして最終ラウンドとなったクリスマス決戦の有馬記念で、岡部幸雄騎手に乗り替わったオグリキャップは3度目の正直とばかりに、タマモクロスを半馬身退け、初めてG1タイトルを戴冠した。
タマモクロスはこの有馬記念を最後に引退、昭和の時代の終焉とともにターフを去った。
同じ芦毛の最強古馬からバトンを受け取った形になり、飛躍が期待された翌年のオグリキャップであったが、2月に右前脚の捻挫を発症、さらに4月には同じ右前脚の繋靭帯炎を患い、春のシーズンを棒に振ることになる。

平成元年のオールカマーは、そんなオグリキャップの9か月ぶりの復帰戦であった。
そんな彼の復帰レースに、陣営は新たなパートナーを配した。

南井克己騎手。

そう、前年の秋にオグリキャップとしのぎを削ったタマモクロスの主戦騎手である。
気迫を全面に出した追い方で「剛腕」、あるいは「ファイター」の異名でファンに親しまれた南井騎手が、前年には宿敵であったオグリキャップとどのようなパートナーシップを組むのかも、注目の一戦となった。

当然のようにオグリキャップは単勝1.4倍の圧倒的1番人気の支持を集め、単枠指定を受ける。
続く2番人気には、同年2月の目黒記念で重賞初制覇を飾っていたキリパワーと岡部幸雄騎手。
3番人気に、牝馬ながら南関東の牡馬クラシック2冠を制していた、川崎競馬所属の女傑・ロジータと野崎武司騎手。
同年重賞を2連勝していた7歳の古豪・ランニングフリーと菅原泰夫騎手がそれに続き、さらには名古屋競馬からサンリナールと白坂芳文騎手や、2年前のダービーで人気薄ながら2着に突っ込んで大穴を開けたサニースワローと大西直宏騎手などが名を連ねる。
まさに、「オールカマー」の名に相応しい13頭が集った。

ゲートが開き、1周目のゴール前を通っての先行争い。

中館英二騎手のベルクラウンが押してハナを切り、2番手をミスターブランディ、その後ろをロジータが追走し、その横にサンリナールが並ぶ。
オグリキャップと南井騎手はその後ろ、中団前目の5,6番手のポジションを取って第1コーナーをカーブしていく。
一方、人気の一角であったキリパワーは後方から2番目と、追い込みにかける体勢。
向こう正面を迎えて、前半1,000m通過は61秒6と、ややスロー気味でレースは進んでいく。
3コーナーに差し掛かり、馬なりのまま、じわりじわりとポジションを上げていくオグリキャップ。
先頭はベルクラウンとミスターブランディが並んでいる。
4コーナーを周って、ミスターブランディがベルクラウンを交わして先頭に立つ。
オグリキャップは4番手あたりまで押し上げて、最後の直線を迎えた。
まだ先頭のミスターブランディまでは5馬身から6馬身ほど開いている。
だが、南井騎手が持ったまま、オグリキャップは外目から先頭に迫る。

──脚色が、すでに違う。

南井騎手が軽く見せ鞭を入れただけで、オグリキャップはさらに弾けた。
残り100mの地点で先頭に立つと、もう南井騎手は追っていなかった。
追い込んできたオールダッシュに、軽々と1馬身3/4突き放す快勝。

オグリキャップ1着。

さらに1馬身3/4離れた3着には、粘ったミスターブランディが入った。
最後は抑えたにもかかわらず、オグリキャップの勝ち時計2分12秒4は、コースレコード。
追えば、どれほどのタイムが出ていたのか。底が見えない「芦毛の怪物」の9ヵ月ぶりの帰還に、観ている誰もが歓声を送った。
オグリキャップと南井騎手は、日本列島を狂騒と熱狂の渦へと叩き込む導火線に、火を点けた。

「さあ、次はどんな走りを見せてくれるんだ?」

誰もが、オグリキャップと南井騎手から目を離せなくなった。
オグリキャップと日本競馬の『灼熱の99日間』が、その瞬間、始まった。


そのオールカマーから中2週の10月8日、G2・毎日王冠。

同年の天皇賞・春と宝塚記念を連勝し、オグリキャップとともに「平成三強」と称されたイナリワン、連勝中のメジロアルダン、前年の東京ダービー馬で中央に移籍してきたウインドミルとの史上に残る死闘。
大地が揺れるような直線の叩き合いの末、僅かハナ差、イナリワンを退ける。

さらに中3週で迎えた10月28日のG1、天皇賞・秋。
「平成三強」の一角・武豊騎手のスーパークリークがスムーズにインコースから抜け出したのに対し、オグリキャップはヤエノムテキに進路をカットされ絶望的な不利を受ける。

しかし、オグリキャップは諦めない。

外に持ち出してから、南井騎手の剛腕に応え、一完歩、また一完歩とスーパークリークを追い詰める。

スーパークリークにクビ差まで迫ったところでゴール板を迎え、惜しくも2着となったが、その驚異的な精神力と末脚は「負けてなお強し」を印象づけた。

しかしこの天皇賞で2着に敗れたことで、陣営から中2週でG1・マイルチャンピオンシップ、さらには連闘でジャパンカップに挑むという常識外のローテーションが発表された。
迎えた11月19日のマイルチャンピオンシップが、まさに白眉。
同年春の安田記念を制していた武豊騎手のバンブーメモリーが、直線半ばで抜け出しにかかる。
連戦の疲れからか、久々のマイル戦に戸惑ったのか、オグリキャップは行き脚が鈍く、残り200mでバンブーメモリーに決定的な2馬身差をつけられる。

これは、届かない。

そう思った刹那、内ラチから猛然とオグリキャップが烈火のように追撃を開始する。
南井騎手の豪快な右鞭に応え、一歩、また一歩と鬼気迫る末脚でバンブーメモリーとの差を詰める。
当時の関西テレビアナウンサー、杉本清氏の「負けられない南井克己!譲れない武豊!」という名実況を生んだ直線の叩き合いは、僅かにハナ差、オグリキャップが前に出ていた。
常識外のローテーションで出走してきた怪物は、とても届かない位置から、完璧なレース運びをしたバンブーメモリーを差し切っていた。

勝利ジョッキーインタビューで、南井騎手は大粒の涙を浮かべていた。

その涙も乾く間もなく、わずか7日後の11月26日、ジャパンカップへ連闘で挑んだオグリキャップは、先に抜け出したニュージーランドの女傑・ホーリックスとの壮絶なデッドヒートを演じる。
同じ黒帽、同じ芦毛の2頭が馬群を抜け出し、戯れているかのように見えた直線の攻防は、先に抜け出していたホーリックスがクビ差だけ先着した。

両者の走破時計2分22秒2は、当時の芝2,400mの世界レコードとして刻まれた。

そして中3週で12月24日の有馬記念に出走したオグリキャップは、さすがに連戦の疲れが出たのか、最後の直線で失速して、イナリワンの5着に沈むのである。

『灼熱の99日間』が、幕を閉じた瞬間だった。


ステップレースを使わずにG1直行、天皇賞あるいはジャパンカップをスキップといった、現在のローテーションのトレンドからすると、考えられないローテーション。
無論、外厩の有無や、一つのレースでの消耗度合、馬場の改良とそれに伴う走破タイムの更新など、30年前の当時と現在とでは、競走馬を取り巻く環境もレースの中身も異なり、比べようもない。
されど当時においても、このオグリキャップのローテーションは、多くのファンを巻き込んでその是非を問う議論がされた。
ただ、令和の時代の現在から見て事実として残っているのは、オグリキャップは素晴らしい戦績でこの6連戦を走り切った、ということである。
そして、その走りに多くのファンが熱狂し、驚き、歯噛みし、涙し、心配し、快哉を上げ、そして感動した。
オグリキャップは走る度に、日本列島を興奮の坩堝に叩き込み、そして観る者の魂を揺さぶった。
オグリキャップの走りは、観る者に常に問いを投げかけるようだった。

買うのか、買わないのか。
信じるのか、信じないのか。
走れるのか、走れないのか。
愛するのか、愛せないのか。

レースの度に、それを観る者の想いが交錯した。
懸命に走るオグリキャップに、自らの人生を投影し、応援する。
競馬の魅力の原点ともいえるものが、そこにはあったように思う。
皆が、オグリキャップを応援しているように見えて、結局のところ、自分自身を応援しているのかもしれなかった。

地味な血統、小さな牧場で産まれ、地方でデビューしたオグリキャップ。
彼は、どんな距離でも、どんな展開でも、どんなローテーションでも、どんな相手であっても、必死に追い込んできた。

その姿に、ファンは自分自身を重ね、勇気を与えられた。

オグリ、がんばれ。
オグリ、がんばれ。
オグリ、あと少し、がんばれ。

そう応援するたび、ファンは自分自身にエールを送っていたのかもしれない。


翌年の平成2年の有馬記念。
立錐の余地なく中山競馬場を埋め尽くした17万7千人のファンは、オグリキャップの奇跡の復活、ラスト・ランに「オ・グ・リ」コールを絶叫した。
競馬が一つの到達点に達した瞬間だった。

もしオグリキャップと出逢っていなかったら。

もしも、あの6連戦がなかったら。

あの奇跡のラスト・ランがなかったら。

競馬に触れてすらいなかった人も、多かったのかもしれない。
いまこうして私が言葉を紡いでいることも、なかったかもしれない。
平成という時代の幕開けに、日本列島に熱狂を巻き起こしたオグリキャップ。
その導火線となった、平成元年のオールカマー。

暑い夏が過ぎ去っても、時代の熱狂は残る。

今年も、オールカマーがやってくる。

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