
■富士山と東京競馬場
日本一高い山、富士山。日本一大きい競馬場、東京競馬場。
皆さんは、東京競馬場から富士山をゆっくり眺めたことがあるだろうか。
2007年に完成した東京競馬場のスタンドの名は”フジビュースタンド”であり、天気が良ければスタンドから右手の奥に富士山を見ることができる。
そう言いながらもしっかり眺めた記憶はあまりない。たまには馬券に熱くなる前に、富士山をしっかり拝んでみようかと思う。
さて、そんな富士山の名前を冠したレースが、富士Sである。
マイルCSのステップレースとして長年開催されているが、2020年からはGⅡに昇格。それまで以上に非常に重要な位置付けとなった。
マイル路線で一線級を戦ってきた強豪のほか、距離の長い菊花賞を使わずにマイル路線に活路を見出す3歳馬、中距離路線からここを試金石にマイルCSを目指す馬などが一同に会すだけに、多彩なメンツが揃う傾向にある。
2017年、エアスピネルはこのレースをステップにマイルCSを目指していた。

■近そうで遠い頂上
エアスピネルは、素材から環境まで、すべてが超一流だった。 父はトップサイヤーのキングカメハメハ、母は秋華賞馬のエアメサイア、生産は社台ファーム、調教師は開業3年目に早くもエリンコートでG1制覇を果たしていた笹田和秀師、そして主戦は天才・武豊騎手。細かい説明は不要だろう。
2015年の9月に阪神芝1600mの舞台でデビュー。単勝1.9倍の支持を集める中で3番手から先行し、直線では手応えのまま先頭へ。危なげなく2馬身差で快勝、必然の結果だった。
そして2戦目はデイリー杯2歳S。1番人気は小倉2歳Sを制していたシュウジに譲ったが、レースでは逃げたシュウジをあっさりと交わし、重賞初制覇を遂げた。
順風満帆な競走馬生活が待っていたかと思われたが、ここからなかなか頂上に辿り着けない険しい登山が始まることとなる。
朝日杯フューチュリティステークスでは、母エアメサイアと同期のオークス馬であるシーザリオを母に持つ同じく無敗のリオンディーズと初対戦。直線では一旦先頭に立ち、2歳王者戴冠かと思われたが、最後の最後で差されて2着。初めての土がついた。
年が明けて3歳シーズン。
陣営はクラシック三冠を見据え、まずは弥生賞へ歩を進めるも、3着と惜敗する。
続く皐月賞ではリオンディーズ、ディーマジェスティ、マカヒキ、サトノダイヤモンドといった強豪たちと対戦となった。直線では一瞬の見せ場を作りながらも、最後は不利も響いたが末脚で及ばず4着(5着入線)。
そして迎えた大一番日本ダービーでは皐月賞で敗れた上位馬たちと再戦。中団から進め、直線では手応え抜群。武豊騎手の仕掛けに反応すると直線では一度先頭に立つ。しかし、最後は皐月賞の上位3頭に交わされ、またも4着。派手さはないが、地力の確かさをあらためて印象づけたも。一方で、この時期になると『善戦マン』と呼ぶ声もあったように思う。
秋になると、神戸新聞杯5着から菊花賞に挑戦。
距離3000メートルという未知の距離適性が問われたが、3着に健闘。しかし、またしても惜敗に終わってしまった。
結局、その年のクラシック路線を走り抜けても、頂上には到達できなかった。
だが、その安定感こそがエアスピネルという馬の個性であり、確かな存在感を放つ理由になっていた。

■頂上を目指して
4歳古馬になったエアスピネルは元旦の京都金杯から始動した。京都芝1600mの舞台は2歳時に制したデイリー杯と同舞台で久々のマイル戦。1.8倍の圧倒的人気に推されたエアスピネルはハナ差で勝利し、1年2か月ぶりの勝利の美酒に酔いしれた。
これを機に、エアスピネルのマイルの頂上を目指す道のりが始まる。しかしその後の東京新聞杯は3着、マイラーズCは2着、安田記念は5着と相変わらずの堅実さを見せるも、ふたたび勝ち切れない日々が続いた。
そして夏の札幌記念5着を挟んでふたたびマイルの頂上を目指すべく歩を進めてきたのが富士Sだった。この日の東京競馬場の天候はあいにくの雨、馬場も目いっぱいの水分を含み不良馬場。エアスピネルにとっては初めてのコンディションだった。もちろん富士山は見えなかっただろう。
G3(当時)の一戦ではあったが、当年皐月賞2着のペルシアンナイト、前走京成杯AHを圧勝したグランシルク、6歳にしても衰えをみせない皐月賞馬イスラボニータ、マイルの重賞をこの時点で2勝していたロードクエスト、前年の2歳チャンプのサトノアレス等、非常に豪華な強豪が集まる中、エアスピネルは1番人気の支持を集めていた。

■富士の頂上に
降りしきるレースの中でゲートが開くと、エアスピネルは無理なく先行集団へ。
武豊騎手のぶれない姿勢がエアスピネルが無理なく掛かることなく走れていることが伝わってきた。
グランシルク、イスラボニータらの強豪はいずれも中団から後方に位置していたが、15頭は一塊でそこまでバラけることなく隊列を形成し、淡々とレースは進んだ。
道中はその隊列をよそに捲るような馬もなく、3コーナー、4コーナーを回り、最後の直線へ。
すると雨馬場らしく各馬が一気にばらけ、内外大きく離れた直線の攻防が始まった。
最内の経済コースを突いて逃げていたのが3歳馬の伏兵レッドアンシェル。エアスピネルは馬場の外に出し、スパートを開始。ところが道悪で切れ味が削がれる舞台もあり、レッドアンシェルがなかなかしぶとくエアスピネルが捕らえたのは坂を登って残り200m付近だった。
不良馬場であることを忘れさせるようなスイスイとした走りで抜け出しを図るエアスピネル。一方で他の馬は不良馬場に脚を取られ、伸びあぐねてきたように見えた。1頭だけ追いかけてきたのはイスラボニータだった。
ところがエアスピネルの脚はまったく衰えることがなくむしろリードを開こうとしているようにも見えた。結局そのまま2馬身のリードを開き、1着でゴールイン。2着にはイスラボニータ、3着には逃げたレッドアンシェルを捕らえたクルーガーが入った。
崩れることなく堅実さを武器に常に掲示板を掲示していたエアスピネルだったが、不良馬場という要素が加わったことがプラスに働いたのか、もしくは他の馬に大きくマイナスに作用したのか、そのあたりは不明だが掲示板の頂上、つまり富士Sの登頂を成功させたのだ。
■G2に格上げされた富士S
エアスピネルは結局この富士Sが最後の勝利となってしまったが、ダート路線に挑戦を始めてからも息の長い活躍でファンを興奮させた。

そして、2020年に富士SはG2へと格上げされた。その後はのちに府中のマイルG1を3勝するソングライン、後にマイルCSを3歳ながらも制することになるセリフォス、そしてこちらも後にマイルCSを牝馬ながらも制することになるナミュールがここを勝利している。
富士山が見守る東京競馬場で行われる富士S。その存在価値は本番であるマイルCSへつながる重要なステップレースとして高まる一方であるが、その中でもこのレースを目標に進めるサマーマイル路線の上がり馬にとっては壁が高い、しかし同時に試金石のレースともなりうる重要なレースである。
日本一の山である「富士」の名前を冠した富士S。そんな東京競馬場の「富士」を登り切った富士Sの覇者たちを思い出しながら、次に府中へ向かった際は富士山をゆっくり眺めてみたい。
写真:s1nihs