ある馬を好きになってずっと追い掛けるということは、競馬が好きな人の多くが一度はやったことがある行為ではないだろうか?
そして、特定の馬を好きになるキッカケは、人それぞれだろう。
例えば、馬券で高額な払戻金を手にすることが出来たから。
例えば、パドックで自分のことをじっと見つめていたから。
例えば、名前がカッコ良いと思ったから。
私はかつて、アンバーライオンという馬を追い掛けたことがあった。 仮にアンバーライオンが充分に力を発揮できなさそうなレースに出走していたとしても、単勝と複勝の所謂「応援馬券」は、欠かさず購入していた。
私とアンバーライオンの出会いは、ちょっとした偶然から生まれたものだった。
中央競馬では、その多くの日程で3場開催が行なわれ、21世紀となった現在、どこの競馬場の馬券でも手軽に購入できるシステムが確立されている。競馬専門紙もその日に行われる全レースの馬柱を掲載しているのも珍しくはない。
今では信じられないかもしれないが、昭和の終わりや平成のはじめ頃はまだ、従場(ローカル開催)の馬券はメインレースしか買えなかったのだ。一部の場外馬券売り場では、従場でも朝の1レースから最終レースまで馬券を買うことが出来たけれど、競馬新聞の馬柱も従場のレースはメインしか載っていないことが当たり前だった。
そんな従場の馬券が買える“一部の場外馬券売り場”に、当時の私は出没していた。競馬を教えてくれた伯父さんに連れられて、後楽園の馬券売り場に足しげく通っていたのだ。
1992年の夏も、やはり伯父さんと連れ立ってWINS後楽園の6階フロアで勝ち馬の検討をして馬券を買っていた。もちろん、我々が持っている競馬新聞は新潟の1~12レースまでが掲載されており、同時開催の函館の馬柱はメインレースしか載っていなかった。
けれど、この日は新潟の馬券が朝からサッパリ当たらず、何か気分転換をしたいと思った私は、あることを思い付いた。
新聞を見ずに、直感でマークシートを塗って馬券を買う、ということだった。
正確に言えば馬柱を“見ることが出来ない”函館のレースを買おう、それもランダムに単勝を買うことにしたのだ。
マークシートの函館(場名)・5(レース)・単勝(式別)を赤ペンで塗った。そして馬番の欄には、1・3・5・6を塗り、金額は全て100円の欄をマークした。
券売機から出てきた馬券を見てみると、4頭の馬名が記されていた。どの馬も初めて見る名前ばかりだったが、ひときわ目を引いたのが3番のアンバーライオンという名前だった。
“馬の名前なのにライオンって……。変な名前だなぁ”
いつもと違い、新潟ではなく函館のファンファーレが鳴った瞬間にモニターの下に移動した。
「函館競馬第5競走は新馬戦、芝1200mで行なわれます」
かつては、同じ開催中であれば何度でも出走できた新馬戦。この日の新馬戦は、今はもう無い“折り返し”のそれだと気付いた。どのクラスのレースか、それすらも分からぬまま私は馬券を買っていたのだ。
レースが始まると、8頭立てのレースは淡々と進んだ。自分の馬券は4/8の確率で当たるわけである、気楽に見ることが出来た。
このレースを勝ったのは、変な名前だと思ったアンバーライオンだった。
この日初めての的中馬券を手にすることが出来た私は、安堵感に包まれていた。自分の直感も捨てたものじゃない、と感じてそれ以降の馬券検討に自信を持った記憶がある。
折り返しの新馬戦を勝ったアンバーライオンは、その年の函館3歳ステークス(当時)で2着に入って賞金を加算し、その後は重賞戦線を歩むことになった。しかし秋の京都でのデイリー杯は4着、暮れの中山での朝日杯は6着と精彩を欠いたまま1993年を迎えることとなった。
新年最初のレースは、京都競馬場で行われるシンザン記念。奇しくも、私の誕生日に施行された重賞競走にアンバーライオンは出てきたのだ。逃げるグランドシンゲキの直後を追走したアンバーライオンは直線で抜け出した。そして追いすがるナリタタイシンを振り切って、見事に1着でゴールした。
私は、自分への誕生日プレゼントとしてこのシンザン記念のゴール前の写真パネルを買うことにした。いつもどおり買っていた単勝と複勝、そしてささやかながら買った馬番連勝の馬券が当たったのだ。
シンザン記念の後、弥生賞を使い5着に入ったアンバーライオンは牡馬三冠レースの第一弾、皐月賞に無事に駒を進めてきた。
この年の牡馬クラシック戦線は、後々に【BNW】と称される三強が引っ張ることになった。Bはビワハヤヒデ、Nはナリタタイシン、Wはウイニングチケット。それぞれに、岡部幸雄、武豊、柴田政人という、その当時の日本を代表する名騎手が手綱を取っていた。
一方、私が目をつけていたアンバーライオンの鞍上は田所秀孝。当時はWebも未発達で、関東の競馬ファンが関西の馬や騎手の情報を得るのには相当な労力が必要だった時代背景もあり、よほどツウな競馬ファンでなければ関東の競馬ファンは顔と名前が一致しない騎手だった。私自身もアンバーライオンに肩入れするまではピンと来ない騎手だったし、すでにG1レースを勝っていた同期の中野栄治、南井克己といった騎手に比べても非常に地味な存在の騎手でもあった。
それでも私は皐月賞でアンバーライオンに本命(◎)を打った。夏の北海道シリーズで知り合った彼と、クラシックシーズンまで付き合えるなんて当初は思っていなかったし、大きなケガもなく無事にG1レースに出走してきたことを素直に喜んでいた。
この皐月賞のアンバーライオンは16番人気。単勝オッズは70倍を超えていた。もし仮に自分の持っている連勝馬券が的中すれば、万馬券の組み合わせも多数ある。でも、レースが始まる直前になっても全くと言って良いほどドキドキはしなかった。
ナリタタイシンが、この年の皐月賞を制した。年明けのシンザン記念でアンバーライオンはこの馬に先着をしたけれど、距離や競馬場が変わったこと、強化された鞍上など様々な要素が好転したナリタタイシンが、皐月賞を勝利した。
アンバーライオンは5番目で皐月賞のゴールを駆け抜けた。人気の低さを考えれば大健闘といえる着順だ。けれど5着では馬券はハズレ。1円たりとも、払戻金を手にすることは出来なかった。それでも、続くダービーはこの皐月賞以上の金額をアンバーライオンに投じることになった。
その後も95年まで現役を続けたアンバーライオンだったが結果として93年のシンザン記念の勝利が、最後の1着でのゴールだった。毎回この馬の単複の馬券を買いに、私は馬券売り場まで季節を問わず通い続けた。
結果として、アンバーライオンは早熟なスピード馬だった、と今では結論付けられてしまう存在だけれど、当時の自分はクラシックを勝てるだけの器があり、その期待に応えてくれるはずだと信じて疑わなかった。
その期待は正直、裏切られたと言っても良いだろう。自分に馬を観る目が無かった(未熟だった)、と言われればそれまでかもしれない。この馬に投じた馬券の収支は、間違いなく大赤字だ。
けれど、今でも私はアンバーライオンを恨みも憎みもしていない。逆に競馬を観る楽しみを自分に与えてくれた馬として忘れられないし、おそらくこの先も一生、この馬の存在は忘れないと思う。皐月賞やダービーといった牡馬クラシックレースの季節や、シンザン記念という文字を見るたびに、私はずっとこの“栗毛色の逃亡者”を思い出し続けるだろう。
馬主だったリボーという法人は、このアンバーライオンが中央競馬から抹消されると同時に、馬主業からも手を引くことになった。【緑、黒袖、白二本輪】という勝負服は、今ではもう見ることが出来ない。だからきっと、オーナーにとっても最後の持ち馬となったアンバーライオンは特別な存在であったと思いたい。
私とアンバーライオンは3年という長い時間、付き合うことができた。
一方的にこちらが好意を寄せ続けただけなのかもしれないが、多くの人から注目を集めたわけではないアンバーライオンと共有した時間は、穴党として競馬の世界を生きていこうと決めた自分にとって今でもその土台を支えてくれている、大事な大事な馬なのだ。
写真:ポラオ