マイネルマックス - ブライアンズタイム産駒の当たり年で真っ先に輝き、長く挑戦を続けた不屈の名馬

読売マイラーズカップ(GⅢ)は2000年の競馬番組改定にて、従前の3月阪神開催から4月の阪神開催へと日程を変えて実施されるようになった(2012年からは4月の京都開催となる改定を実施、現状は京都競馬場改修中のため阪神にて開催)。3月開催だった時代にも、武幸四郎騎手(現調教師)の初勝利&初重賞制覇となった1997年オースミタイクーンなど、心に残る人馬も多い。そして開催日程を4月に移した後にも、新たな感動が待っていた。


マイネルマックス。

1994年4月13日生。父ブライアンズタイム、母サクセスウーマン(母の父ハイセイコー)という血統だ。1995年のサラブレッド2歳市場で㈱サラブレットクラブ・ラフィアンに2150万円で購買された。ラフィアンでの募集価格は3500万円(35万円×100口)。管理調教師は栗東の中村均師、主戦騎手は佐藤哲三騎手。

父ブライアンズタイムにとって、この1994年産の牡馬はヴィンテージイヤーとなった。春クラシック二冠のサニーブライアンに、皐月賞二着のシルクライトニング、ダービー二着で年末の有馬記念を制したシルクジャスティス。さらには翌年の日経新春杯の勝ち馬エリモダンディー、札幌3歳ステークスの勝ち馬セイリューオーなど……ブライアンズタイム産駒の精鋭たちが春クラシックに大挙して押し寄せて、産駒の代表馬ナリタブライアンを思わせるようなその圧倒的な力でもって表彰台を独占していったのだった。

そんな絶好調の血統を持つマイネルマックスは、1996年の8月に北海道でデビューした。函館競馬場に乗り込んだデビュー戦こそ3着に敗れたものの、その後折り返しの新馬戦を快勝した後、函館3歳S・京成杯3歳Sと重賞を連勝。暮れの朝日杯3歳Sへと駒を進めた。

1996年12月8日、中山競馬場で行われた朝日杯3歳ステークスでは、「ノーザンテースト最後の大物」との呼び声高かった2戦2勝馬クリスザブレイヴ、京都3歳S勝ち馬ランニングゲイルなどが待ち受けていた。オッズではクリスザブレイブが単勝3.6倍の一番人気、マイネルマックスは単勝4.4倍の二番人気に推されていた。レースは前半800メートルが45秒2の超ハイペースとなり、逃げたアサカホマレが早々に失速。これに替わって4コーナーで抜け出しを図ったオープニングテーマが二の足を使って粘るなか、マイネルマックスはゴール前でこれをきっちりと差し切ったのだった。

マイネルマックスは重賞3連勝を含む4連勝を飾るとともに鞍上の佐藤哲三騎手、馬主のサラブレッドクラブ・ラフィアンにとっても初のGI制覇となった。レース翌日が結婚披露宴だった佐藤哲三騎手に花を添えた。さらにマイネルマックスはこの勝利が決め手となり、同年のJRA賞最優秀3歳牡馬(旧称。現・JRA賞最優秀2歳牡馬)に輝いたのだった。

3歳牡馬の頂点に立ったマイネルマックスであったが、翌1997年に早くも挫折を味わうことになる。予定していたスプリングS・皐月賞を、熱発とそれに伴う調整遅れのため回避。状態が戻り切らないままで出走したNHKマイルCではシーキングザパールの13着と大敗し、次走の東京優駿(日本ダービー)もサニーブライアンの15着に終わった。捲土重来を期した秋は距離適性を考慮しマイル・短距離路線を歩むが、スワンSでタイキシャトルの8着、マイルCSでもタイキシャトルの6着と掲示板を外す。さらに暮れには有馬記念に挑戦するも、勝利したシルクジャスティスから8秒4離される15着と大敗を喫した。

5歳となった1998年は重賞を6戦するが、いずれも不発。12月13日のポートアイランドSでは2着と2年ぶりに連対したものの、クリスマスSでは4着に終わった。

さらに6歳となった1999年も、開幕からニューイヤーステークス3着、東京新聞杯はキングヘイローの8着と敗北。GⅠ高松宮記念では出走登録後に取り消すなど歯車がかみ合わず、結果的には8か月の休養を余儀なくされた。秋のセントウルSで復帰してエイシンガイモンの4着と掲示板に食い込んだが、続くスワンSはブラックホークの9着、CBC賞でもアグネスワールドの13着と大敗。悔しい敗北が続いた。

しかし遂に、ポートアイランドSで2年連続の2着に入ると、続くクリスマスSで──朝日杯3歳S以来、3年ぶりの勝利を挙げ、復活の兆しを見せたのだった。

年が変わって2000年。7歳となったマイネルマックスは、ニューイヤーSで大敗すると東京新聞杯・阪急杯・高松宮記念といずれも掲示板を外した。

──しかしこのような長くて暗いトンネルも、諦めず挑戦を続けたことで、出口を迎える時がやってくる。

2000年4月15日、阪神競馬場芝1600mで行われた読売マイラーズC。人気はタイキブライドル、キョウエイマーチ、アドマイヤカイザー、フサイチエアデールらが集める中、マイネルマックスは8番人気、単勝18.0倍の評価であった。

レースはキョウエイマーチが前半800メートルを45秒6のタイムで飛ばす中、マイネルマックスは中団から抜け出す。直線追いすがるタイキブライドルの追撃を退けると、4年ぶりとなる重賞勝利を飾った。

元3歳王者の久方ぶりの復権、主戦復帰した佐藤哲三騎手にも忘れられない美酒となったことだろう。

だが、マイネルマックスの復活の炎はそこまでだった。GⅠ安田記念ではフェアリーキングプローンの15着。その後も函館SSでタイキトレジャーの11着、京成杯AHでもシンボリインディの6着、スプリンターズSをダイタクヤマトの9着と、結果を出すことができない。続くスワンSでは見せ場を作り3着に入ったのだが、マイルCSはアグネスデジタルの6着止まりに終わった。ここから意欲の連闘でダートに挑戦。笠松競馬場で行われた全日本サラブレッドCに出走するが、そこでも4着に終わった。2001年は3戦するも大敗続きで、阪神1400mダート重賞プロキオンSでブロードアピールの12着となると、現役を引退した。

結局、3歳当時の快進撃は完成度の高さによるところが大きいのかもしれない。GⅠの勲章は朝日杯3歳Sの一つだけ。その勲章ですら、結果として走破タイムが翌週の500万条件戦のタイムより遅かったという理由で、高い評価を与えないファンもいる。同年のJRAクラシフィケーションで54.5キロという低いハンデに終わったのも致し方ないのかもしれない。

しかし、改めてマイネルマックスの戦績を追っていくと、唯一の勲章となった朝日杯3歳Sだけではなく、長く苦しいトンネルを通り抜けた後に、渾身の力を込めてピカピカのGⅠ馬キョウエイマーチらを相手に掴み取った読売マイラーズC勝ち星が、ひときわ輝いてみえる。

それは偉大な父ブライアンズタイムと、父を同じくする1994年産の優秀な同輩たちが背中を押したものかもしれない。マイネルマックスという名をサイアーラインに残すことはできなかったけれど、その替わりとして今ひとたびの勲章を胸に輝かすことができたとも言えるだろう。

長年競馬を見ていると、ふと、そんな妄想にとらわれることがある。とるに足らない妄想であるが、実はぼくの競馬への思いはこういった妄想が積み重なってできている。第二第三の一番星を探して、ぼくはまた新たなゲートオープンを待ち続けるのだ。

写真:かず

あなたにおすすめの記事