1990年代後半は、日本育成馬が世界を相手に通用し始めてきた時代であった。
1998年8月9日、シーキングザパールがフランスのモーリス・ド・ゲスト(G1)を優勝したのを皮切りに、翌週の8月16日にはタイキシャトルが同じくフランスのジャック・ル・マロワ(G1)を勝利。さらには翌1999年10月にはアグネスワールドがこれまたフランスのアベイ・ド・ロンシャ(G1)に勝利した。
──凱旋門賞には、日本のトップクラスの馬たちが、以前から挑戦してきた。
しかし日本馬初挑戦となった1969年のスピードシンボリは着外(当時は11着以下は記録なし)、1972年のメジロムサシが18着、1986年のシリウスシンボリが14着と、全くと言っていいほど通用していなかった。
そして遂に4頭目の凱旋門賞挑戦で「日本の馬でも海外最高峰のレースを勝てるかも!?」と、日本の競馬ファンに明るい未来を見せてくれたのが、これからご紹介していくエルコンドルパサーという馬であった。
最初は"フツー"の馬だと思われていた天才
日本競馬史に名を残すことになったエルコンドルパサーも、最初は取り立てて特徴のないフツーの馬だと思わていたという。デビュー前にこの馬に跨っていた的場騎手だけが、彼の素質に気づいていたというエピソードがあるほどだ。
その状況で迎えたデビュー戦は11月の東京競馬場、ダート1600mのレースであった。この新馬戦で、多くの観衆がエルコンドルパサーの怪物ぶりに驚かされることになる。
最後の直線に入った時には最後方に位置していたエルコンドルパサーだが、直線では大外を回ってムチも使わずに馬なりで全馬をごぼう抜き。さらに2着を7馬身突き放すという圧巻のパフォーマンスを披露したのだ。
当時は新しい栗毛の怪物としてグラスワンダーが脚光を浴びていたが、エルコンドルパサーもそれに負けず劣らずの怪物ぶりを見せつけていた。
その後はトントン拍子に勝利を重ね、怪我でグラスワンダーが戦線離脱する中、NHKマイルカップ(G1)も快勝。
無敗の5戦5勝の成績で4歳の秋を迎えることとなった。
蛯名騎手との出会い、現役最強馬への挑戦
4歳秋の初戦を毎日王冠に出走することに決めたエルコンドルパサー陣営。
これまで主戦を務めていたのは的場騎手であったが、毎日王冠にはもう1頭のお手馬であるグラスワンダーの出走も決まっていたため、的場騎手は苦渋の決断の上、グラスワンダーを選択した。
その後、武豊騎手にも騎乗依頼を出したようだが、彼はサイレンススズカの騎乗が決まっていた。そこで当時の関東リーディングであった蛯名騎手に白羽の矢が立ったのである。
この年の毎日王冠は、現役最強の逃亡者サイレンススズカに無敗の4歳馬2頭が出走するという構図。日本中の競馬ファンが注目し楽しみにしていたと言っても過言ではないレースであった。2020年のジャパンカップも、現役最強のアーモンドアイ・無敗の3冠馬コントレイル・無敗の牝馬3冠馬デアリングタクトが出走して日本競馬界が大いに盛り上がったが、当時の毎日王冠もそれと同じくらいの盛り上がりを見せていたように思う。
レースは、楽なペースで逃げるサイレンススズカを無敗の4歳馬2頭が追いかける展開に。さすがは当時の現役最強馬、最後の直線に入ってもバテるどころか後続をどんどん突き放していく。
──そんな中、1頭だけ別次元の末脚で追い込んできたのがエルコンドルパサーだった。
直線半ばで苦しくなったのか、外によれてしまってはいたものの、ゴール手前では逃げるサイレンススズカとの差をグングン詰めていく。残り200メートルでは6~7馬身ほどあった差が、5馬身、4馬身、3馬身……。
さすがにサイレンススズカを差し切るまではいかなかったが、2馬身半まで詰め寄った内容は、負けて強しの2着であった。
最速、最高、日本最強!
その走りを見て、次の照準をジャパンカップに合わせたエルコンドルパサー陣営。ここでは同期で日本ダービーを5馬身差で圧勝したスペシャルウィーク、最強牝馬エアグルーヴとの初対戦を迎えることとなる。
レースはエルコンドルパサーが3番手につけると、その少し後ろにスペシャルウィークとエアグループが5番手・6番手あたり。人気馬が揃って前の方で互いをけん制しあいながら、レースが進んでく。直線に入ると大逃げを打っていたサイレントハンターをとらえ、3頭が先頭に躍り出る。
内からはエアグルーヴ、外からはスペシャルウィーク、真ん中エルコンドルパサー。
──さぁ、ここから3頭叩きあいの追い比べが始まるのか!?
と思いきや、内と外の2頭は1馬身まえにいるエルコンドルパサーに追いつけない。ゴール手前ではさらに2頭との差を広げ、終わってみれば2馬身半差の完勝であった。
日本最高峰のレースで、先行から早め抜け出しという王道の横綱競馬を見せつけたエルコンドルパサー。
「最速、最高、日本最強!」
当時のエルコンドルパサーについて、このように形容しても決して過言ではないだろう。
そして、1年が終わってみればエルコンドルパサーは最優秀4歳牡馬に選出されていた。同じレースに出走して先着しているとはいえ、日本ダービーを圧勝したスペシャルウィーク、年末の有馬記念で優勝し復活を果たしたグラスワンダーを抑えての受賞である。
世界へ向けて、コンドルは飛んでゆく
年が明けて1999年。
エルコンドルパサー陣営から、秋の凱旋門賞を目標に、長期にわたるヨーロッパ遠征を行うと発表があった。凱旋門賞はポンと行って勝てるようなレースではない。勝つためにはヨーロッパ仕様の馬に仕上げる必要があるだろう。
休養から戻った4月、エルコンドルパサーはフランスへ飛んで行く。
凱旋門賞制覇へ向けた挑戦のはじまりである。
初戦は5月に行われるイスパーン賞(G1)。
初めてのフランス競馬、休養明け初戦ということもあり2着に敗れはしたものの、決して悲観することのない、内容のある競馬だった。手応えを感じた陣営は、このままフランスに滞在することを決め、予定通り凱旋門賞を目指すことを選択する。
続いて出走したのは、7月に行われたサンクルー大賞(G1)。
ここには前年の凱旋門賞馬サガミックス、全欧年度代表馬ドリームウェル、ドイツ年度代表馬タイガーヒルなど、本番の凱旋門賞でも顔を合わせそうな錚々たるメンバーが顔を揃えていた。そんな一線級の馬たちを相手に、終わってみればエルコンドルパサーは2着に2馬身半の差をつけてゴール板を駆け抜ける。
陣営はさらに、エルコンドルパサーが凱旋門賞でも通用するという確信を深めていったことだろう。
その後、エルコンドルパサーはフレグモーネの症状を発症してしまい一頓挫あり、前哨戦のフォア賞(G2)は2着に敗れてしまったが、順調に凱旋門賞当日を迎えた。1番人気はこの年のアイリッシュダービーの勝ち馬モンジュー。エルコンドルパサーはこれに次ぐ2番人気で、いよいよ凱旋門賞の幕が上がる。
ゲートが開くと内枠だったこともあり、エルコンドルパサーの鞍上・蛯名正義騎手は逃げの作戦に打って出た。馬群に入って包まれて不完全燃焼となるリスクは避けられるが、テレビの前で応援している身としては、直線に入ってそうそうに後続につかまってしまうのではないかと思ってヒヤヒヤしながら画面を見つめていたのを覚えている。
しかし、そこはさすがの日本最強馬。直線に入っても手ごたえ十分で、後続につかまるどころか、徐々に後ろとの差を開いていくではないか。
「これはもう勝ったんじゃないか!?」と思った瞬間、後ろから1番人気のモンジューが物凄い脚できた。「エル! エル! 粘れ! エル!」と、身を乗り出して声を張り上げる。「日本の馬が遂に世界の頂点に立つのでは?」と思うと、応援にも自然と熱が入る。
迫るモンジュー、食い下がるエルコンドルパサー。
どっちだ、どっちだ、どっちだ──。
……流石に世界の壁は厚かった。
ゴール直前でモンジューに交わされてしまい、エルコンドルパサーは2着だった。でもこれは大健闘。胸を張って日本に帰国できる結果である。
モンジューとの競り合いに負けるも素晴らしい競馬を見せてくれての2着──あの夜の興奮は、当時を知る競馬ファンにとっては20年以上経った今でも忘れられない思い出となっているだろう。
そして、その後、モンジューは来日しジャパンカップに参戦。
……が、そのジャパンカップでは「エルの仇はオレが打つ」と言わんとばかりに、スペシャルウィークが素晴らしい走りを見せてくれた。前年のジャパンカップでエルコンドルパサーに負けたダービー馬スペシャルウィークが、モンジューを破って優勝。
こういうドラマを感じさせる展開も競馬の魅力である。
ちなみに、テレビアニメ「ウマ娘」の第1シリーズ後半では、フランス競馬のトップを張るウマ娘としてブロワイエというキャラクターが登場する。エルコンドルパサーがライバル視している所から、モデルとなっているのはモンジューと思われる。気になる方は、ぜひチェックを。
コンドルの血を受け継ぐ馬たち
引退した2000年から種牡馬入りしたエルコンドルパサー。しかし残念ながら、2002年に腸ねん転によりこの世を去ってしまう。
エルコンドルパサーの血を受け継ぐ馬はわずか3世代のみとなってしまったが、その少ない産駒たちの中からもヴァーミリアン、アロンダイト、ソングオブウインドといったG1馬も登場した。特にヴァーミリアンやアロンダイトはダート王者として君臨した馬である。
タラレバになってしまうが、もしエルコンドルパサーがもっと長生きしていたら……。ダート馬の父としても、今のディープインパクトやキングカメハメハのような偉大な存在になっていたかもしれない。
産駒たちの活躍を見ていると、そんな思いを抱かされる。
コンドルを超えていけ
エルコンドルパサーが2着となって以降も凱旋門賞に挑戦をした馬も数多く存在するが、いまだ1着でゴール板を駆け抜けた馬はいない。
2006年にはその名の通り日本競馬会に深い衝撃を与えた無敗の3冠馬ディープインパクトが挑戦するも、最後の直線では日本で見せるような飛ぶような走りが炸裂せずに3位入線。
2010年にはナカヤマフェスタが蛯名騎手を背に挑戦するも2着まで。
2013年、2014年には3冠馬オルフェーヴルが挑戦。当時、ゴール前200mくらいまでは日本中が勝利を確信するようなレースをしたものの、ゴール前で差されてしまい無念の2着。
世界最高峰のレースで2着というのも凄いことではあるのだが、ここまで来たら優勝する姿を見てみたい。それが日本の競馬ファン全員の願いではないだろうか。
エルコンドルパサーとナカヤマフェスタに騎乗し、ともに凱旋門賞で2着と悔しい思いをした蛯名騎手。調教師になった彼の管理馬が日本馬初の凱旋門賞馬になるのか、はたまた別の馬がその悲願を果たしてくれるのか。
日本馬初の凱旋門賞制覇はもう手が届くところまで来ている。
「コンドルを超えてゆけ!」
近い将来、日本馬が凱旋門賞に勝つ日が来ることを願って、今後も日本馬の挑戦を応援していきたい。
※馬齢は旧表記(当時)を使用しています。
写真:かず