
■『2025年・香港国際競走』目前。熱戦への期待に、胸が膨らむ。
毎年12月に施行される香港国際競走は、日本の競馬ファンにとって最も馴染み深い海外競走のひとつと言っていいだろう。
今年の日本からの遠征メンバーも、非常に充実している。
ドバイターフで香港の名馬ロマンチックウォリアーを破ったソウルラッシュを始め、大阪杯二連覇のベラジオオペラや、桜花賞・秋華賞の二冠を制したエンブロイダリー、菊花賞馬アーバンシック、高松宮記念勝ちのサトノレーヴ、スプリンターズS勝ちのウインカーネリアンを含む、強力な遠征布陣が組まれた。

香港で待ち受けるロマンチックウォリアーやヴォイッジバブル、そして前シーズンの『馬王(香港のシーズン代表馬)』で脅威の連勝をつづけるカーインライジングなど、日本でも名を知られた強豪馬との対決に期待で胸が高鳴る。
特に、日本馬にとってロマンチックウォリアーはここ数年、高く険しい壁であり続けたが、今年はついにサウジカップでフォーエバーヤングがその牙城を崩し、続いてソウルラッシュが勢いに乗り、ドバイでロマンチックウォリアーを破った。日本馬は、長く苦戦を強いられてきたロマンチックウォリアーを相手に、ついに溜飲を下げる2連勝を飾った。
──未知の敵との戦い、海外輸送、慣れない環境など、海外遠征には数々のハードルが存在するが、チャレンジしないことには新たな道を切り開くことはできない。
今や、日本馬の海外における活躍に慣れすぎてしまった感さえあるが、それらの活躍は、先駆者たちが勇気ある「第一歩」を踏み出し、壁にぶつかり、経験を重ね、何度敗れてもチャレンジを続け、少しずつ実績を積み重ね続けてきた賜物に他ならない。
そして、フジヤマケンザンが1995年に掴んだ香港国際カップの栄光の勝利と、そこに至る軌跡は、今日の日本馬の海外遠征の礎を築くのに大きく寄与したと言えよう。
■フジヤマケンザンの競走生活。臥薪嘗胆の時期を経て、日本代表として…
フジヤマケンザンの香港での勝利は、一足跳びで得られたものではなかった。フジヤマケンザンは通算35戦目にしてついに香港で勝利を掴むまでに、数々の挑戦に彩られた個性的な競走生活を送った。
フジヤマケンザンの立派な馬体も個性のひとつ。デビュー時の馬体重は、実に556kgを計時する。
3歳1月のデビュー戦は5着に敗れたが、馬体を絞り2戦目で初勝利を挙げると、8ヶ月の休養を挟み、900万下の嵯峨野特別で2勝目を挙げた。そして嵐山Sでの2着を挟み、5戦目にしてクラシック三冠目の菊花賞に出走し、レオダーバンの3着に好走する。
2勝目の嵯峨野特別、そして菊花賞とも格上挑戦だったことは、のちのフジヤマケンザンの挑戦続きの競走生活を早くも暗示している。
菊花賞後も、自己条件ではなく、9頭の外国馬が参戦した豪華メンバーのジャパンカップ(ゴールデンフェザント優勝)、年末の大一番・有馬記念(ダイユウサク優勝)に続けて出走。
それぞれ8着・10着に敗れはしたが、それでも、国内最高峰の戦いへの大胆な挑戦であった。
その後、4歳の3月に中日新聞杯で初重賞勝ちをおさめたフジヤマケンザンだったが、5歳・6歳シーズンは重賞勝ちからは遠ざかる。オープンで3つ勝利を積み上げていたため「不振」と表現するのは適切ではないだろうが、キャリア唯一のダート参戦となった1994年帝王賞の最下位もあり、臥薪嘗胆の時期であったとは言えよう。
そして、この間にフジヤマケンザンはキャリア前半に所属した戸山為夫厩舎から、鶴留明雄厩舎を経て、1993年9月に開業した森秀行厩舎の管理馬となっている。開業後まもなく、レガシーワールドでジャパンカップを制した森調教師の視野は広く、香港で創設された国際競走にも当然のごとく目を向けた。
1994年12月、フジヤマケンザンは香港国際カップに初挑戦した。香港では出走各馬に英語表記に併せ漢字馬名が表記されるが、フジヤマケンザンの漢字表記は、その巨躯、そして日本代表という立場にこの上なく似つかわしい「富士山」であった。
鞍上は、この年9戦のうち7戦でコンビを組んだ蛯名正義騎手(現調教師)が務めた。
結果は、オーストラリアから参戦したステイトタジの逃げ切りを許し4着に終わったものの、直線で大外から伸び、1番人気のエンペラージョーンズ(英国)に先着した末脚は見どころのあるものだった。
■挑戦することの大切さを思い出させてくれる、三度目の正直
明けて1995年、フジヤマケンザンは7歳となったが、3月の中山記念で3年ぶりの重賞制覇を果たし、2度目の香港遠征となるクイーンエリザベスⅡ世カップに挑んだ。
このレースでは好位の内目を進み、直線をいい手応えで迎えたが伸びきれず、優勝したUAEのレッドビショップから大きく離され、10着で入線。のちに蛯名騎手は、この頃は日本馬の海外遠征自体が少なく、自分の経験値も少なく、力が入っていたと振り返っている。
フジヤマケンザンは二度の香港遠征で結果を出せなかったが、展開がスムーズだったなら──という場面もあり、地力のあるところは見せていた。
日本に帰国後は、七夕賞で重賞3勝目を飾り、富士ステークス(当時はオープン)では、宝塚記念2着の断トツ1番人気タイキブリザードを競り落とし快勝。三度目の正直となる香港遠征、香港国際カップへ弾みをつけて臨んだ。
鞍上は、今度こそと手綱を託された蛯名騎手。
レース前の下馬評では、地元香港で6連勝中のミスターバイタリティ、UAEのトリアリウス、フランスのシャンクシーなどに人気が集まり、フジヤマケンザンは二度に渡る香港での敗戦のためか人気は上がらず、単勝は38倍と完全な人気薄となった。
しかしレースではフジヤマケンザンは好スタートを決めると内めの好位置をキープ。道中で存分に力を溜め込み、直線に向くと蛯名騎手の右鞭に応え、巨躯を揺らしながら前に迫った。ミスターバイタリティに馬体を併せ競り落とすと、逃げ込みを図るヴェンティクアトロフォッリ(アメリカ)との差を一完歩ずつ詰め、ゴール直前でしぶとくとらえた。
フジヤマケンザン、三度目の正直が成った、香港国際カップ優勝。
それは同時に、日本馬にとって1959年のハクチカラによるアメリカ・ワシントンバースデーHC以来36年ぶりとなる、海外における平地重賞制覇という金字塔となった。

その後、長らく停滞していた日本馬の海外遠征は活発化し、1998年に森秀行厩舎所属、つまりフジヤマケンザンの後輩と言えるシーキングザパールが日本調教馬として初となる海外GⅠ制覇、フランスのモーリス・ド・ゲスト賞優勝を果たし、その翌週にはタイキシャトルが同じくフランスのGⅠ、ジャック・ル・マロワ賞優勝と快挙がつづいた。
また、フジヤマケンザンの相棒、蛯名騎手は、エルコンドルパサーとのコンビで1999年にフランス遠征に挑み、GⅠサンクルー大賞に優勝、そして凱旋門賞ではモンジューと激戦を繰り広げた。惜しくも惜敗に終わったが、不良馬場での激闘は、今でも競馬ファンの語り草となっている。
凱旋門賞制覇への道が未だ遠いように、世界にはまだ日本馬の手の届かないビッグレースは数多い。
しかし、フジヤマケンザンが見せてくれた挑戦の軌跡、レースで見せてくれた粘り強い前を捉えようとする末脚を思い出すと、どんな夢もいつかは叶う気がする。
フジヤマケンザンの走りは、挑戦することの大切さを、我々に思い出させてくれる。
写真:三原ひろき、香港賽馬會
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