[連載・馬主は語る]真空地帯を逃さない(シーズン1-28)

ついにセリが始まりました。1番の繫殖牝馬が登場すると、あっという間に価格が上がっていき、1000万円の大台に乗りました。目の前で1000万円単位でやり取りが生まれている空間に入り込んでしまうと、もう普段の生活で使っているお金とは別の通貨が動いているような不思議な感覚に陥ります。10円安いお茶を求めて隣の自動販売機に移動するいつもの金銭感覚を捨て去らなければ、ここでは生きていけないのです。正気か狂気かと問われれば、間違いなく狂気の世界です。

今回の繫殖牝馬セールに臨むにあたっての戦略のひとつに、「真空地帯を逃さない」というものがありました。これはシルクホースクラブの元代表取締役である阿部幸也さんが2121年8月号の会報に書かれていたことです。

「どんなセリでもそうですが、どうしても落札したい人が2人いて、その2人が青天井の予算を持っていれば、理論上いくらでも価格は上がります。(中略)また、多人数のバイヤーが参加しているセリでは、せり上げのスピードに緩急が生まれ山場が2回3回と発生します。そのような様々な性格の違うセリが次から次へと続く「流れ」の中では、時として「真空地帯」が発生することがあります。私どもは毎年セレクトセールに参加していて、「流れ」から決して下りずにその「真空地帯」を逃さないことこそが一番大事であること肝に銘じています。そしてこの「流れ」は人間の感情の綾で起こるものであり、AIなどでは決して予測することはできないものだとも思っています。

真空地帯を逃さず上手く利用することで、僕のような弱小馬主でも意中の繫殖牝馬を落札する可能性があるのではないでしょうか。そのためには、待っているだけではなく、自ら競り合いの場に参加することで、真空地帯を見つけなければいけません。もしかしたら、真空でかまいたちに切り刻まれて終わってしまうかもしれませんが、その時はその時です。

候補馬5頭のうちの最初の1頭である25番が近づくにつれて、忘年会の出し物で順番が回ってくるときのような緊張感が少しずつ僕を襲ってきます。その程度かと言われたらその程度なのですが、誰も結末が分からない未来がすぐそこまで近づいてきていることに、もう46歳になった僕でも心拍数が上がるのです。

25番は500万が上限と心の中で唱えていると、ノーブルワークスが現れました。下見では煩いところを見せていたのに、人前に出るときには落ち着いて歩いています。さすが2勝馬です。「それでは300万円から!」と声がかかると、すぐに手が上がりました。やはりひと声では難しいかと思いつつ、「350万円はいませんか?」という合いの手の間合いを見計らって、僕は左手を挙げました。

手の挙げ方も人によってさまざまです。僕の近くにいた方は、手を挙げるのではなく、ボールペンを上に向けることで合図を送っていました。このちょっとした動きを、前に立っている係員が読み取って、鑑定人にその意志を伝えます。それを受けた鑑定人は、「はい、350万上がりました。400万いますか?」と値段を吊り上げていきます。はっきりとは覚えていませんが、450万円は僕が手を挙げたはずです。その後すぐに、500万と声がかかりましたので、ここで僕は諦めました。結局、25番のノーブルワークスは900万まで競り上がりましたので、今回の僕にとって買える馬ではなかったということです。

真空地帯など、微塵もありませんでした(笑)。とはいえ、候補馬の1頭を落とせなかった落胆はなく、良い準備運動ができたと感じました。価格が上がっていく感覚やその間合いのようなものを体感することができ、肩の力が抜けました。ボクサーが一発もらったことで、逆に冷静になれるような感じでしょうか。

温まった体が冷めやらぬうちに、29番のダートムーアが登場しました。「それでは400万円から」というお題が発せられ、誰も声をかけるな!と心の底から願っていると、「はい、400万円いただきました!」とやはり競合相手が現れました。僕がゆっくりと450万円の手を挙げると、しばらく静寂の間がありました。わずか1、2秒ぐらいの時間でしたが、もしかすると落ちるかもと期待すると、次の瞬間、「500万円!」と誰かが返してきました。

自分のことで精いっぱいなので、周りを見る余裕などなく、どこかからか手が上がって競り上がっていく瞬間は、見えない敵から攻められているような感覚です。面と向かって争うわけではなく、敵が誰かも知らずに争うのがセリの面白いところ。相手がどれぐらいのお金を持っているのか、どれぐらいを予算の上限としているのか、僕にも相手にも分からないのです。

もしかすると、それは僕のような弱者にとっては有利に働くのかもしれないと、あとから思いました。僕が見えない敵と戦っていると感じるのと同じように、相手も見えない敵と戦っているのです。もしかすると、相手には僕ではなく、岡田牧雄さんであったり、ゴドルフィンであったり、ノースヒルズの前田幸治さんの代理人が見えているかもしれないのです。見えない敵だからこそ、相手の予算は無尽蔵であると思ってあきらめてくれる可能性があるということです。

もう少し頑張ってみようと考えた僕は、550万円で手をあげました。するとほぼ同時に右手からも手が上がったようでした。火花がバチバチっと散って、場が一気にヒートアップしたのが分かります。もうこの段階になると冷静ではいられません。間髪入れずに、600万円にチャレンジしました。もうこれが僕の上限です。心の中で、ごめんなさい、もう僕の手札は付きました。誰も競りかけてこないでくださいと祈りながら、表情ひとつ変えないように努めます。かなりの間が開きました。

これは落ちると、隣にいた下村獣医と長谷川さんと顔を合わせようとした矢先、「650万円!」と誰かがどこからか手を上げました。「終わった…」と僕の中の冷静な自分が優しく肩を叩きました。

(次回に続く→)

あなたにおすすめの記事