[インタビュー]川崎競馬のレジェンド山崎尋美氏が語る、我が競馬人生。

終わりの見えないコロナ禍。
「人口密集地」というより厳しい環境下の中にあっても、数日の開催中止で粛々と続けられている、川崎競馬の元騎手であり現調教師会長である山崎尋美氏(64歳)に、ご自身の競馬人生を振り返って頂き、地方競馬、川崎競馬の事、そして競馬ファンへの思いを語って頂きました。

白毛馬ユキチャンも間近で!
川崎の小向トレーニングセンター

山崎尋美(ひろみ)調教師が所属する川崎競馬場は神奈川県川崎市にあります。多摩川を挟み東京都大田区に隣接する地域です。小向(こむかい)厩舎地区と同トレーニングセンターは、「JR川崎駅」をはじめ、初詣に多くの人が集まる「川崎大師」、工場夜景の撮影スポットでも有名な「京浜工業地帯」や、再開発された多くのビル群、そして巨大ショッピングモールで全国1位の集客数を誇る「ラゾーナ川崎プラザ」に程近い場所にあります。 

山崎尋美調教師曰く 「小向トレーニングセンターは多摩川の土手にあって、日本で唯一誰でも調教が見れる場所にあるから、ユキチャンが現役の頃は人がたくさん来てたよね(笑)」 との事。
周りには多くの住民が暮らしていて、2000年代中頃より連載された漫画「ウイニング・チケット」の中にも登場するように、多くのビルやマンションの中に突如競走馬達が調教コースを駈け周るというダイナミックで珍しい光景が。

山崎尋美調教師は、白毛の「アイドルホース」としては元祖であろうユキチャン(最近ではメイケイエールの祖母でもおなじみ)の川崎所属時代の管理調教師も務められていました。

的場文男騎手や森下博元騎手と同期だった騎手学校時代

山崎調教師は先代の父三郎氏が元騎手で元調教師、ご子息の裕也氏も調教師、誠士氏も騎手と川崎競馬で代々続く家系です。しかし意外にも子どもの頃は競馬に興味がなかったそうです。

──子どもの頃から騎手になるのが夢でしたか?

いやいや全然(笑)
子どもの頃はレーサーになりたかった(笑)
車が好きでね。 生まれてからずっとこの小向に住んでいるけど、厩舎の手伝いをはじめたのは中学入ってから。先に同級生で手伝っていたこがいてね。それでお前もやってみろという事になった。
馬も楽しいかなと思ったのはそれからだね。その頃はまだ労働基準法もうるさくなかったから、朝調教つけてから学校に行くっていう生活。中学校には厩舎関係の同級生がいっぱいいたからね、授業中寝てても先生もみんな怒らなかったね。
「お前ら就職決まってるからいいや」って(笑)。
 騎手学校時代は森下博(元騎手)や的場文男(騎手)と同期だった。既にライバルと言う感じだったかな。1年間全寮制で生活習慣から何からみっちり鍛えられたね。 

──森下元騎手は昨年まで騎手をされ、的場騎手も今も現役と別の道を歩まれていますね。

年齢を考えても本当にすごいことだと思うよ。
的場は50代になって大けがしても戻ってるからね。俺はとってもじゃないけど無理って思うよね(笑)。
我が強かったけど、最近じゃ丸くなって若いのからいじられキャラになっていて、うちの誠士とかもちょっかい出してるよね(笑) 

地方競馬激動の時代を駆け抜けた
24年間の騎手人生

1973年(昭和48年)に川崎競馬から騎手デビューした山崎尋美調教師は、騎手時代、実に1827もの勝利数を残しました。

1997年(平成9年)引退までの24年間は、「競馬界の鉄人」佐々木武見騎手が南関東リーディングを席巻していた時代があり、乗鞍数制限の時期も長く、存廃問題、中央地方交流元年と、地方競馬史が大きく動いた中での大記録でした。

──現役時代は1827勝と大記録を残されました。騎手人生24年間で印象に残っている事、また今も記憶に残る馬を教えてください。

本当は2000勝したかったけどね(笑)
今は1日8鞍まで乗れるけど、当時は6鞍までという時期が長かった。
記憶に残っているのは、1978年、21歳で初めて重賞エンプレス杯を優勝したカネハツユキ、それと最初から乗っていたわけではないけどドルフィンボーイかな。操縦不能な馬で手が付けられなかった。何人もケガして誰も乗りたがらなかったけど当時厩務員だった池田孝(現調教師)が攻め馬を担当していてね。
1994年(旧4歳時)に、戸塚記念、東京王冠賞、東京大賞典と3連勝したのがいい思い出だね。それからロジータとホクトベガ。中央との力差をすごく感じたのはやっぱりロジータだよね。攻め馬だけ乗ってたよ。ロジータはジャパンカップ行ってあれだけ置いてかれて、その後すぐに東京大賞典を馬なりでぶっちぎって勝ったっていう(笑)。


かつて川崎競馬に所属したロジータは、地方競馬を代表する名牝で、現在も南関東S1レースに「ロジータ記念」とその名を残しています。1989年に南関東牝馬クラシックの浦和桜花賞と牡馬クラシック3冠、さらには東京大賞典をも制しました。

また同年に中央競馬にも果敢に挑戦し、ジャパンカップに出走するも15頭立ての15着に終わります。優勝馬はホーリックス、当時のワールドレコードでオグリキャップとのクビ差決着となったあの伝説のレースに同馬も出走しました。 


──川崎競馬は現在はコロナ禍で入場制限がありますが、それ以前は立地の良さもあり沢山の人でにぎわっている印象でした。でも歴史を振り返ると1980年代には存廃問題で揺れた時期があったのですね。

一時は赤字が36億もあってね、全体的に不況だったけど、特に川崎競馬が一番危なかった。
1983年(昭和58年)川崎市長から存廃問題を出され、翌年から検討委員会も始まり、「どれだけの人数が食べられなくなるかわからない」と反対の署名活動をしたり大変だったよ。
はっきりと流れが変わったと思ったのは1986年から始まった「大井競馬のナイター」だね。極端に違ったのは来てくれるファン層。今まで来なかったサラリーマンや中央競馬のファンが会社帰りに沢山寄ってくれるようになったと感じたよ。昼間(開催)の時は親父の罵声ばっかり浴びてたけど、それがどんどん黄色い歓声に変わっていった。騎手の間で「励みになる!」と言ってたよね(笑)

──最後に競馬ファンへメッセージをお願いします。

こういうご時世だからなかなか積極的に競馬場に来てほしいと言えなくて残念だけど、競馬ってやっぱり競馬場に来てパドックで馬の顔見て、目を見て……走るのはもちろんそうなんだけど、皆さんそれぞれ体型とか好きなタイプってあると思うんだよね。そういう「自分の好みの馬をみつけてほしい」と思います!
それと川崎競馬は日本で唯一調教を見られるんだよね。多摩川の土手の上からだと制限なく見れるので、ソーシャルディスタンスもばっちりだしお近くの人はぜひ見に来てください(笑)
地方はJRA違ってお客さんからすごく近いし、川崎競馬場も観客席に工夫をしているので楽しいですよ!


山崎調教師にお話を伺い、その姿勢から、人生の岐路に立った時の為に「いつ何時も先々を考え」「常にチャレンジ精神を持って」次の一歩を踏み出されているという印象を受けました。常に開拓者精神で新しいものを積極的に取り入れている姿の中に一貫しているのは「馬とそこに関わる人達を愛する」という信念です。 

騎手生活24年、そして今年は調教師生活24年目の山崎調教師のこれからの活躍を期待します。

写真:川原恵子

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