[連載・馬主は語る]僕が僕を超えた瞬間(シーズン1-29)

ここから先の展開は、僕自身が僕を超えた瞬間でもあります。何秒間考えたのか覚えていませんが、「もうありませんか?」と振り下ろされようとしているハンマーを見つめながら、僕は「700万円」の手を挙げたのです。

700万円であれば何とか用意できるという計算や見栄もあったと思います。せっかく下村獣医や長谷川さんたちに付き合ってもらってこの場にいるのに、100万を惜しんでどうするのだと自分で自分を鼓舞する感覚はありました。

そして何よりも、自分の心に火がついたことが大きかった気がします。ここで引いたら後悔する、何が何でも手に入れたいという気持ちが烈火のごとく湧いてきたのです。真空地帯どころか、僕は火事場に飛び込んで行ったのです。それは半ば僕の意志を半ば超えた瞬間でした。

決死の覚悟が伝わったのか、絶対に負けられない戦いは、この一撃であっけなく終わりました。もう僕には余力がなかったことを相手は知らなかったのかもしれませんし、相手も自分の予算を遥かに超えて戦っていたのかもしれません。それは永遠の謎ですが、とにかく僕は生まれて初めて繫殖牝馬を競り落としたのです。ダートムーアというエンプレス杯で3着したような名ダート馬を僕のものにしたのです。それは夢のような瞬間でした。自然と僕たちは握手を交わして、喜びを分かち合いました。

すると、ノーザンファームの吉田俊介さんが僕たちのもとに歩み寄り、ひと声、「ありがとうございます」と声をかけてくれました。僕はとっさに何と言って良いか分からず、「ありがとうございます」と返しましたが、あとから思うと、あそこは「どういたしまして」もしくは「いい馬つくります」が正しかったのではないでしょうか。

その後、ノーザンファームの中島場長などの面々からも「ありがとうございます」とお礼攻勢を受けました。吉田俊介さんや中島場長に頭を下げてもらうことなど、おそらくもう2度とないでしょうから、貴重な体験でした(笑)。

興奮のさなか、スタッフと思しき女性が書面を持ってやってきました。いわゆる売買契約書というやつです。オーストラリアで馬を落札したときは、別の方が署名をしたので、僕にとっては今回が生まれて初めての売買契約サインとなります。興奮で身体が震えているのか、それとも寒さなの分かりませんが、思ったよりも上手に字が書けません。それを悟られないように冷静につとめて、なんとか書き上げました。控えを渡され、見てみると、そこには消費税入りの金額が堂々と記載されており、下の方には振り込み先が。少しだけ現実に引き戻された瞬間でしたが、ダートムーアを買うことができた喜びが明らかに上回っていました。

しばらくその場でセリの様子を眺めていましたが、もう僕の心がここに在らずなのを察してか、長谷川さんが「馬、見に行ってみます?」と言ってくれました。当歳や1歳馬のセリと同じように、繫殖牝馬セールも購買者は実馬に会えるのでした。記念写真を撮ろうと思い、「行きましょう!」と下村獣医と3人で、ダートムーアが待つ馬房まで歩きました。

「いやー、よく落とせましたね」、「予算の限界を突破しちゃったけど」、「でも、いい買い物ですよ」、「手を挙げようかほんとうに迷ったよ」など、外から見ると、3人とも高校生に戻ったようにはしゃいでいたと思います。

セリを終えた繫殖牝馬たちが戻る馬房に着き、ダートムーアの購買者であることを伝えると、すぐに馬房から彼女を出してくれることになりました。他の馬たちは馬房から顔を覗かせている中、「ダートムーア」と書かれた馬房には誰もいないようでしたが、スタッフが奥に隠れていた彼女を連れ出してきてくれました。僕の目の前には、川田将雅騎手を背に、ダートを4勝してオープン入りし、エンプレス杯でも3着と好走した、エアグルーヴの姪にあたりフラムドパシオンの全妹である、あの名牝が静かに立っていました。僕の想像を遥かに超えた、大人しさと静かな慈愛のオーラが漂っていました。

僕たちはこれからダートムーアを中心に回っていくチームとして3人で写真を撮りました。その後、うながされて僕は一人で彼女と写真を撮ることになり、彼女の方を見てみると、すぐ鼻の先にダートムーアの鼻づらがありました。僕は馬の柔らかいその部分を撫で、「これからよろしくね」と話しました。彼女はとても落ち着いていて、まるでお姉さんのようでした。

(次回に続く→)

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