[連載・馬主は語る]ほんとうに、これだけの差。(シーズン1-34)

僕と全く同じことを考えていた人がいたようで、サラブレッドオークションの画面を更新してみるとrabikichi5さんが251万円で入札していました。入札金額を入力している瞬間にも入札額が上がっていくのがサラブレッドオークションの難しいところです。実際のセリ市であれば、価格が上がっていく周りの状況が分かりますので、知らない間にセリ上がっていたなんてことは起こり得ませんが、サラブレッドオークションでは気がつくと自分が入札した金額よりも高い金額ですでに入札している人がいるなんてことが起こるのです。

この時点で、モコモコ5906さんが脱落し、その他の競合が多数であることを実感した僕は第1手の金額を引き上げることにしました。馬体を併せて1万円ずつ競るよりは、一気に突き放すことで相手に差し返そうとする気持ちを抱かせないようにするということです。最後は300万円と決めていたので、第1手は280万円としました。入札ができるかどうかを早めに確認したいという気持ちもあり、迷うことなく、発射ボタンを押しました。

21時21分、オークション終了まで残り9分。僕のニックネームtakaj37が初めてサラブレッドオークションに登場しました。無事に入札することはできたのです。ひと安心しつつ、画面を見てみると、僕の名前の横に「候補者」のマークが出ているではないですか!自動入札になっており、253万の入札価格にしてくれています。僕はノートパソコンの前で祈りました。こんな父親の姿を息子に見られていなければよいのですが…。

祈りは通じなかったのか、僕の天下はわずか1分間しか続きませんでした。しかも僕が一気に突き放そうとした280万円のさらに先をいく283万円のひょうたん101さんがひょっこりと現れたのです。

さらに次の瞬間、目も離せないとはこのことで、rabikichi5さんが勝負に出て300万円で入札しますが、ひょうたん101さんにあっさりと弾き返されます。ひょうたん101さんは301万以上で入札していたようです。このあたりの相手の姿も手札も全く見えないところが、サラブレッドオークションの難しいところですし、面白いところでもあります。

そして、サラブレッドオークションがもっと面白いのは、ダークホースというか本命が次々と入れ替わることです。ひょうたん101さんで決まりかと思いきや、さらにその上を行くダスゲニー68さんが304万円で入札し、新星登場か!と思いきや、3分後には馬群に沈んだと思っていたツインダックスさんが再び差し替えしてきました。ここからまたまた超新星のkazuyoshiさんが大外から一気に差してきます。kazuyoshiさんが343万円を提示したあたりで、勝負は終わるのかなと思わせる一瞬の静寂がありました。

この1分間、いやもしかすると数十秒の中で、僕は最後の決断をしなければいけませんでした。このままあきらめるか、それとも最後の一撃を叩きこむか。予算は完全にオーバーしていましたが、僕は何か不完全燃焼というか、やり切っていない気持ちで一杯でした。計2手の動きで仕留めようと思っていたのに、一手しか放っていないからでしょうか。この時点で予算をオーバーしていましたが、もうワンチャンスに賭けてみよう、賭けてみなければ後悔すると考え、ひっくり返されることを承知で入札することにしました。

僕はパソコン画面の+のボタンをひたすらに押して、351万円で入札しました。350万円で入札している人がいるとすれば、それを上回るためには351万円としてその一撃で勝負を決めるしかないと考えたのです。もし351万円を超える価格を設定している人がいれば僕の負け、もし他の人たちの上限が350万円であれば僅差で僕の勝ちということです。これが今の僕に使える究極の速さの脚でした。

勝負は一瞬で終わりました。ツインダックスさんが351万円以上で入札していたようです。キーチャンスのオークション画面に352万円の赤い文字が灯り、静かな時間が流れました。おそらくツインダックスさんは360万円か370万円あたりで入札をしてきたはずです。消費税を入れるとすでに400万円を超えています。ここからさらに競り合いを続けるとすれば、400万から500万近くまで行きそうなのは誰の目にも明らかでした。最後の一撃をあっさりと弾き返された僕には、もう一度差し返す気力は残っていませんでした。心が折れるとはこういうことを言うのでしょう。ファイティングポーズを取っていた拳をスッと下ろしました。

セリで負けたときの、この何とも言えない後悔の念は、言葉にしようがありません。たしかに予算を明らかに超えていましたし、あれ以上行ってもどこまで高くなるか分からないので、冷静に判断できたという見方もできます。でも、自分の心の中では、もっと行けたのではないかという気持ちを消すことができないのです。お金なんて、あとから稼げばよいことだし、何なら誰かから借りたっていいわけです。そもそもキーチャンスが走ってくれたら、350万だろうが400だろうが500だろうが回収できてしまいます。お金は何とでもなるけれど、走る馬を手に入れるチャンスは今しかなかったのに。

少し冷静になって振り返ってみると、最終的にはあの時、キーチャンスを信じることができていなかったということに尽きると思います。レース振りや調教で動く様子を見ても伸び代は十分で才能を感じていたのですが、心の底から「この馬は走る。絶対に手に入れたい」という気持ちが足りなかったのです。キーチャンスに実際に跨ったことがあれば、そうした確信を持てたかもしれませんが、そこが単なる新参馬主にすぎないのですね。今回のオークションは圧倒的な金額の差で負けたわけではないので、僕にもっと強い気持ちがあれば落とせたはずです。

ボクシングの名トレーナーであるエディ・タウンゼントは、世界チャンピオンになれるか否かの分かれ目を、親指と人差し指の間にわずかな隙間をつくってこう語りました。

「これだけよ。ほんとうに、これだけの差よ。わかる?」

ほとんどの勝ち負けを決めているのは、ほんとうに僅かな気持ちや技術の差なのです。

信じられなかったから負けた。それが悔しくて、セリで負けた人たちは後悔するのでしょう。

僕はこうして走る馬を手にするチャンスを失ってしまいました。失った馬の名前がキーチャンスであるのも皮肉ですね。キーチャンスは明らかに走る馬でした。調教でも抜群に動くし、レースでもしっかりと走る。能力の天井にぶつかることはあるかもしれませんが、それでも走る馬であることは確かなのです。もう2度と僕は走る馬を所有することができないかもしれない。そんな弱気と不安が一気に襲ってきました。「幸運の女神は前髪しかない」という言葉の意味を、このときほど味わったことはないかもしれません。

サラブレッドオークションはスリリングでとても良い経験になったけれど、もうしばらくは良いかなと感じました。僕が馬主へと最も近づいた瞬間であり、最も遠のいたのもこの瞬間なのかもしれません。

(次回に続く→)

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