「パドックの教科書」の発売にあたって

「ここで馬が走るんだ?競馬場って思ったよりも小さいんだね」

初めて競馬場に連れて来られたと思わしき女の子が無邪気に聞くと、

「アハハ、そんなわけないじゃん。ここはパドックと言って、馬の下見をするところ。実際のレースは向こうでやるんだ」と男は笑いながら本馬場の方を指差す。

「へぇー、そうなんだ。知らなかった~。どおりで小さいと思った」と女の子は顔を朱に染める。

どこの競馬場のパドックでも見られる、微笑ましい光景です。

男の言うとおり、パドックとはこれからレースに出走しようとする馬の下見所です。日常生活で馬に触れる機会の少ない僕たちにとって、実物のサラブレッドを初めて目にしたのが競馬場のパドックだった、なんて方も結構多いのではないでしょうか。

何を隠そう、僕もその一人です。東京競馬場のパドックで、生まれて初めて見たサラブレッドの大きさに、驚きを隠すことができませんでした。極限にまで鍛え上げられたサラブレッドの美しさや、勝負服を身にまとったジョッキーたちの神々しさに、僕はしばし言葉を失いました。あれから30年の時を経た今でも、競馬場に行ってパドックに立つと、あの時と変わらず胸の鼓動が高まります。

そんな僕ではありますが、パドック党かどうかと問われると、答えに窮してしまいます。競馬場に行けば必ずパドックに足を運びますし、パドックは競馬予想をする上でのひとつのファクターになりうるのですが、絶対的なものではありません。パドックだけを見ただけで勝ち馬を当てることは難しいのです。競馬のレースはもっと複雑な要素が幾重にも絡み合って結果が出るため、馬の体調が良くて、走る気になっているだけでは勝てないからです。

だからこそ、日々馬と関わっているプロフェショナルでさえ、「パドックを見ても分からない」と明言するのでしょう。トップトレーナーであった藤沢和雄元調教師は、「馬体は見ません。鞍を付けてゼッケンを置いてしまうと私の目には分かりづらいから」と言い、エアグルーヴやウイニングチケットなどの名馬を育てた伊藤雄二元調教師も、「これだけ長いこと競馬に携わっている私でも、分かりませんと答えるしかありません」とパドックの難しさを語っていました。

また、『武豊TV!』に出演した松永幹夫調教師は、地方競馬のパドックで人気馬の歩様がおかしいことを発見し、絶対に来ないと踏んで、ほくそ笑んで馬券の対象から外したところ、その馬がブッチ切って勝ってしまったという笑い話をしていました。このような話は数え切れないほどあります。

だからと言って、僕はパドックを見ることそのものを否定したりはしません。どちらかというとその逆で、馬を見る確かな眼さえあれば、勝ち馬を当てることは難しくとも、パドックで走る馬と走らない馬を見極めることはできると思っています。ただし、それにはひとつだけ条件があって、正しい見かたをするということです。僕の知る限り、パドックで正しい見かたをしている人は案外少ないです。ほとんど誰も馬を見ていない、と言っても過言ではありません。

それには理由があって、日本の高度に情報化された競馬では、パドックに立って馬を見ている時点で、その馬がこれまでどのようなレースをして、どれぐらい強いのか(または人気しているのか)、調子はどうなのか等を僕たちはあらかじめ知っているからです。人気している馬は強く見え、人気のない馬は弱く見えてしまいます。調子が良いと言われている馬は良く、悪いと言われている馬は悪く見えてしまうのです。本人が意識しているかどうかに関わらず、情報によるバイアスが僕たちの目を曇らせるのです。

元崖っぷちジョッキーこと谷中公一元騎手は、著書の中でパドック解説者についてこう語ります。

「意地の悪い仮定をしてみよう。一切のデータを渡さず、オッズも見せず、パドック解説者に馬の良し悪しを語ってもらったとする。結果はまず間違いなく、メチャクチャになると思う。少なくとも僕は、血統や実績を知らないまま、勝ち馬を見抜くことはできない。明らかにダメな馬は分かる。しかし、どの馬が勝つか、ということまではわからない」

──『ファンが知るべき競馬の仕組み』(東方出版)より引用

僕も谷中氏にほぼ同感です。テレビやラジオでパドック解説をしている人ようなでも、パドックで馬そのものを見ただけでは、なかなか良し悪しは分からないということです。そして、パドック解説者も決して人気馬ばかりを挙げているつもりはなく、人気だから良く見える馬を挙げているに過ぎません。逆説的ではありますが、パドックで推奨した馬同士で決着するということは、パドックを純粋には見ていないのかもしれません。パドックからだけの推奨馬であれば、結果はメチャクチャになることが多いはずです。レースが終わってから、「あの馬は良く見えた」と言う人も同じで、勝ったという情報があるから良く見えたように思えるのです。つまり、僕たちはパドックで歩いている馬を見ているようでいて、実は情報や記号を追っているにすぎないのです。

こうした状況の中で、僕たちのパドックで馬を見る眼が育たないのは当然でしょう。馬を本当に見たことがないのですから、馬を見ることもできないし、正しい見かたも分からない。あたかも分かっているふうを装ってみても、実は何も分かっていない。また一方で、超自己流であったりするでしょう。自分では見えているつもりでも、それは錯覚もしくは妄想に近い。正直、もったいないと思うのです。生身のサラブレッドを目の前で見ることは、競馬の原点でもあります。ぜひ僕がこれからお伝えしていくパドックの見かたを身につけて、本来の馬を見る感覚を取り戻してほしいと思います。

そして、競馬場もしくは自宅のテレビで、サラブレッドがパドックを歩く姿を見てみてください。

パドックが宝の山に見えるはずです。

(まえがきより)

10月20日(金)に拙著「パドックの教科書」が発売されました! 偉そうに前書きしてしまいましたが、アメリカの競馬場で出会ったビリーを始め、たくさんの競馬関係者の方々に教えてもらったパドックの見かたを言語化しました。パドックの見かたの基本から応用まで、関係者の声を豊富に盛り込みながら、本質を突いた内容になっていると思います。

パドック党の方はもちろん、パドックはどう見たらよいのか分からないと悩んでいる方もぜひご一読ください。パドックを見るのが楽しくなりますよ!

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目次
きちんと歩くこと
馬体の大きい馬を狙う
仮想パドックのすすめ
上手獣医師インタビュー
馬具を見る
やーしゅん氏インタビュー

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