河崎五市氏×西園正都調教師。
2人の名前を聞いて、競馬ファンならば出てくる馬が1頭か2頭ほどいるのではないだろうか。
その2頭は、どちらも逃げ馬。
1頭は、マイルから中距離戦線で時に逃げ切り、時に後続に飲み込まれながらも、決してレースを作る役割だけは誰にも渡さなかった、シルポート。
──そしてもう1頭。
あの世界の短距離王、龍王ロードカナロアすらも下した短距離戦線の『驀進超特急』とも言える存在。
快速馬、ハクサンムーンの名を思い出すのではないだろうか。
韋駄天の遺伝子
祖母のメガミゲランは短距離で活躍した馬だった。河北通騎手を主戦とし、北九州短距離SなどOP特別を2勝。重賞で対戦した相手もスギノハヤカゼ、エイシンバーリン、フラワーパーク等、当時の短距離の一線級を相手に戦っていた。
そんな彼女の初交配相手としてあてがわれたのは、サクラバクシンオー。
当代きっての短距離王者との間に産まれた牝馬・チリエージェは、競走時代こそ条件馬に甘んじたものの、繁殖入り後アドマイヤムーンとの間にもうけた初仔に自身同様に栗毛の牡馬を産み落とした。
祖父母の驀進と快速の血を引くハクサンムーンには、その血に恥じぬ競走生活が待っていた。
師走の阪神、調教の良さを評価されて1.2倍の1番人気でデビューを迎えると、スタートから先手を取り、直線に向いても脚は鈍らずに逃げ切り。勢いそのままに中1週で参戦した朝日杯FSこそ16着の最下位に終わるが、キャリア1戦の身ながら4角までハナを譲らなかった。今思えばこの時点で、彼の『逃げの資質』は目覚め始めていたのかもしれない。
──ところが年が明け、500万を楽々逃げ切ったものの、そこからの3戦ではスタート不利や出遅れが重なり、逃げられない。不完全燃焼のまま掲示板を外す着順が続き、降級してしまった。
しかし、自分の形に持ち込んだ降級直後の出石特別では古馬相手に5馬身の差をつける余裕の逃げ切り勝ちを収めると、続くアイビスサマーダッシュでも格上挑戦ながら4着。その後1戦を挟んでの道頓堀Sでは、スタートからアイラブリリにマークされながらも突き放し、見事OPクラスに返り咲いたのだった。
ここまで10戦。朝日杯フューチュリティステークスを除けば、先手を取ったレースではすべて掲示板内。
逃げて粘り、二枚腰で突き放すその走りに早くも快速の影がチラつき始めていた彼は次走、京洛Sでも並み居る重賞常連馬たちを尻目に、1番人気に推される。
しかし結果は15着惨敗。先手を取ったレースで初めて、掲示板を外す結果が待っていた。
とはいえその600m通過タイムは、スタートからトシキャンディに絡まれ続けていたこともあって33.1という時計。真夏の小倉に匹敵するような超ハイペースは、流石のハクサンムーンも息が持たなかった。
続く京阪杯。
前走の敗戦で人気を10番人気と一気に落としていたが、この日は1枠1番の絶好枠。
好発進さえ決めてしまえば、彼の右に出る者はいなかった。ペースも34.3と、前走より1秒以上遅い通過。直線に向いてもその脚は止まることを知らず、控えた人気各馬を嘲笑うように逃げ切り、重賞初制覇を成し遂げた。
その背中には、夏の北九州短距離S以来2度目の騎乗となった酒井学騎手。
自身が苦しい時に、ずっとその背中を応援し続けてくれていた西園正都師とのコンビでの、初重賞制覇──これが、ハクサンムーンと酒井騎手とのコンビ結成の瞬間だった。
王者との邂逅
明けて古馬。春の大目標を高松宮記念に定めると、ハクサンムーンは石橋脩騎手を鞍上に迎え、初戦をオーシャンSに選んだ。しかし、好スタートから33.1のペースで内枠からスムーズに逃げたものの結果は9着。
当週の雨と風の影響が強く残り時計のかかっていた馬場とはいえ、いつもの逃げっぷりは鳴りを潜めていた。
この惨敗が響いたか、本番高松宮記念は鞍上が酒井学騎手に戻ったものの、前年の京阪杯逃げ切りは完全にフロックとみなされての85.6倍の10番人気という低評価。
たとえ良いところまでいったとしても、王者ロードカナロアには及ばないのでは──そうしたファンの思惑が示されているかのように、香港を制し、前哨戦の阪急杯も楽々制した王者の単勝オッズは1.3倍だった。2番人気のドリームバレンチノがかろうじて1ケタ台の9.4倍だった以外、全ての馬のオッズが2桁以上。そうした人気の差が指し示すように、多くのファンの視線がロードカナロアの圧勝というその期待に注がれていたことだろう。
ところが、ゲートが開いてスタートから変わらず飛ばしたハクサンムーンの手綱は、最後の直線、中京の坂に差し掛かってもピクリとも動かない。前走ハクサンムーンを中山の坂で捉えたサクラゴスペルはたまらず後退し、その外から王者、ロードカナロアと対抗馬ドリームバレンチンノが迫ってきても、まだ動かない。
200m手前、ようやく動いた相棒の手綱に呼応するように、その脚を伸ばすハクサンムーン。
未だその手応えは鈍らない。
──もしかして、このままいくのか。
しかし、我々が一瞬抱いたそんな幻想をものともせず、王者は来た。
残り50m地点で、ハクサンムーンの脚がわずかに鈍った。
その瞬間、ロードカナロアが外から強襲。一瞬で先頭は入れ替わり、そのままゴール板を駆け抜けた。
それでも、最後の最後までハクサンムーンは粘り通した。最後はドリームバレンチノに交わされたものの、10番人気、しかも2歳時以来のG1挑戦ながら3着。
その実力とスピードがフロックでないことを、ロードカナロアが安田記念で2階級制覇を決めた傍ら同コースのCBC賞2着できっちりと証明すると、陣営は最速を決める1000m直線の戦い、アイビスサマーダッシュへの参戦を前年同様に決めた。
真夏の韋駄天 誕生
1分もかからずに勝者が決まるアイビスサマーダッシュ。
真夏の新潟で行われる千直決戦は、競馬の夏の風物詩のひとつに数えられると言っても過言ではない。
この年も例外なく、まさに夏のスピード王決定戦にふさわしい快速馬達が名を連ねた中、7枠13番という好枠を引いたハクサンムーンは2.1倍の圧倒的1番人気に推されていた。
1000mという短い距離で、何より大事なのはスタートと加速力、そして圧倒的スピード。
あわや王者を出し抜かんとしたその韋駄天ぶりは、このレースでは力が違うと思われていたのは間違いないだろう。離れた2番人気と3番人気の8倍台に、パドトロワとフォーエバーマーク。とはいえ両者とも重賞戦線でその非凡なスピードを見せていた馬達であることは間違いなく、パドトロワは前年の覇者、フォーエバーマークは重賞勝ちこそないものの3歳時にはクラシック路線で常に先手を取り続け、前走の函館スプリントSではパドトロワに差のない3着。次点の4番人気スギノエンデバーも、上り33秒台の脚を安定して繰り出す切れ者であるように、実績ではハクサンムーンが一歩抜け出していたとはいえ、上位人気陣はなかなかの曲者達が揃い踏みしていた。
夏の新潟、最初の重賞ファンファーレが鳴り響き、電撃決戦のゲートが開く。
やや出遅れたスギノエンデバー以外はほぼそろったスタートを切り、外ではレオパステル、内ではフォーエバーマークが好スタートを切り、そのままフォーエバーマークが先手を取ろうとする。
しかし、激しく手綱をしごくフォーエバーマークを尻目に、ハクサンムーンは特に促されることもないまま涼しい顔で先頭へと脚を向けていた。先頭争いはこの2頭で固まり、その後ろ、プリンセスメモリーとアンシェルブルーを見ながら前年の覇者、パドトロワが先頭2頭を追いかけるように上がっていく。
出遅れたスギノエンデバーは何とか立て直し、中団から末脚を繰り出す態勢を整えつつあった。
息つく間もなく40秒足らずで残り400m。
再び追い出した内側のフォーエバーマークが先頭に立とうとするが、対照的に外のハクサンムーンはまだ手綱が動かない。鞍上の村田騎手が右鞭を1発、2発と入れても、酒井騎手はまだ追わない。
パドトロワは2頭の競り合いに加わることもできずたまらず後退していき、かわってリトルゲルダとレオパステルが脚を伸ばし、3番手争いに加わってくる。出遅れたスギノエンデバーは若干進路が狭いまま、脚を繰り出せない。
しかし、前を行く2頭とは大きな差。
気づけば3番手以下は先頭争いからは大きく外れていた。
残り200m。
ようやく酒井騎手が左鞭を高く振り上げ、ぴしりと打つ。
その瞬間、2段ロケットが点火。
もう一段階ギアが上がったその走りに、フォーエバーマークは追いつくことができない。
二の脚を存分に使い果たし、そのまま重賞2勝目のゴール板を駆け抜けた。その上りタイムはメンバー最速の31.9。あのカルストンライトオに並ぶ、逃げて最速の上り3ハロンタイムを叩き出した彼を、最早『伏兵』『フロック』扱いする人などいなかった。
次走の照準をサマースプリントシリーズ最終戦、セントウルSに合わせ、ここが復帰戦となるロードカナロアとの再度の戦いが、事実上決定的となった。
そして、9月の阪神のスタンドはどよめいた。
若干出遅れながらも外から一気に先手を取ったハクサンムーンは、4角を回ってもいつも通り先頭。
しかし、外からロードカナロアが詰め寄ってくる。流石は今まで競りかけてきた馬達とはひとつふたつも格が違う相手。あっさり交わされそうな勢いだった。
その首が、1馬身、半馬身と詰まってくる。
ところが、このタイミングで追い出した酒井騎手の指示に応えるように粘る、粘る。
阪神のスタンドが、一気に騒がしくなった。
捕まらない。何度もロードカナロアがアタックを試みるが、それ以上にハクサンムーンの脚色が良い。
後僅かの着差は詰まることなく、そのままクビ差残して、王者を封じ込めた。
快速の別れ
大金星と同時に堂々サマースプリントシリーズの王者に輝いたハクサンムーンは、堂々対抗格としてスプリンターズSに駒を進める。
今度こそ、王者交代の時が来たかもしれない。
そしてハクサンムーンは、確かに最高のパフォーマンスをした。
32.9という自己最速に匹敵するハイペースで逃げても、直線で追い出しを待つまでの余裕があった。
厳しいペースでもついてきた後続に、追い打ちをかけるかのように坂の手前で再び突き放す。
その差は2馬身。遂に王座奪取の時か。
──しかし。
「世界のロードカナロアゴールイン!」
王者は、前走の二轍を踏まなかった。
馬群の真ん中からスパートしたロードカナロアは、図ったようにゴール手前で今度はきっちり差し切り春秋スプリント制覇を達成。ハクサンムーンは、またもロードカナロアの後塵を拝することとなった。
G1で3度目の苦杯を舐めたハクサンムーンは、これがこの年最後の出走となり、ロードカナロアが引退した次年以降、十分に短距離戦線の主役となる可能性を秘めていた。
ところが翌年2014年、掲示板に乗ったのは5戦中2戦のみ。
出遅れて不完全燃焼や、失速も多く見受けられたその走りに、4歳がピークだったのではないか、という噂も聞こえ始めていた2015年。オーシャンSで1年ぶりに手綱が戻った酒井騎手と逃げ2着となり復調の兆しを見せると、本番高松宮記念で、3番手から直線で一気に抜け出し後続を突き放す。
2番手からミッキーアイルとエアロヴェロシティが追いすがるが、その差はなかなか詰まらない。遂に悲願のG1制覇に手が届くようにも思えた。
しかし、残り100m。急襲した香港のトップスプリンター、エアロヴェロシティの切れ味が僅かにハクサンムーンの執念の粘りを上回った。ゴールの瞬間、絶叫しガッツポーズするザカリー・パートン騎手の後ろで、酒井騎手は悔しそうに馬上でうつむいた。
その後4戦するものの、勝利をあげることはできずに引退、種牡馬入り。
最後に走った高松宮記念を勝ったのは、かつてのライバル、ロードカナロアにどこか似通った成績を持つビッグアーサーだった。左回りの旋回癖にパドックでは決して騎手が乗らず、馬場入りしてから騎手が乗るなど、どこか不思議な癖を持っていたハクサンムーン。エンドスウィープ、サンデーサイレンス、モガミと気性難のクロスが多発した故の気難しい彼と、レースでの韋駄天ぶり。
あの新潟の外ラチ沿いを駆け抜けた彼のスピードを受け継ぐ子孫たちが現れるのを楽しみにしたい。
そして今年も、また新潟のラチ沿いを駆け抜ける各馬に夏を感じる。
その韋駄天ぶりに、想いを馳せて。
写真:Horse Memorys