愛すべき名脇役、ホッカイルソー。不死鳥のごとく甦った生涯を振り返る

2023年10月20日。ダーレージャパンの公式X(旧ツイッター)が、ホッカイルソーの死去を発表した。31歳。年齢を考えれば大往生といえる生涯だった。

菊花賞の週に伝えられた訃報。それは、私にとってなにか運命を感じずにはいられないものだった。というのも、ホッカイルソーの存在をそれまでよりも強く感じはじめたのが、95年の菊花賞だったからである。

1995年11月5日。

まだ小学生の私はこの日、父と兄の3人で京都競馬場に来ていた。メインの菊花賞を迎える前、父は、我々二人に予想を聞いてきた。それを参考にして、馬連を1点ずつ買うのだという。

どういうわけか、本命は二人とも「上がり馬」マヤノトップガンで一致していたが、相手が違った。兄は当時、菊花賞トライアルとしておこなわれていた京都新聞杯の4着馬トウカイパレスを指名。一方、私はホッカイルソーを指名した。

予想の根拠はほとんど覚えていないけれど、皐月賞とダービーで先着を許したタヤスツヨシとオートマチックは前哨戦で大きく敗れていた。ホッカイルソーとてセントライト記念4着だったが、ライバルに春の勢いがないのであれば出番があっても不思議ではない。おそらく、そんな考えだったのではないだろうか。

その数十分後。目の前で繰り広げられた攻防は、驚くほど二人の予想どおりとなった。

迎えた2周目の直線入口。抜群の手応えで早目先頭に立ったマヤノトップガン。タヤスツヨシとオートマチックは伸びあぐね、外から迫った1番人気のオークス馬ダンスパートナーも、残り200mで止まってしまった。

マヤノトップガンの優勝は濃厚。焦点は2着争いとなり、ダンスパートナーにかわって内から伸びてきたのがトウカイパレスとホッカイルソーだった。

「ルソー! ルソー!」

声が枯れるまで、とは言わないまでも懸命に叫んだが、しかし。その思いも虚しく、先頭でゴール板を駆け抜けたマヤノトップガンに次いで入線したのはトウカイパレス。ホッカイルソーは、1馬身1/4及ばず3着だった。

もちろん、自分が馬券を買っている訳ではない。兄の予想に「マル乗り」した父の馬券が当たってその日の食卓にお寿司が並んだけど、その兄とてお小遣いをもらえたわけではない。

30年近く経った今でも、菊花賞の惜敗は言葉や字で表せないほど悔しいが、ただ一つ確実に言えるのは、あの日から自分の中でホッカイルソーの存在が一気に大きく、愛おしいものになっていった。


2、3歳時のホッカイルソーを語る上で、切っても切れない関係といえるのがサンデーサイレンス産駒、とりわけフジキセキの存在だろう。

サンデーサイレンスの初年度産駒がデビューしたのは1994年のこと。産駒は勝ち星を次々と重ね、瞬く間に2歳戦を席巻した。中でも、フジキセキはデビューからの3戦をいずれも完勝し、GⅠの朝日杯3歳S(現・朝日杯フューチュリティS)を制覇。クラシックも、この馬で間違いなしといわれていた。

一方、ホッカイルソーの父はマークオブディスティンクション。今では大変貴重になった、ゴドルフィンアラビアンを始祖とするインリアリティ系の種牡馬である。

その初年度産駒の一頭としてデビューしたホッカイルソーは、初戦こそ10着と敗れるも、3戦目で勝ち上がり、府中3歳S(現・東京スポーツ杯2歳S)と年明けのジュニアCを快勝。東のクラシック候補となった。そして、初の重賞タイトルを賭け出走した弥生賞で待ち受けていたのがフジキセキだった。

このレースで断然の支持を集めたフジキセキは、久々の実戦が影響したのか、道中いきたがるなど、やや危なっかしい場面があった。その様子を後方で見ながらレースを進めていたホッカイルソーは、3、4コーナー中間で早くも先頭に立った王者に対し、直線半ば、満を持してライバルに並びかけようとした。

フジキセキ危うし──。

誰もがそう思いながら併せ馬で坂を上り切った、まさにその瞬間だった。

なんとフジキセキが、ほんの一瞬でホッカイルソーを2馬身も突き放したのである。

こんな加速力を見せるサラブレッドが、かつていただろうか。誰もが呆然とする中、フジキセキは涼しい顔でさらに差を広げてゴール板を駆け抜け、あっさりと4連勝を達成した。

一方のホッカイルソーは意気消沈してしまったのか、これを追う力は残されておらず2着。結果だけ見れば悪くはない内容だったが、本番を前にしてまざまざと性能の違いを見せつけられてしまった。

ところが、フジキセキがクラシックの晴れ舞台に立つことはなかった。

弥生賞から19日後。屈腱炎が判明したフジキセキの現役引退と種牡馬入りが、電撃的に発表されたのである。

ホッカイルソーをはじめとするライバルの陣営にとって、おそらくその知らせは寝耳に水。俄然、色めき立ったのではないかと推測するが、春二冠でホッカイルソーの前に立ちはだかったのは、別のサンデーサイレンス産駒2頭。ジェニュインとタヤスツヨシだった。

まず、皐月賞をジェニュインが勝利し、タヤスツヨシが2着となってワンツーを決めると、ダービーは着順が入れ替わってタヤスツヨシが雪辱。2レースともに3着はオートマチックで、4着がホッカイルソー。つまり、春二冠で上位を占めたのは、まったく同じ顔触れの4頭だった。


ところで、誤解を恐れずにいうなら、これまでに数回、私はホッカイルソーの「死」を意識したことがある。2019年の夏も、そのうちの1回だった。

この年、北海道で開催されたセリを見学した私は、翌日、帰京を1日ずらし知人とともに牧場を巡る機会に恵まれた。その道中、どの馬に会いたいかと聞かれたとき、瞬時に「ホッカイルソー」と応えたが、ほぼ同時に「もしかすると、もう……」という思いが浮かんで、口に出しそうな言葉を飲み込んだ。

レンタカーの助手席に座りながら、携帯電話でホッカイルソーの行方を調べたものの、情報が掲載されているサイトはない。知人もまた「おそらくもう……」と、同じことを考えていた。

それから半年後。

縁あって、ウマフリで原稿を書く機会に恵まれた。原稿が掲載される前にプロフィール欄を作成することになり「好きな馬はホッカイルソー」と書いたとき、どうしているのかが再び気になった。ただ、半年で状況が変わるはずはなく、情報が掲載されているサイトはなかった。

生きていれば28歳。でも、やはりもう……。

しかし、さらに10ヶ月以上が経過した11月。ダーレージャパンの新卒採用者対象プログラムである「ゴドルフィン道場」のツイッター公式アカウントに、突如としてホッカイルソーが現われたのだ。

経緯を調べると、2000年に現役を引退したホッカイルソーは、生まれ故郷の北海牧場で種牡馬入りするも、数少ない産駒を残しただけで数年後に種牡馬も引退。その後、北海牧場も解散してしまったが、土地を買収したダーレー・ジャパン・ファームに繋養されていたのだ。

ホッカイルソーは生きていた。

想像や記憶の中だけでなく、確かに生きていた。

嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。と同時に、「生きていること」をなんの根拠もなく諦めていたことを本当に申し訳なく思い、ホッカイルソーとダーレー・ジャパン・ファームに対して心から詫びた。

でも、ホッカイルソーは僕たちの前に再び姿を現わし、不死鳥のごとく「復活」してくれた。あの日と同じように──。


菊花賞で3着と惜敗したホッカイルソーは、その後、確勝を期したオープンのディセンバーSで2着。さらに、年明けの中山金杯とダイヤモンドSも3着と敗れ、気がつけば待望の重賞制覇はおろか、1年以上も勝ち星から遠ざかっていた。

しかし、不良馬場の日経賞で大本命のカネツクロスを差し切って優勝。ついに重賞ウイナーの仲間入りを果たした。

そして、ナリタブライアンとマヤノトップガンの二強対決に沸いた春の天皇賞でも3着と「好走」。着順だけみれば菊花賞と変わりなく、サクラローレルとナリタブライアンの一騎打ちには加われなかったが、マヤノトップガンには先着。4歳馬の中でも最先着で、秋への視界は明るいように思われた。

ところが、始動戦としてオールカマーを目指していた過程で屈腱炎が判明。ホッカイルソーは、長期の休養を余儀なくされてしまったのである。

あのフジキセキが引退に追い込まれた屈腱炎。当時は、今以上に不治の病とされており、たとえ復帰が叶っても、著しく競走能力が低下してしまうことも少なくなかった。

もちろん、この知らせを聞いた時点で、我々ファンは長期の休養を覚悟していた。そして考えたくないけれど、ホッカイルソーがターフを駆け抜ける姿を二度と見ることはできない可能性があることも重々承知していた。

復帰の報を待つと同時に、常に頭の中を駆け巡る「引退」の二文字──。

休養が発表されてから半年が経ち、1年が経ち、ついには二年が経過した。が、しかし、復帰の報も出なければ引退の報も出ない。ホッカイルソーのファンとしてつくづく自分は失格だと思うが、正直この頃になると、募る一方だった不安もトーンダウンし、ホッカイルソーの存在自体を忘れそうになっていた。

また、この長期休養の間にターフを彩ったスターホースはどんどんと入れ替わり、先輩のナリタブライアンやサクラローレルはもちろん、同期のマヤノトップガンも引退。フジキセキに至っては、初年度産駒が98年にデビューしていた。

そして、天皇賞から3年が経過しようとしたとき、ついにホッカイルソー復帰の報が飛び込んできた。その舞台に選ばれたのは、1999年3月14日の中山記念だった。

ちなみに、前年のクラシックを賑わせたのは、史上最強といわれた世代。ダービー馬スペシャルウィークや二冠馬セイウンスカイ。さらに、3歳の日本馬で初めてジャパンCを制したエルコンドルパサーに、有馬記念で奇跡の復活を果たしたグラスワンダーがいた。そして、この中山記念で圧倒的な支持を集めたのも、世代を代表する一頭、キングヘイローだった。

結果は、人気どおりキングヘイローが快勝。ホッカイルソーは8着だったが、道中はキングヘイローをマークするようなポジションで、ややいきたがる場面さえあった。さすがに直線は失速したものの、長期の休養明けとしては十分な内容だったが、そこからホッカイルソーは3年間の鬱憤を晴らすように走り続けた。

日経賞、メトロポリタンS、目黒記念、七夕賞、新潟記念……。さすがに屈腱炎の影響は大きいか、かつてのような安定感抜群の走りとはいかなかったが、復帰3戦目のメトロポリタンSで2着。さらにそれから3走後の新潟記念でも2着に好走するなど、徐々に成績は上向いていった。

そして、復帰7戦目に選ばれたのが、休養直前に目標としていたオールカマーだった。

このとき人気を集めたのはダイワの2頭。ダイワテキサスとダイワオーシュウだった。とりわけ、ダイワテキサスは前年の覇者で、そこから休養を2度はさみながら、ホッカイルソーが復帰した中山記念でキングヘイローの2着。そして札幌記念が4着と、少頭数のここでは明らかに実績上位の存在だった。一方のダイワオーシュウも前年の2着馬。重賞は未勝利でも、2年前の菊花賞で2着の実績があった。

レースは、いつもどおり大逃げに持ち込もうとするサイレントハンターにグランスクセーが競り掛ける展開。2コーナーでは、早くも他の7頭を15馬身ほど引き離し、ダイワオーシュウとダイワテキサスが3、4番手。ホッカイルソーは後ろから2頭目に控え、前半1000mは58秒5のハイペースだった。

その後、3コーナーに入ったところから前2頭と後ろ7頭の差が徐々に詰まり始めると、これを機にホッカイルソーもスパートを開始。楽な手応えで4コーナーを回り、サイレントハンターやダイワの二騎とともに直線勝負を迎えた。

直線に入ると思いのほかダイワテキサスの手応えが悪く、ホッカイルソーはターゲットをダイワオーシュウに切り替えた。さらに坂下でサイレントハンターを捕らえると、そこからは完全に2頭の一騎打ち。スタンドから悲鳴にも似た歓声が上がる中、体半分前に出たホッカイルソーに対し、ダイワオーシュウも実にしぶとく必死に食らいつく。

それでも前に出ることを許さなかったホッカイルソーは、ついにライバルを競り落とし、3年半ぶりに先頭でゴール板を駆け抜けたのだ。

9頭立てのGⅡとは思えないほどの歓声が中山競馬場にこだまし、多くのファンが復活勝利を祝福した。しかも、勝ち時計の2分12秒0はコースレコード。不死鳥のごとく甦ったホッカイルソーは、本当の意味でターフに舞い戻ったのである。

その後、天皇賞(秋)に出走し13着と敗れたホッカイルソーは、明け8歳シーズンも現役を続行し、産経大阪杯、エイプリルS、天皇賞(春)と3走。天皇賞では、テイエムオペラオーをはじめとする「新三強」や、ステイゴールドには及ばなかったものの5着と古豪の意地を見せたが、屈腱炎が再発。実働7年に及ぶホッカイルソーの長き旅路は、ここで幕を下ろすことになった。

通算28戦5勝。うち重賞2勝。獲得賞金は3億9,579万円。

ビッグタイトル獲得はならずも、GⅠで掲示板を5度確保し3着2回は立派な成績。幸か不幸か、サンデーサイレンスの初年度産駒やマヤノトップガンと同じ世代になったが、間違いなく世代の根幹をなす一頭だった。

そのホッカイルソーの訃報をダーレージャパンの公式Xが伝えたのは、10月20日17時35分頃。あっという間にリプライ欄は温かいコメントで溢れ、日付が変わる頃には、その数およそ90。24時間後には110のコメントがあった。

名脇役ホッカイルソーは、こんなにも多くのファンに愛されていたんだ。

訃報は悲しかったけれど、それが分かって嬉しくなり、28年前に繰り広げられた直線の激闘をまた思い出した。

写真:かず

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