[連載・馬主は語る]月の満ち欠け(シーズン2-37)

「もうソロソロかもしれません」と滋さんから電話がかかってきました。乳房が硬くなりつつあり、この後、乳首の周りに乳ヤニと呼ばれる液体がつくと、出産間近のサインです。予定日まであと4日ですから、たしかにソロソロです。

「乳ヤニがついたらすぐに連絡しますから、準備しておいてくださいね」

「分かりました」

と言葉を交わして、電話を切りました。

僕は関係各所に連絡をし始めました。会う予定のある人たちには、もしかすると出産のタイミングが重なってしまってドタキャンするかもしれない旨を伝え、入れてしまっていた仕事の予定は延期したり、早めに片づけたりしました。いつ連絡があっても飛んで行けるような状態にして待機していました。1年越しのダートムーアの出産ですから、まさに万障繰り合わせて(この形式的な言葉がこのときほどピッタリだったことはありません)、立ち会おうと思ったのです。

正直に言うと、僕はサラブレッドの出産をリアルタイムで見たことが一度もありません。グリーンチャンネルなどの映像で出産シーンを見たことは何度もありますが、実際に目の前で産まれた瞬間を見たことがないのです。下村獣医師は「神秘的な瞬間です」と言います。僕が立ち会ったとしても何をしてあげられるわけではないのですが、生産の世界に足を踏み入れた者として、せめて一度は自分の繁殖牝馬から子どもが誕生する瞬間をこの目で見てみたいと思うのです。それは僕のエゴかもしれませんし、責任かもしれません。

正座して携帯が鳴るのを待っていても、一向に牧場から連絡はありません。忘れているんじゃないかと心配になって、「どんな状態ですか?」とLINEを入れたい気持ちは山々でしたが、そこをグッと堪えて、僕はじっと待ちました。産まれてくるときには産まれてくる。僕が焦ったって何も変わらない。来る日も来る日も、そう思いながら待っていましたが、結局、出産予定日になっても電話はかかってきませんでした。

1日、また1日、そしてまた1日が経ち、僕の心配はピークに達しました。あらゆる予定や仕事はつつがなく終わり、会う予定の人たちとも予定どおり会え、それでもまだダートムーアに乳ヤニがつかないのです。出産予定日から10日前後遅れることはあるとは聞いていましたが、さすがにあまり遅れてしまうのも心配です。高齢出産だから遅れているのかもしれないとか、栄養や運動が足りていないのかもしれないなど、余計なことまで考えてしまいます。

出産予定日から5日が過ぎた朝、「ついにダートムーアに乳ヤニが付きました!ここ5日間の確率が高いと思われます」とLINEが入っていました。下がり気味であったテンションが一気に上がり、グッと気合が入ります。いざ出陣です。その日の仕事を少し片づけて、飛行機のチケットを手配しようとしていると、滋さんから電話がかかってきました。

「乳ヤニにも薄い乳ヤニと濃い乳ヤニの2種類あって、今朝ダートムーアについたのは薄い方です。濃い方だとかなり出産のタイミングが近いのですが、薄いのでどうでしょうか」というニュアンスであり、僕もこれだけ待たされたので、もうしばらく待つのはいとわないという心構えでした。もろもろ準備を整えてから、明日の朝出発しても大丈夫かなとも思いましたが、そうこうしているうちに産まれてしまっては元も子もないと思い直し、昼過ぎのチケットを取ることにしました。

出発前に、うちの会社のスタッフの子どもに会う約束をしていました。熱が少し上がって保育園に預かってもらえなかったときに会社に連れてきて、預かったりしているうちに、いつの間にか自分の子のように可愛くなってしまった女の子。1歳と数か月なので、まだ話すことはできませんが、とにかく何でも美味しそうに良く食べるグルメ女子です。次に食べたいおかずを指定するほど我がままですが、表情豊かで、好奇心旺盛で甘えん坊。彼女とランチをして、近くの公園で遊び、バイバイするとき、彼女は素直に別れを惜しんでくれます。涙をこぼすこともありますし、手を振って、姿が見えなくなるまでベビーカーから乗り出してこちらを見ています。そんな姿を見ると、僕は今までに感じたことのなかった寂しさを感じてしまうのです。

僕が小さい頃、おばあちゃんが別れ際に泣いて見送ってくれたことを思い出しました。岡山の田舎にお正月やお盆休みに帰省して、1週間ぐらい滞在して東京に帰るとき、決まっておばあちゃんは泣いていました。子どもだった僕にはおばあちゃんの涙が不思議で仕方ありませんでした。「またすぐ来るよ」と言ってお別れしました。駅に向かうタクシーが角を曲がって、僕たちの姿が見えなくなるまで、おばあちゃんは見送ってくれました。あの時、車のバックミラーに映っていたおばあちゃんの気持ちが今ようやく分かった気がします。

もう会えないかもしれないと思うと同時に、今これからの未来を生きる子どもと、残された人生が少ない自分が交わる奇跡的な時間が過ぎ去り、消えゆこうとしている残酷さを心が感じるのです。時間は戻らないのです。どちらかと言うと冷たい部類に入る僕が、彼女と別れるたびに寂しさを感じるのだから不思議です。この日も彼女と会ってから、北海道に旅立つことにしました。

「月の満ち欠け」という僕の大好きな小説があります。生まれ変わりや前世をテーマにした恋愛小説です。主人公の瑠璃は高田馬場にあるレンタルビデオ屋で出会った大学生と恋に落ち、行く末を案じて自ら命を絶ちますが、その後、別の瑠璃として生まれ変わってその男と再会するという話です。月が満ちては欠けるように、僕たちは生まれ変わって何度でも会えるのだというのです。

「冗談だよ、アキヒコくん」
「冗談でも、そんなこと」
「いますぐじゃないよ。将来、アキヒコくんがあたしのことを負担に感じて、冷淡になったら、そのとき試しに死ぬ。そして生まれ変われるものなら、もっと若い美人に生まれ変わって、またアキヒコくんと出会う」
「怒りますよ」
「うん、もう言わない。ここまで」
瑠璃さんが唇を結んだ。
「そして僕は、若い美人と出会った僕は、すぐにその人が瑠璃さんだと見抜く」
「え?」
「瑠璃も玻璃も照らせば光る、から。どこに紛れていても僕にはその人が瑠璃さんだとわかる。瑠璃さんの生まれ変わりだと」
「…アキヒコくん、いま頭の中で一回あたしを殺したね」
「言い出したのは僕じゃない」

──「月の満ち欠け」佐藤正午 岩波文庫的より引用

瑠璃も玻璃も照らせば光るとは、優れた才能や素質がある者は、どこにいても目立つという意味のことわざであり、主人公の瑠璃の名前の由来となっています。オカルトチックでおとぎ話のようななストーリーのように思われるかもしれませんし、そもそも生まれ変わりや前世なんてあるわけないだろと言われたらそこでお終いですが、僕はどちらかというと生まれ変わりや前世が絶対にないとは言えないと思う側であり、そうした概念や思想がある方が豊かだと思います。生まれた国や宗教や違えば、生まれ変わりや前世を信じて救われている人々もいるのです。

生と死は決して断絶されたものではなく、連続したものです。僕たちの命は誰かの命であり、死んでしまったらそれで終わりではなく、また姿や形を変えて、僕たちは巡り合うことができるのではないでしょうか。もし上手く愛せなかった人がいたとしても、未練が残る恋があったとしても、今、目の前に現れた別の人を愛することでその想いは果たされるのかもしれません。人の人生は一回きりだから美しいのですが、それぞれの一回性は気づかないだけでつながっているのです。

窓から見下ろす風景は一面の雪景色。30分ほど遅れたものの、飛行機は順調に新千歳空港に着陸しました。アナウンスによると、新千歳の気温はマイナス7度だそうです。10年ほど前に帯広に行って、マイナス15度の中、ばんえい競馬の朝調教を見学したことがあります。東京に帰ってきてからさっそく風邪を引いた思い出があるので、マイナスとい聞くだけで身震いがします。

飛行機を降り、携帯の電源を入れると、数件のLINEが入っていました。その中に牧場からのものがあり、気軽に見てみると、「おつかれさまです。お知らせがありますので、時間があきましたらご連絡ください。よろしくお願いします」とメッセージが。もう北海道に向かっていることを知っているのに、ずいぶんと急を要するような内容だなと嫌な予感がしました。まさかもう生まれたなんてことはないよなと思いつつ、ダイヤルボタンを押して電話をかけました。

(次回へ続く→)

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