芦毛伝説の“語られざる章”を担った馬ホクトヘリオス。若き柴田善臣騎手との蹄跡を紐解く

芦毛伝説に名を残す異端児

1980年代後半から90年代初頭、突如“芦毛旋風”が吹き荒れた。4歳(現3歳)の400万条件戦(現1勝クラス)から、8連勝で春秋天皇賞と宝塚記念の3つのGⅠを制覇したタマモクロスの登場。そして、タマモクロスの引退後、国民的ヒーローと化したオグリキャップ。有馬記念で感動のラストランを飾ったオグリキャップがターフを去った翌年、メジロマックイーンが中長距離界を席巻した──芦毛馬が強く、美しく、そしてドラマを生む存在として注目された時代。平成から令和に年号が変わっても、その時代の記憶は「芦毛伝説」として、長く語り継がれている。

スダホーク、タマモクロス、オグリキャップ、ウィナーズサークル、メジロマックイーン、ホワイトストーン、ビワハヤヒデ…。「芦毛伝説」に名を刻まれた名馬たちは、ほとんどが中長距離を主戦場として活躍した馬たちである。その中で、ただ一頭だけマイル以下のGⅠレースで孤軍奮闘していた芦毛馬がいた。「重賞戦線では勝ち切れないが、常に上位に食い込む」灰色の追い込み馬として、芦毛伝説の異端児として名を刻んだ馬。それがホクトヘリオスである。

華やかな3歳、苦戦の4歳時

ホクトヘリオスは1984年生まれ。父は米国産のパーソナリティ、母ホクトヒシヨウ、母父はボールドリック。タマモクロスと同世代であり、オグリキャップとは同時代を駆け抜けた。

1986年、函館競馬場での新馬戦でデビュー。初戦は後の日本ダービー馬メリーナイスに敗れ3着だったが、折り返しの新馬戦で初勝利を挙げると、函館3歳ステークス、京成杯3歳ステークスと重賞2連勝を達成する。暮れの朝日杯3歳ステークスでは再びメリーナイスに敗れたが、それでも2着に食い込む健闘を見せた。

1987年、クラシック戦線に挑むも、弥生賞4着、皐月賞・ダービーともに13着と苦戦する。当時は距離適性より、賞金を積み上げて三冠レースに出走することが最優先の時代。皐月賞20頭立て、日本ダービー24頭立てという壮絶なレースに名を刻むことが、中央競馬に所属する牡馬の目標となっていた。

ホクトヘリオスの鞍上は南田美知雄騎手がデビューから騎乗し、弥生賞から日本ダービーまでは河内洋騎手が騎乗している。日本ダービー以降は3戦するが福島民友カップの3着が最高着順で、勝ち星には恵まれず4歳時(現3歳)を終える。才能と結果の間で揺れる一年だったが、ホクトヘリオスは諦めなかった。そして彼の真価は、古馬になってから花開く。

柴田善臣との絆がホクトヘリオスを輝かせた!

ホクトヘリオスの古馬時代の多くを支えたのが、当時若手だった柴田善臣騎手。彼の騎乗と、ホクトヘリオスの末脚は絶妙に噛み合い、ホクトヘリオスに再びスポットが当たりはじめる。柴田善臣騎手とのコンビでは、鋭い末脚を繰り出し、重賞戦線で常に好走する。勝利よりも「未来につながる敗北」が似合うコンビだったのかもしれない。

古馬になり柴田善臣騎手に乗り替わると、東京新聞杯2着、スプリンターズステークス3着、安田記念4着と好走する。秋のスタートは、中山競馬場改修のため新潟で開催された秋競馬オープニング重賞、京王杯オータムハンデ(現・京成杯オータムハンデ)。ホクトヘリオスは、後方待機から直線で逃げるダイナオレンジを捕まえると、ダイワタイヨーとの競り合いに勝ちハナ差の勝利、重賞3勝目を飾った。1年10か月ぶりの勝ち星をマークしたホクトヘリオスは、秋の最大目標となるマイルチャンピオンシップに駒を進める。

1988年のマイルチャンピオンシップは、サッカーボーイの圧巻のパフォーマンスが語り草となった一戦である。しかし、その背後でホクトヘリオスは、後方から鋭く脚を伸ばし、堂々の2着に食い込む。サッカーボーイには4馬身差をつけられたものの、人気のフレッシュボイスやシンウインドを抑えての入線は、彼の末脚の確かさと安定感を証明するものだった。そしてこの頃から、「追い込みのホクトヘリオス」として注目され始める。芦毛の馬体がゴール前で追い込んでくるたび、彼のファンが増えていく。ゴール前で芦毛の馬体を上位に並べているホクトヘリオスは、レースを見た観客たちの記憶に刻まれて行く。

6歳(現5歳)秋も京王杯オータムハンデ(現・京成杯オータムハンデ)を秋初戦に選ぶと、3着にまとめて、二度目のマイルチャンピオンシップに出走する。

1989年のマイルチャンピオンシップは、オグリキャップとバンブーメモリーの壮絶な叩き合いが競馬史に残る名場面となったが、その直後、静かに3着に入ったのがホクトヘリオスだった。オグリキャップの南井騎手とバンブーメモリーの武豊騎手によるゴール前での激戦に目が奪われる中、4馬身後方で馬群から抜け出してきた芦毛の馬体。4着のルイジアナピットを2馬身突き放し、ただ1頭でゴール板を通過した瞬間、ファンは「やはり彼はただ者ではない」と確信した。それは、主役の背後で確かな仕事をこなす、“名バイプレイヤー”の走りだった。

完成の域に達した7歳、そして…

7歳(現6歳)になったホクトヘリオスは、柴田善臣騎手とのコンビが完成されていく。

1990年の初戦に選んだ東京新聞杯では、直線一気の末脚で久々の勝利を挙げた一戦。14番手からの追走で直線に入ると、怒涛の差し脚を披露する。直線で伸び倦ねる1番人気のカッティングエッジを捕え、ゴール前で先頭に立ったリンドホシを計ったように差し切った。その末脚は、まさに“灰色の閃光”。東京新聞杯での勝利は、彼のキャリアの中でも特に美しい末脚であり、年齢を重ねても衰えぬ脚力と、柴田善臣騎手との信頼関係が結実したレースだった。

続く中山記念でも、直線で内から馬群を捌いて連勝を果たし、晩年の充実ぶりを印象づけた。

重賞連勝で臨む春の大一番は、3年連続の出走となる安田記念。5歳時、6歳時ともに直線で追い込むものの、届かずの4着で終わっている。3度目の挑戦となる今回、定位置の最後方から直線で追い込むものの、オグリキャップ、ヤエノムテキのGⅠ馬ワン・ツーに近づくことができず5着まで。

ホクトヘリオスは、安田記念後宝塚記念にチャレンジするが、2200mの距離では見せ場を作ることができず7着に沈み、春シーズンを終える。

芦毛伝説の“余白”として

宝塚記念後は夏休みを取り、秋に備えていたホクトヘリオス。秋は3度目となる京王杯オータムハンデから、マイルチャンピオンシップで念願のGⅠ制覇を目指すものと誰もが思っていた。

しかし夏の新潟競馬が佳境を迎え、秋競馬の話題が聞こえ始めた頃、ホクトヘリオスの引退が発表される。結局、3年連続の出走を目指した京王杯オータムハンデに、ホクトヘリオスの名は刻まれなかった。

               

芦毛馬が主役となった時代にあって、ホクトヘリオスはその“余白”を彩った存在だった。勝者の背後で静かに駆ける灰色の馬体は、芦毛伝説としてのドラマの奥行きを深めてくれた。彼がいたからこそ、時代の主役を演じたタマモクロスの強さも、オグリキャップの奇跡も、より鮮やかに浮かび上がったと言えるだろう。


ホクトヘリオスは、GⅠ勝利こそなかったが、芦毛の美しい馬体と強烈な末脚、そして何度も上位に食い込む安定感で、平成初期の競馬ファンの記憶に深く刻まれている。彼の走りは、勝利だけでは語れない「次走への希望」に満ちていた。

私自身がそうであるように、芦毛の馬が好きな人にとって、ホクトヘリオスは原点であり、象徴である。夏競馬の終盤、秋に向けた有力馬の動向が聞こえ始めるころ、今でも彼の名を思い出す。

Photo by I.Natsume

あなたにおすすめの記事