[JBCクラシック]アドマイヤドンにワンダーアキュート、ホッコータルマエ……。”生産者の祭典”を彩った名馬たちを振り返る。

北米のブリーダーズカップを範に、生産者が企画・運営するレースとして2001年に大井競馬場で始まったJBC競走。

全国の競馬場で持ち回り開催となるが、これまでアドマイヤドン・ヴァーミリアンが3連覇、タイムパラドックス・スマートファルコン・コパノリッキーが2連覇と、舞台が変わってもダートの強豪たちが圧倒的なパフォーマンスを見せてきた。

中央馬のみならず、近年の地方競馬の盛り上がりもあってか2021年にはミューチャリー(船橋)が地方馬として初めてJBCクラシックを勝利するなど、地方所属馬の活躍も目立ってきている。

今年も地方と中央のハイレベルなレースになることを願いつつ、今回はJBCクラシックを初めて3連覇したアドマイヤドン、『ウマ娘プリティーダービー』でもキャラクター化されているホッコータルマエとワンダーアキュートについて取り上げたい。

アドマイヤドン(2002・03・04年)

半兄アドマイヤベガがダービーを制覇する1カ月前の1999年5月17日、アドマイヤドンはノーザンファームで誕生した。

母のベガは93年の牝馬クラシック二冠馬で既にアドマイヤベガ、アドマイヤボスと2頭続けて重賞ウイナーを輩出した名牝で、父のティンバーカントリーも米GⅠ3勝の実績を持つ期待の種牡馬と、血統的には申し分ない配合と言える。

その期待通り、アドマイヤドンはデビュー戦の京都ダート1400mで2着に8馬身差をつけ初陣を飾ると、芝に替わった京都2歳Sも4馬身差の圧勝。

続く3戦目の朝日杯フューチュリティSでもライバルたちをねじ伏せ、2歳王者のタイトルに輝いたアドマイヤドン。しかし3歳春の調教中に他馬に蹴られる事故にあい、その精神的ショックからな、アドマイヤドンの歯車は狂っていく。

クラシック三冠には皆勤で出走したものの、皐月賞7着、日本ダービー6着、菊花賞4着と善戦どまりの歯がゆいレースが続いた。

ここで陣営は、菊花賞から中1週でJBCクラシックへ駒を進める判断をくだす。管理する松田博資調教師(当時)によると「ティンバーカントリーの子だから一回、ダートに使ってみようとなった」「菊花賞を勝ってもここに挑戦していた」と予定通りのローテーションだったというが、デビュー戦以来のダート、中1週のローテ、長距離輸送……と、不安要素は多かった。それでもファンはアドマイヤドンを当時重賞2連勝中のプリエミネンスに次ぐ2番人気に支持した。

レースは、アドマイヤドンの独壇場だった。

道中は好位を追走。4コーナーで先頭のすぐ後ろにつけると、直線の残り200mで後続を一方的に突き離し、終わってみれば2着のプリエミネンスに7馬身もの差をつけていた。

3歳にして芝・ダート両GⅠ制覇を成し遂げたアドマイヤドンだったが、その後、ジャパンカップダートではイーグルカフェの3着、フェブラリーSではゴールドアリュールの11着に敗北し休養に入る。

9月になり、これまで全レースで手綱を取ってきた藤田伸二騎手から安藤勝己騎手へと乗り替わっての挑戦となったエルムS。そこで馬なりのまま9馬身差の圧勝を見せ幸先よく秋初戦を制すると、続く南部杯も楽勝する。連覇を狙ってJBCクラシックに出走した。

2003年のJBCクラシックには、

・同年のダイヤモンドSと日経賞を勝ち、翌年天皇賞(春)を制覇するイングランディーレ

・ユニコーンS、ダービーGPと3歳ダート二冠馬のユートピア

・同年の帝王賞を勝ち、目下3連勝中と勢いに乗る船橋のネームヴァリュー

など、地方・中央から前年以上とも言える強豪が集結したが、アドマイヤドンはこれらをものともせず、むしろ直線で迫るスターキングマンを待つほどの余裕を見せ貫禄の2連覇を達成した。

労せずに絶好のポジションを取ると、スッと折り合い、あとは仕掛けるタイミングをはかるだけというレース運び。まさに“ドン(首領)”の名前にふさわしい走りだった。

その後はドバイワールドカップに挑戦(8着)するなどGⅠを転戦しながら、翌2004年の南部杯(2着)まで日本馬の先着を許さず、GⅠを2勝する無双状態に。そして3連覇の偉業がかかるJBCクラシックに出走する。前走の南部杯でアドマイヤドンを逃げ切りで撃破したユートピアが作った13秒を切る厳しいペースすら、いとも簡単に追走。3コーナーで前が固まると計算していたかのように1頭ずつ追い抜いていき、最後はアジュディミツオーとの叩き合いの末、3/4馬身差で勝利した。

なお、レースの5日前には半兄のアドマイヤベガが急死していた。コースレコードを24年ぶりに塗り替える勝ち時計2分2秒4、グレード制導入後初の同一GⅠ級競走3連覇、シンボリルドルフやテイエムオペラオーに並ぶ当時の史上最多タイのGⅠ級競走7勝目という記録づくめの勝利は、天国にいる兄からの後押しもあったのだろうか。

その後は有馬記念(7着)や産経阪杯(6着)など芝のレースにも挑戦したが、GⅠ級競走の勝利数を更新することなく2005年に引退。社台スタリオンステーションで種牡馬となったが、のちに韓国へ輸出され2022年9月22日に23歳で亡くなったという。

ワンダーアキュート(2012年)

2009年1月の新馬戦1着からキャリアをスタートさせたワンダーアキュート。順調に力をつけていき同年10月のシリウスSで重賞初制覇を飾り、続く武蔵野Sも勝利。ジャパンカップダートでは3歳ながら重賞2連勝中の勢いを買われ3番人気に支持されたが、6着に敗北した。

ジャパンカップダートの後は、2011年東京大賞典で全盛期のスマートファルコンに3.5cmのハナ差2着に迫るなどGⅠ級競走も含めほとんどのレースで馬券に絡む堅実ぶりを見せながらも、GⅠ級タイトルには手が届かなかった。そんなもどかしさを抱えつつ、6歳になったワンダーアキュートは2012年のJBCクラシックに出走することになった。

当時のJBCクラシックはスマートファルコンが引退しエスポワールシチーも出走回避したことで混戦模様となっていた。

1番人気は前年のドバイワールドカップで2着に粘りフェブラリーS・ジャパンカップダートと中央ダートGⅠを総なめにしてJRA最優秀ダートホースに選出されたトランセンド。

2番人気は重賞2連勝を含む3連勝中で休み明けを叩かれ好調のソリタリーキング。

さらに3番人気はマーキュリーC・ブリーダーズゴールドCと交流重賞を2連勝中で前年のJBCクラシック3着のシビルウォー、4番人気は同年のフェブラリーS優勝馬テスタマッタが続き、ワンダーアキュートは前走比マイナス21kgの馬体重も響いたのか出走した中央勢で唯一の二桁オッズの5番人気だった。

好スタートを切ったワンダーアキュートは3番手に控え、虎視眈々と前を狙う。2周目の3コーナー過ぎでトランセンドが先頭に立つと、トランセンド目掛けソリタリーキングとシビルウォーが並びかけていく。

しかしワンダーアキュートに騎乗する和田竜二騎手は「コーナーで仕掛けると外に膨らむ」と考え、内で息をひそめた。そして直線、外に持ち出されたワンダーアキュートは、豪快な末脚を発揮。2着のシビルウォーに5馬身差をつけ、嬉しいGⅠ級競走初勝利となった。

その後9歳まで現役を続け、2015年かしわ記念では平地GⅠ級競走における史上最高齢記録となる9歳での勝利を達成。前年も8歳で帝王賞を制していたことからも、年齢を重ねることでレースセンスが磨かれていったように感じられる名馬だった。

500kgを超える雄大な体重にもかかわらず、前の馬が尻尾を上げただけで止まってしまうほど性格はとても小心者だったという同馬。レースの日は厩舎に帰るまで水を飲まないどころか、ときには餌・水を一切口にせず、レース前日に汗をボトボト流したことがあり記者から “力石徹“に喩えられたこともあった。

一見のほほんとした印象を受けるが、和田騎手との名コンビやスマートファルコンを追い詰めたあの脚はファンの脳裏に焼き付いている。

ホッコータルマエ(2013年)

2010年セレクションセールで、コパノリッキーなどの馬主として知られるDr.コパこと小林祥晃氏との競り合いを制した矢部幸一氏に1500万円(税別)で落札されたホッコータルマエ。

3歳1月に京都ダート1400mでデビューするが、11着に敗北。しかし2戦目で9番人気の低評価を覆し初勝利を挙げた。小倉の短い直線で前に届きそうにない位置からの差し切りで、関係者は将来の飛躍を予感したという。

デビューからコンスタントにレースを消化し、3歳8月のレパードSで重賞初制覇。秋には古馬相手のジャパンカップダートで3着に入る活躍を見せる。しかし収得賞金を加算できず、4歳になるとフェブラリーSではなく佐賀記念に出走した。

これがホッコータルマエの転機となる。

佐賀記念を4コーナー先頭から2着のエーシンモアオバーに3馬身差をつける横綱相撲で快勝すると、重賞3連勝で迎えたかしわ記念でGⅠ級競走を初制覇。続く帝王賞も制覇し、南部杯ではエスポワールシチーの逃げ切りを許したものの2着を確保し、勇躍JBCクラシックへ参戦した。

2013年のJBCクラシックは、

・前年の覇者でそれから1年間全て3着以内を確保と安定感抜群のワンダーアキュート

・3連勝でジャパンダートダービーを7馬身差で圧勝したクリソライト

・前年のジャパンダートダービーでホッコータルマエ(5着)らを下して優勝し、この年の川崎記念を制したハタノヴァンクール

らが相手となったものの、ファンは勢いに乗るホッコータルマエを単勝オッズ1.4倍の1番人気に支持した。

1番枠に入ったホッコータルマエは、枠の利を活かしデビュー以来初めてハナに立つと、最初のコーナー過ぎでペースを落とし他馬を困惑させるようなペースを作り出す。そして2コーナーすぎでペースを上げ2番手以下を振り落としにかかると、向正面からさらに加速。マークしてきたワンダーアキュートと馬体を合わせることなく直線に入り、素晴らしい伸びを披露した。絶妙なペース配分で最終的に2着のワンダーアキュートに2馬身差のレコードタイムで駆け抜けた。

しかしこれが矢部幸一オーナーが見た、ホッコータルマエの最後のレースとなってしまう。

次戦のジャパンカップダートの4日前に息を引き取ってしまったのだ。帝王賞後に末期の肺ガンが見つかり、それからは病室で愛馬を観戦していたという。来年のドバイワールドカップまで生きることを目指し、辛い抗がん剤治療にも耐えてきたというが、その夢はついぞ叶わなかった。

そのジャパンカップダートは、1番人気の支持もあって陣営に「絶対勝つ」とのプレッシャーがかかりすぎたのか3着に敗れ、幸一氏の跡を継いだ道晃氏は「厩舎スタッフの皆さんにすごくプレッシャーを与えた」と後に語っている。

故人の遺志を受け出走したドバイでは、地下道に響く花火の音にイレ込んでしまい、最下位の16着に大敗。レース後には軽度のストレス性腸炎も発覚し、長期休養に入る。

休養中に筋肉痛を発症し、急仕上げのぶっつけでJBCクラシックに臨んだが、4着に敗れ連覇はならなかった。しかし続くチャンピオンズカップで念願の中央GⅠ制覇を達成。その後も順調にGⅠ級競走での勝利を積み重ねていき、15年6月の帝王賞でヴァーミリアン、エスポワールシチーに並ぶGⅠ級競走9勝目を挙げると、明けて7歳初戦となった川崎記念で当時の最多となる10勝目をマーク。この年限りでの引退が発表され、ファンは更なる記録更新を期待したが、JBCクラシック2着のあと脚の筋を痛め歩様に異常をきたし、急遽引退が決定した。

GⅠ級競走10勝のみならず、帝王賞・東京大賞典の両GⅠを2勝、川崎記念3連覇と、中央交流GⅠになってからは初めての快挙を達成した。

引退後は優駿スタリオンステーションにスタッドイン。ムダなことは一切しない賢い性格で、体重も100kg近く増加したという。そういったところがウマ娘のキャラクターに反映されているのかと考えるのも、一興かもしれない。

写真:Horse Memorys、かず

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