![[皐月賞]ウイニングチケット、ワグネリアン… 皐月賞で1番人気となりながらも着外に敗れ、そこからダービーを制した名馬たち](https://uma-furi.com/wp-content/uploads/2022/05/47AAEA9C-3E1E-4F0C-BDE2-332D72C4ED17.jpeg)
牡馬クラシックの一冠目である皐月賞。
このレースで1番人気に推された馬の多くは、下馬評通り3着以内に入線し好走することが多い。そして、二冠目以降のレースでも期待通りの結果を出し、人気を集めていくという道を歩んでいくことを期待される。
一方で、皐月賞で1番人気に推されながら4着以下となりながら、続くダービーで巻き返して勝利を挙げたというケースも、僅かながら存在する。
今回は、皐月賞では敗れながらも、日本ダービーで見事にリベンジを果たした馬達を紹介していく。

ウイニングチケット(1993年 皐月賞4着→ダービー制覇)
「結果的に弥生賞のような競馬が向いていたのかもしれない」
ウイニングチケットで皐月賞を4着と敗れた後、跨った柴田政人騎手は報道陣にこう語った。
皐月賞の前に出走した弥生賞で、ウイニングチケットはナリタタイシンと共に後方待機策を取り、直線は同馬を置き去りにする末脚で完勝。
当然、本番も同じような競馬をすると思われていたが、皐月賞は早めの進出を試みる。積極的にビワハヤヒデに競りかけたものの、振り切られて逆に脚が鈍ってしまった。さらに坂を上り切ったところでナリタタイシンにも交わされ、4着に敗北。上述の台詞は、この敗戦について問われた際の柴田騎手の回答である。
だが、報道陣にはこう答えていながらも、柴田騎手は皐月賞の乗り方こそがウイニングチケットの力を最も引き出せる作戦であると考えていた。レースで伸びきれなかったのには、原因があった。馬自身に落ち着きがなかったのに加え、レース中にソエを発症していたのだという。ならば、万全に体調の戻ったダービーでこの騎乗をすれば、確実に巻き返せると読んだ。
そして迎えた本番、ウイニングチケットは皐月賞と同じように中団からレースを進め、逃げたアンバーライオンを坂の上りでとらえて早めに先頭に立つ。背後からビワハヤヒデとナリタタイシンの2頭が迫ってきたが、ウイニングチケットは柴田騎手の激励に応えてもう一度脚を伸ばし、決して先頭を譲ることなくゴールイン。鞍上の夢である念願のダービージョッキーの称号をプレゼントした。
「皐月賞のような競馬が一番合っていると思っていました。自分を信じて良かったです」と、ダービーの後に柴田政人騎手は語っていた。

アドマイヤベガ(1999年 皐月賞6着→ダービー制覇)
「今日はゴーサインを出しても馬が全く反応しませんでした」
1番人気に支持された皐月賞で6着に終わったアドマイヤベガ。人気にはなっていたものの、カイ食いの悪さによる馬体減や体調不良が重なった中での出走であり、決して万全と言える状態ではなかった。
レースでも、外から進出しようとしたところでテイエムオペラオーに蓋をされ内に切り替えるというロスはあったが、直線伸びきれなかったのにはおそらく体調面の影響も大きかったのではないだろうか。
陣営は、ダービーに向けてまずは体調面を整えていくことを決めた。周囲が本番に向けて強い追い切りを行う中でも、馬体の回復を主軸にした調教メニューを組んでいたアドマイヤベガ。その甲斐あってか5月上旬の調教では、跨った武豊騎手を振り落としそうになるほどの活力を取り戻していたという。
そして、皐月賞で負けたからと言って何かを変えるわけではなく、ダービーでも『いつも通り』の競馬を陣営は貫いた。
好スタートから後方に控え、15番手でレースを進めたアドマイヤベガは、引っかかることもなく折り合い、道中はとにかく脚を溜めていた。ライバルであるナリタトップロードとテイエムオペラオーが動き出してからも動かず、鞍上の支持を待つ。
そして直線、大外に持ち出されたアドマイヤベガは、先に抜け出していた2頭を射程圏に捉え、僅かにナリタトップロードを差し切ってゴール坂を駆け抜けた。
「コツみたいなものが見えた気がします。この馬でこういう風に乗って行けば、ちゃんと答えが出るのだな、と」
騎手として史上初のダービー連覇を成し遂げた天才が、ダービーの後語っていた言葉である。

ロジユニヴァース(2009年 皐月賞14着→ダービー制覇)
「俺が教えてほしいよ。あんなに負ける馬なのか?」
2009年の皐月賞の後、1番人気に推されたロジユニヴァースで着外に敗れたことのコメントを求める報道陣に、横山典弘騎手は逆に問いかけていた。
ここまで4戦4勝という完璧な成績に加え、前哨戦も快勝していたロジユニヴァース。
『三冠も夢ではない』と言われるほどの評価を得ていた同馬が皐月賞で得た単勝オッズは、1.7倍と圧倒的な支持であった。
だが、レースでは生涯で最も低い着順である14着と惨敗。59.1秒のハイペースも見越して中団に控え、荒れたインも避けた乗り方だった。鞍上が戦前に思い描いたプラン通りに乗れていたにも関わらず、直線では全く伸びなかった。
「また鍛え直してダービーで頑張る」と言った横山騎手。巻き返すべくダービーに向けて調整を続けるロジユニヴァースに、馬主である久米田正明氏は特注の馬運車を作成するなど、不安要素を少しでも排除しようと取り組んだ。
そして迎えたダービー当日は昼過ぎから大雨となり、40年ぶりとなる不良馬場で開催。究極の持久力戦となれば、先行力とパワーに富んだロジユニヴァースには有利な流れである。
飛ばしたジョーカプチーノとそれを追うリーチザクラウンを見ながら3番手につけると、直線では力強く伸び、4馬身差の快勝劇。皐月賞の悔しさを見事に一生に一度の大舞台で晴らし、横山典弘騎手は15回目の挑戦にして初のダービージョッキーの栄冠を手にした。
「正直、4日前の時点では今回は99パーセント勝てないと思っていました。馬に失礼なことをして申し訳ないです」「直線は馬が本当に辛抱してくれました」
『馬優先主義』を信条に置いている横山典弘騎手らしい、なんとも暖かいコメントが、ダービー後の報道陣には寄せられた。

ワグネリアン(2018年 皐月賞7着→ダービー制覇)
「多少強引に行っても勝てると思ってしまいました。僕の甘さです。すみません」
デビューから3連勝。3歳となった初戦の弥生賞は2着に終わったものの、勝利を許したダノンプレミアムは皐月賞を回避。押し出されるように1番人気に支持されたワグネリアンだったが、大逃げした3頭から大きく離された中団馬群の一角から伸びきれず、生涯で初の掲示板外となる7着に。「前はいつでも捕まえられるという過信が自分にあった」という意味もこめて、福永騎手は冒頭の言葉を語っている。
逆襲を誓った日本ダービーだが、ワグネリアンが引いた枠は8枠17番。内有利になりやすい近年の同レースにおいてはかなり不利と言える。
しかし、引いたからにはこの枠で勝負をかけるしかない。福永騎手は、「折り合いを欠いてでも先行して内へ入れていくしかない」と腹を括り、レースに臨んだ。
そして、その狙い通り好スタートからスピードに乗せ、1コーナーを回る頃には5,6番手の絶好位に。行きたがるワグネリアンをうまくなだめ、道中しっかり折り合って進めた福永騎手が勝負所でゴーサインを出すと、ワグネリアンはそれに応えて一完歩ずつ差を詰める。最後は粘るエポカドーロをきっちり交わし、福永騎手、いや、父洋一元騎手から続く、福永家にとって悲願のダービー制覇のゴールへ飛び込んだ。
「これがダービーを勝ったジョッキーの景色かと。父に代わって目に焼き付けました。ようやく福永洋一の息子として誇れる仕事ができた。いい報告ができます。福永家にとっての悲願でしたから」
皐月賞の反省を生かし、勝つにはこれしかないという作戦をやってのけた福永騎手とワグネリアン。その経験は、福永騎手の人生を変えたといって良いほどのものだろう。まさに一世一代の大駆けであった。

写真:かず、Horse Memorys、s1nihs