[日本ダービー]武豊騎手からミルコ・デムーロ騎手まで。名手たちのダービー初騎乗を振り返る

騎手であれば誰もが憧れる「ダービージョッキー」という名誉。1度手にするだけでもこの称号を、何度も手にした名手も競馬界には存在する。

ではそんな彼らのダービー初騎乗は、果たしてどのような結果だったのだろうか。

今回は、ダービーを複数回勝ったジョッキーたちの初騎乗をご紹介していきたい。

1988年 武豊騎手

デビューした1987年に当時の新人最多勝記録を更新していた武豊騎手は、まさに規格外の新人ジョッキーであった。

ダービーの時点で既に重賞を5勝し、ジャパンカップや菊花賞など八大競走への騎乗も経験。そして何より、前年プロになったばかりの「アンちゃん」が、2年目にしてダービー出走馬の背中に乗る…。常識では考えられない道筋を、19歳の少年は辿っていた。

武豊騎手が騎乗したコスモアンバーは、24頭立ての16番人気。前週の900万下特別を自身の手綱で勝ち、連闘で臨んだ舞台だった。結果こそ勝ったサクラチヨノオーから大きく離された16着に終わったが、武豊騎手はこの経験を「俺は今ダービーに向かう新幹線に乗っているんやって、気持ち良かった」と語り、「レース自体は流れに乗れないまま終わってしまったけど、満足でした」と振り返っている。

そしてこの時、同じく関西から移動してきた騎手たちの中に、本命馬のサッカーボーイに乗る河内洋騎手がいた。彼らが乗る新幹線が東京駅に着いた時、恐らく1番人気になる馬に騎乗する河内騎手に多くのカメラマンが押し寄せていた。それを見て、武豊騎手はダービーで1番人気に乗ることの凄さと羨ましさを同時に感じたという。

その初騎乗から8年後、武豊騎手はダンスインザダークに騎乗し、初めて1番人気馬でダービーに挑むこととなった。それはかつて、河内騎手が纏っていたサッカーボーイと同じ勝負服でもあった。

しかし、結果は惜しくも首差の2着。ダービーで1番人気馬に乗るという夢は叶えたが、最も欲しかったダービージョッキーの称号は、僅かのところで手からこぼれ落ちてしまった。

さらにそれから2年。遂に武豊騎手は1番人気のスペシャルウィークで悲願のダービー制覇を達成。ダンスインザダークと同じく、自身がデビューから乗り続けてきた相棒との勝利に、ゴールの瞬間から武豊騎手は夢中でガッツポーズを繰り返していた。

その翌年にはアドマイヤベガで史上初のダービー連覇を成し遂げ、以降も4勝。2025年時点で歴代最多のダービー6勝を挙げている。

憧れていたダービージョッキーの称号を現実のものとし、1度の制覇で終わらずにその嬉しさを何度も味わった武騎手の偉業は、競馬がある限りこれからも語り継がれていくだろう。

1989年 横山典弘騎手

デビュー年こそ8勝に終わったものの、翌年には31勝と飛躍。3年目の1988年に重賞を初制覇し、着々と若手ジョッキーとして名を売り始めていたこの年に横山典騎手が巡りあったのが、ロードリーナイトである。

2歳時のいちょうS以降、ダービーまでの8戦中6戦で同馬の手綱を取った横山典騎手。トライアルレースであるNHK杯で優先出走権を獲得すると、本番もコンビ継続でダービー初騎乗となった。

2勝を挙げているとはいえ、重賞勝ちもないロードリーナイトは24頭立ての21番人気とかなりの低評価。頭数も多く、人気以上に走れば御の字という見方も多かったのではないだろうか。

だが、横山騎手は道中19番手からレースを進めると、直線で大外に持ち出して先団を強襲し6着に入線。抜け出していたウィナーズサークルやリアルバースデーには届かなかったものの、この年の皐月賞馬であるドクタースパートや朝日杯3歳S勝ち馬サクラホクトオーには大きく先着する好騎乗を見せた。

この結果が影響を与えたかどうかは分からないが、これ以降の横山典騎手は重賞の騎乗数も増え、翌年のダービーではメジロライアンをパートナーに迎えて2着。5年目にしてダービー1番人気を経験し、順調にトップジョッキーへの道を突き進んでいく事となる。

そして初騎乗から20年。その時ダービーを勝利したウィナーズサークルと同じ枠帽子の1枠から、横山典騎手はロジユニヴァースとのコンビで悲願を叶えた。

1995年 四位洋文騎手

デビュー4年目の1994年にゴールデンジャックで重賞初制覇を遂げてから、四位騎手には良い流れが続いていた。同馬でクラシック初騎乗も果たし、オークスでも2着に入線。この活躍もあって翌年以降も騎乗数は増加を続けた。そして『売り出し中の若手』としての座を確固たるものにしようとしていた時に舞い込んだのが、ダービーの騎乗依頼であった。

四位騎手が騎乗したイブキラジョウモンの血統表には、伝説の名馬シャーガーの名前がある。そして母の父には「狂気の逃げ馬」の異名を持つダービー馬カブラヤオー。血統的には話題性十分の馬だが、3月の未勝利戦からオープンまで3連勝と実績的にも文句なしの素質馬だった。結果は9着と終わったものの、同馬は武騎手に手綱が戻った次走の中日スポーツ杯4歳Sで重賞初制覇。秘めたる素質は確かだったことを示している。

そしてダービーの翌週、四位騎手は宝塚記念でエアダブリンを人気薄ながら3着に導くと、秋にはイシノサンデーと邂逅。翌年には同馬で皐月賞を制し、見事にG1初制覇を成し遂げた。イブキラジョウモンと臨んだダービーが、ジョッキーとしての経験と運を上げたと言っても良いのではないだろうか。

そのダービー初騎乗から12年後、四位騎手はウオッカでダービー初制覇を成し遂げたが、それは64年ぶりの牝馬によるダービー制覇という快挙でもあった。さらに翌年、ディープスカイで武騎手に続く史上2人目の連覇も達成した四位騎手。騎手を引退した彼には、今度は調教師としてダービーを勝つ仕事が待っている。

1998年 福永祐一騎手

初騎乗のレースで勝利を挙げ、続く騎乗機会でも見事に1着。史上2人目となるデビュー2連勝を飾って華々しいデビューを遂げた福永祐一騎手は、2年目の秋にJRAの重賞を共に制したパートナーがいた。その馬こそ共にダービーへ挑んだ初の相棒、キングヘイローである。

デビュー3年目ながらクラシックに有力馬の主戦として臨む福永騎手には、かなりの注目が集まっていた。弥生賞・皐月賞と連敗したものの大きく崩れてはおらず、ダービーではむしろ東京で重賞を勝っていることなども評価されて2番人気に推される。逆転の目は十分にあると、ファンは踏んでいた。

だが、福永騎手は初めて乗るダービーの雰囲気に冷静さを失っていた。のちに本人が「緊張にのまれて、頭が真っ白になってしまった」と語っていたように、レースではスタートからこれまで見せたことのない逃げを打つ。

そして、当時のダービー史上2番目となるハイペースで道中を通過し、直線でセイウンスカイに交わされるともう脚は残っていない。勝利したスペシャルウィークの武騎手が喜びを爆発させる裏で、2.6秒離された14着に終わった。

しかし、福永騎手はこの翌年、桜花賞でG1を初制覇すると、年末には朝日杯3歳Sを勝利するなど大躍進。そのまま好成績を挙げ続け、押しも押されもせぬトップジョッキーの座を獲得していった。

そして2018年、福永騎手はこれまで控えて好成績を残していたワグネリアンを「大外枠から勝つにはこれしかない」という作戦で初めて先行させた。「頭が真っ白になって」前に行ったダービーから20年、「勝つための作戦」で先団へ行った福永騎手は、遂に先頭でゴール坂へ飛び込んだのだった。

2003年 M.デムーロ騎手

1994年にイタリアでデビューし、1997年から2000年までイタリアのリーディングジョッキーを獲得したミルコ・デムーロ騎手が日本のG1に初めて騎乗したのは2001年。この時点でまだ22歳だったデムーロ騎手だが、既に日本の関係者からは騎乗センスを評価されており、重賞も勝利するなど、確実に実績を残していた。

そんな折の2003年、福永騎手が3歳路線でお手馬として抱えていたエイシンチャンプとネオユニヴァースの路線が被り、同騎手はクラシックに臨むにあたって2歳王者のエイシンチャンプを選択。これにより空いたネオユニヴァースの鞍上に抜擢されたのがデムーロ騎手であった。

初コンタクトとなったスプリングS、G1初出走となった皐月賞を見事に連勝し、世代で唯一、二冠馬としての権利を持って挑んだダービー。前日の大雨で馬場状態は重まで悪化し、内ラチ沿いは荒れていた。

ゲートが開くと後方から進めたネオユニヴァースだが、勝負所でデムーロ騎手は各馬が避けた内側にあえて進路を取る。この選択により、4コーナーを前にして同馬は中団まで一気に進出し、直線は抜け出したゼンノロブロイを楽にとらえて優勝。着差こそ1/2馬身だったが、2頭の間にはそれ以上の差があるように思えた。

この勝利によりデムーロ騎手は、ダービー初騎乗・初勝利という、グレード制導入以降では誰も成し遂げていない大偉業を達成。デムーロ騎手も「自国のダービーを勝った時と同じか、それ以上に嬉しい」と涙ながらに語っていた。

そしてこの12年後の2015年、日本の騎手免許を取得しJRA所属となったデムーロ騎手。いきなり同年のダービーをドゥラメンテで制し、JRA所属騎手としてもダービー初騎乗・初勝利という、不滅の大記録も樹立した。

写真:かず、Horse Memorys

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