[京都新聞杯]菊花賞の王道路線として愛された、1999年以前の京都新聞杯を振り返る

京都新聞杯と聞けば、私のようなオールド競馬ファンなら、真っ先に『菊花賞の前哨戦』という印象が頭を掠める方もいるだろう。

21世紀を前にして菊花賞から日本ダービーのステップレースに変わってから、長い時が流れているのも事実である。

コース・距離ともグレード制が導入される前の1981年から一貫して、京都の外回り芝2200mという条件は変わりない。向こう正面半ばまでは平坦なコースが続くためペースをコントロールしやすくなっているが、3コーナーからの”淀の坂”が大きなポイントの1つである。下り坂の慣性を利用して競馬する馬が増え、ロングスパートの競馬をよく目にするようになった。最後の直線が長いため、スピードを維持しながら、長く脚を使えるだけのスタミナも必要となってくる。

その卓越したスピードと豊富なスタミナを兼ね備えた幾多の名馬たちが、この淀の中距離の舞台で熱戦を繰り広げてきた。

そんな京都新聞杯と聞いて、やはり思い返されるのは、菊花賞への王道路線である。

これまで、多くの菊花賞馬を生んだ京都新聞杯――特に秋開催から現行の春開催に変更される前の直近4年間は、日本競馬史に残る名馬が次々に誕生したといっても過言ではないだろう。

そこで今回は、伝統あるステップレース・京都新聞杯を制した名馬たちを振り返りたい。

1996年から99年に京都新聞杯を制した名馬たち

1996年 ダンスインザダーク

90年代半ば、日本の競馬界ではサンデーサイレンス旋風が巻き起こっていた。

初年度産駒のフジキセキは無敗の3歳(現2歳)王者に輝きながらも屈腱炎に泣き早期引退となったが、皐月賞と日本ダービーを制したのは、ジェニュインやタヤスツヨシといったサンデーサイレンス産駒だった。

2世代目となった翌1996年のクラシック路線もサンデーサイレンス産駒の勢いは止まることなく、快進撃は続く。その中で早くから世代ナンバーワン候補といわれたのが、ダンスインザダークであった。

全姉は、初年度産駒としてオークスを制したダンスパートナー。注目されるのは当然だったかも知れない。

順調にクラシック路線を歩んだダンスインザダーク。ところが、本番6日前、熱発により皐月賞を回避してしまう。ダンスインザダーク不在となった皐月賞もサンデーサイレンス産駒のイシノサンデーとロイヤルタッチのワンツーとなり、改めてサンデーサイレンスの凄さが分かる結果となった。

一方、アクシデントに見舞われたダンスインザダークだが、日本ダービーには間に合い、目下の評判通り圧倒的1番人気に支持される。

府中最後の直線では、早め先頭に立ち、誰もがダービー馬・ダンスインザダーク誕生と武豊騎手のダービー初制覇に心が踊っただろう。

しかし、まさかのゴール手前で、7番人気のフサイチコンコルドに足もとを掬われてしまう。

ゴールした直後、鞍上の若き藤田伸二騎手は渾身のガッツポーズをみせた。

その姿以上に心を奪われたのが、2着の武豊騎手自らが藤田騎手に握手を求めたシーンだ。

是が非でも獲りたかった日本ダービーの勲章、しかもこれ以上にないほどのビッグチャンスを逃しま悔し涙の中でも”好敵手”を称える武豊騎手の姿は、何とも感慨深いものだった。

春の雪辱を胸に秋の京都新聞杯では、2着に着差以上の強い勝ち方を披露したダンスインザダーク。続く菊花賞で途轍もない末脚をみせ、世代頂点に立った。

まさに京都新聞杯から菊への王道路線にて勝ち取った栄光であったことは、間違いない。

1997年 マチカネフクキタル

栗東の名伯楽・森秀行調教師に『期間限定の最強馬』と称えられたマチカネフクキタル。

当時、菊花賞のステップレースとして、9月の神戸新聞杯(G2)と10月の京都新聞杯があった。

マチカネフクキタルは、その両重賞を制したのである。

勢いそのままに菊花賞も制した桁違いの末脚は、まさに最強馬の称号が相応しいものであった。

菊花賞を先頭でゴールした瞬間、実況界のレジェンド・杉本清アナウンサーが残した「神戸、京都に続き、菊の舞台でも福が来た!」とのフレーズは、今もなお語り継がれる名実況だ。

ただ、マチカネフクキタルが期間限定の最強馬とされるのには、もうひとつ理由がある。菊花賞を制した後、一度も勝てなかったのである。

そうした事情はあれど、あれほど桁違いの末脚を魅せたマチカネフクキタルの凄まじさが損なわれるものではない。王道を突き進み、わずかな期間だけでも最強馬として君臨したのは、紛れもない事実である。

1998年 スペシャルウィーク

この年は、セイウンスカイ、キングヘイローといった日本競馬史に燦然と輝く名馬たちが多く登場した。その中で武豊騎手が選んだのは、サンデーサイレンス産駒のスペシャルウィークである。1998年は、この3頭が牡馬クラシック戦線を引っ張ることとなった。

スペシャルウィークといえば、1996年の日本ダービーをダンスインザダークで苦汁をなめた武豊騎手に念願のダービージョッキーの称号をプレゼントした名馬だ。

天才という相棒を背に、迫りくるキングヘイローをクビ差に抑えて京都新聞杯を快勝したスペシャルウィーク。二冠馬に向けて”視界良し”といったところだった。

しかし、二冠を狙うのは、スペシャルウィークだけではなかった。皐月賞馬セイウンスカイもその権利を保持していたのである。

そして、京都新聞杯から菊花賞という王道路線を敷いたはずのスペシャルウィークは、菊花賞でセイウンスカイに逃げ切り勝ちを許してしまう。

ちなみに勝ったセイウンスカイは、同じ京都でも古馬中距離路線の京都大賞典を経由しての菊制覇だった。

1999年 アドマイヤベガ

1993年の桜花賞とオークスを制し、二冠牝馬に輝いたベガの初仔として、デビュー前から大注目を集めていたアドマイヤベガ。

奇遇にも、前年と同様に3強が集う牡馬クラシックとなった。アドマイヤベガと対峙したのは、テイエムオペラオーとナリタトップロードである。

ここまで皐月賞をテイエムオペラオーが制し、日本ダービーはアドマイヤベガが制した。

残る最後の一冠、菊花賞。

前哨戦の京都新聞杯では、本命馬だったナリタトップロードをクビ差に退けたアドマイヤベガに軍配が上がった。後から思えば、前年のスペシャルウィークと似た状況だった。

京都新聞杯から菊花賞への王道路線を歩んだアドマイヤベガだったが、菊本番では、距離の壁に泣いてか6着に敗れている。

そして、勝ったのは、京都新聞杯2着だったサッカーボーイ産駒のナリタトップロードだった。

こうして、この年の牡馬クラシックは1993年のBNWと同じく3頭きれいに冠を分け合う形で幕を閉じたのである。

まだまだ多数! 京都新聞杯を制した名馬たち

上記だけでなく、京都新聞杯を勝利した名馬は、数多く存在する。

1994年にナリタブライアンから大金星を挙げたスターマン。全盛期のブライアンを倒した馬として強烈なインパクトを残したが、菊本番では最強馬の前に5着と敗れた。

1995年の年度代表馬に輝くマヤノトップガンを破ったナリタキングオーは、いぶし銀の如くの勝利だった。しかし、菊の舞台では2番人気ながら7着に沈んでいる。

さらに年を遡れば、1990年のメジロライアンに翌1991年はナイスネイチャ、1992年は牡馬クラシック二冠馬のミホノブルボンと、今もなおファンの多い名馬がズラリと並ぶ。そして1993年には、日本ダービー馬ウイニングチケット。1990年から1993年までの4年間もまた、秋開催だった京都新聞杯の黄金期のひとつだろう。

秋の王道路線だった京都新聞杯

秋開催時は菊花賞への王道路線だった京都新聞杯。グレード制導入以降の15年間で、4頭もの菊花賞馬が誕生している。さらに2着馬を含めると、その数は8頭にまで膨れ上がり、京都新聞杯の1着2着馬の勝率は実に半数を超えていたことになる。

しかし、春開催に変更されてからの優勝馬が日本ダービーに勝利したケースは少なく、2000年のアグネスフライトから2013年のキズナまで、13年もの時があいてしまった。これでは、有力なステップではありつつも、ダービーへの王道路線にはなっていないのが実情だろう。

そのせいか、今もなお、私の中の京都新聞杯は、日本ダービーではなく、幾多の菊花賞馬を輩出したステップレースだと思ってしまうのだ。

写真:かず

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