
飛行機雲がひとすじ、空に伸びていく。
眩い夕陽が、影を長く引き伸ばす。秋も深まった府中の直線は、どこか哀愁と別れを予感させる。
2021年、ジャパンカップ。
正直なところ、この日を迎えるにあたり、私はほんの少し、コントレイルの強さを疑っていた。

三冠馬は、特別な存在であってほしい。圧倒的な強さ。王者の風格。そんな姿を私は求めてしまう。
ナリタブライアン、ディープインパクト、オルフェーヴル。
歴代の三冠馬はどんな状況でも、その強さを誇示してきた。
──コントレイルはどうだろう。
皐月賞とダービーは圧巻だった。菊花賞では薄氷を踏みながらも負けなかった。続くジャパンカップで初めて土がついたけれど、夢の三冠馬対決を実現しようと、菊花賞から無理を押してでも勇気の一歩を踏みだしたことをファンは知っていた。敗れた相手はあのアーモンドアイ。決して恥じる結果ではなかった。
この敗北もあってか、三冠を達成したにもかかわらず、年度代表馬に選ばれなかった。
その現実に、理屈では納得できても、心が追いつかなかった。
ここからコントレイルは一つの時代を築くのだと信じて、その時が来るのを待っていた。
けれど、4歳を迎えてからの彼の走りに、小さな疑念が芽生え始めた。
大阪杯ではぬかるんだ馬場に脚を取られ、レイパパレに千切られ、モズベッロにも先着を許した。着順よりも、中団で喘ぐその姿がショックだった。
満を持して臨んだ天皇賞・秋では、エフフォーリアに屈し、グランアレグリアを凌ぐのが精いっぱいだった。両馬ともに強い相手ではあったけれど、それでも負けてほしくはなかった。
前年の無理が、コントレイルの心をほんの少し、蝕んでいたのかもしれない。それでもG1で勝ち負けを繰り返しているのだから、それは十分に一流の成績だ。
でも、私がコントレイルに求めたのは、ただの「一流」じゃなく「絶対の強さ」だった。だから、結果が伴わないことが物足りなかった。三冠の価値が揺らぎ、翳りを帯びているようにも思えて、そのキャリアを手放しで賞賛できなくなっていた。
迎えたラストランのジャパンカップは、彼が強さを証明できる最後の舞台だった。
3頭のダービー馬マカヒキ、ワグネリアン、シャフリヤール。同期の強豪オーソリティ、アリストテレス。古豪キセキ。海外の刺客。様々なライバルが立ちはだかっている。
コントレイルは天皇賞・秋から8キロ絞り、精悍さを増していた。けれどその健やかな表情は、若いころから何も変わっていない。痛みも悲しみもそっと胸にしまい込んだ聡明な瞳で歩いている。それを見守る福永祐一騎手と矢作芳人調教師の両肩にはきっと、ずしりと、言葉にできない重圧がのしかかっている。

その決着は、あまりにあっけなく、そして美しかった。
キセキの大まくりをオーソリティが捉え、そのオーソリティをコントレイルがねじ伏せた。
悠然と先頭に立つと、後輩ダービー馬を従えて、風のように最後のゴールを駆け抜けた。
危なげなく、驚くほど容易い勝利に見えた。
少年の面影を宿したまま、コントレイルは大人の階段を一つのぼり、競走馬としてのキャリアに幕を下ろした。

入場制限されていた競馬場に、拍手が大きく響き渡った。テレビの向こうで見守る無数のファンの想いまで届いているようだった。
西陽を浴びた黒鹿毛の馬体が輝き、トレードマークの流星とつぶらな瞳がひときわ輝く。
その背で、福永祐一騎手は目頭を押さえている。

幾多の勝負を経験した彼の涙に、どれだけの想いが宿っていたのか。
その両肩に、どれほどの重圧がのしかかっていたのか。
そんなことを思うと、「泣き虫だなぁ」と冗談を言う気にもならなかった。
コントレイルをひたすら称えるその姿に、目の奥が熱くなった。
「この馬は、どの牧場でも、どの厩舎が管理したとしても絶対に三冠馬になれるという馬ではなかったと思います」
その言葉に、はっとさせられる。

コントレイルの強さは、生まれ持った才能だけではない。それを支えた人々の想いが積み重なり、形を成したものだった。
きっと彼は、何者にもなれる馬だった。だからこそ、もしかしたら、何者にもなれない未来もあったかもしれなかった。
それでも、彼は三冠馬になり、そして、古馬としても最高峰を駆け抜けた。
疫禍の競馬場に現れたコントレイル。その存在そのものが、ひとつの奇跡だった。
今、彼は新たな旅路を歩み始めた。
父として。未来を紡ぐ者として。
求められるものは多い。
無敗の三冠馬の父となること。海外で活躍する産駒を送り出すこと。その血には多くの夢と希望が乗せられている。それは並大抵のものではなく、そのすべてに応えるのは難しいかもしれない。
それでも、ひょっとしたら。コントレイルなら、きっと──。
そんな淡い期待が、胸をかすめる。
けれど、本当に大切なことは、ただひとつ。
コントレイルが彼らしく、健やかに生きてくれれば、それでいい。彼はとても賢い馬だから、きっとたくましく、生きていく。
飛行機雲が遠ざかり、ゆっくりと空の彼方へと溶けていく。
その白さの向こう側に、まだ見ぬ未来が広がっている。かすかに揺れて見える、輝かしい未来が。

写真:s1nihs

