父パイロへ、そして自身の名へ、果たした「義」。ケンシンコウの現役時代を振り返る

ケンシンコウは2025年7月6日、約1年ぶりの出走になったジュライSで右前肢跛行のため競走中止となる。さらにそのまま引退し、種牡馬入りするという一報が飛び込んできた。8歳まで25戦し、4勝をあげ、重賞1勝という戦歴だった。

ケンシンコウの馬名の由来は、越後の龍と謳われた上杉謙信にある。謙信といえば、毘沙門天の化身ともいわれた戦上手。その旗印は白に「毘」の一字。謙信は白が似合う。戦国時代といえば、教育としての歴史では語られない滅茶苦茶な時代だった。守護職や守護代が代替わりするとなると、必ずといっていいほど家臣が周辺勢力に焚きつけられ、反乱を起こし、領国内は荒れた。そして、領地拡大を目指し他国へ侵略する戦国大名なるものが跋扈した。そんな欲望渦巻く時代において、謙信は決して野心を表に出して戦をしなかったとされる稀有な人物だったといわれる。生涯70以上の戦を経験した謙信だが、そのほとんどが「人助け」だった。信濃国境の村上氏、高梨氏らを援護するために起きたのが川中島の戦いであり、関東管領上杉上杉憲政を北条氏から守るために小田原城を攻めるなど、乞われた戦を買っていただけとされる。その本心は定かではないが、謙信はそんな生涯から「義の人」と評されてきた。白旗に「毘」は戦国の世において真っ当であろうとする義の象徴だった。

ケンシンコウの顔の左半分にデザインされた白面はまさに白旗に「毘」を想像させる。母マトゥリアルカは南関東で10勝をあげた快足馬。父パイロはエーピーインディ系プルピットの後継として注目されながら、シェイク・モハメドによって日本で種牡馬になった。ダーレー・ジャパンスタリオンの屋台骨を支え続けるエース格だ。その血統背景通り、日本でもダートの活躍馬を多く輩出する反面、プルピット特有の気難しさを内包することでも知られる。外枠のパイロなどという言葉があるが、これは揉まれると嫌気を差す産駒が多いためだ。その気性はエーピーインディープルピットの系譜の印であり、言いかえれば、パイロはエーピーインディ系のダートでのポテンシャルを着実に日本に広めたともいえる。

ケンシンコウも生涯25戦すべてがダート。そんな頑なさもまた謙信を彷彿とされる。デビュー戦は2019年11月30日暮れの中山開幕週のダート1800m。10番人気の低評価と圧倒的に先行型が優位とされる2歳ダート戦のなか、中団からジリジリと伸びて4着に入った。内枠から先行しきれず、揉まれてしまい、頭を上げて位置取りを下げてしまったのは痛かったが、いかにもパイロ産駒らしい挙動でもあった。中団の周囲に馬がいないポジションに入ると、再びやる気をみせ、外をまくって最後まで伸びた。

2戦目は中2週で同舞台へ。今度は外枠を引き当てると、1コーナーで2番手外をキープと初戦とは見違えるようなセンスを発揮する。勝負所で逃げ馬の手ごたえがないとみるや、3コーナーで先頭に立つという超積極的な競馬で、背後から迫る2着馬を頭差完封してみせた。2、3着の着差は8馬身。その後ろは5馬身と離れており、ケンシンコウのスパートがいかに強烈だったかが窺い知れる。昇級後は真ん中枠5着、外枠6着と足踏みし、5戦目を迎える。舞台は春の東京ダート1600mの1勝クラス。突破すれば世代限定のダート重賞が視野に入るポイントでもあった。しかし、引いた馬番は1。最内枠というケンシンコウにとって苦手な状況に陥っていた。さてどんな策を巡らせるか。ゲートをゆっくり出たケンシンコウに対し、鞍上の丸山元気騎手は急かすことなく、周囲を観察し、内側であっても揉まれないポジションを探す。幸い、キャリアが浅いライバルたちも砂を被るのを避け、外を意識したため、内は揉まれるほど密集していなかった。内に突っ込みながらもケンシンコウが嫌がるほどストレスを与えないというギリギリを攻めた。とはいえ、直線では目の前に踏ん張る馬たちが立ちはだかる。それも絶妙なタイミングで外へ誘導することで回避し、ケンシンコウの闘志を消させはしなかった。残り200m、馬群の間を切り裂くように伸び、前で粘る先行勢をとらえてみせた。

いよいよ重賞の舞台へ。ユニコーンSは内目6番から前走の再現を目論むも、重賞特有の速い流れに戸惑ったか、早めに鞍上の手が動く苦しい形に。加えて勝負所でまともに砂を浴びてしまう窮地に立たされた。それでも残り200mで馬群の外へ出てくると、懸命に伸びて3着まで押し上げた。勝ったのはのちにフェブラリーSを連覇するカフェファラオ。相手も悪かった。

そしていよいよケンシンコウは越後に入る。上杉謙信が生涯かけて守り抜いた越後は、海と山に囲まれた豊かな土壌から長きにわたり米どころとして知られる。南アルプスから流れる信濃川や福島から山深い会津を越えてくる阿賀野川が山の恵みを海へと導き、地下には山から海へ向かう水脈があり、越後平野の水はけを支える。冬は関東方面への道を雪で閉ざされてしまうため、謙信は補給路を確保できず、思うような侵攻ができなかったが、それは越後平野の豊かさとの引きかえでもあった。もしも、越後国境に雪がなければ、信玄も氏康もどうなっていたかわからない。謙信が野心を燃やした可能性すらあった。歴史はいつもいい塩梅を落ち着く。

ケンシンコウの越後入りは新潟の競馬ファンの心を揺さぶったにちがいない。しかし、ここでも馬番の試練が待っていた。またも1番枠を引き当ててしまったのだ。パイロ産駒にとって致命的な枠を今度はどう乗り切ってみせるのか。再び手綱を任された丸山元気騎手は前回の1番枠と同じくスタート直後に周囲の反応を確かめる。飛び出す先行勢のなかに飛ばす構えをみせる馬がいないとみるや、ケンシンコウを前へ誘う。1番枠から外のタイガーインディに並べば、どうやっても1コーナーを曲がるころに先頭に立てる。たとえタイガーインディが競りかけにきたとしても、突っぱねられる。丸山騎手にはそんな確信があった。2コーナーを出るころにはタイガーインディを従え、ハナに立つ。これまで差す形が定石だっただけに、予想外の作戦でもあった。まるで川中島で山本勘助の「キツツキ戦法」を見破ったがごとく、相手の裏を突く策だ。

先頭を進めば、砂を被る心配は一切ない。それを悟ったようにケンシンコウはペースを落とし、じっくりと息を整えていく。そうはさせじと先行勢がケンシンコウとの間合いを詰めにかかると、今度は一気にペースアップ。まるでそう来ることがわかっていたかのように突き放しにかかる。直線で先行勢を完全に振り切り、独走態勢に入ると、今度はミヤジコクオウら差し馬勢が攻めてくる。しかし、心身ともに余裕をもったパイロ産駒はそう易々とバテはしない。丸山騎手がターフビジョンやミヤジコクオウの位置を確認するほど手応えは残っていた。1番枠という窮地を誰もが予想しなかった策で掻いくぐり、相手の手札を読みつくした上での仕掛けは見事としかいいようがない。軍神と謳われた上杉謙信そのもののだ。やはりケンシンコウには越後が似合う。

それからしばらく時が過ぎ、4勝目をあげたのは福島だった。会津は謙信の跡を継いだ上杉景勝が豊臣秀吉の命を受け、越後から国替えした地でもある。その前に伊達家が支配していた会津は秀吉により没収され、その混乱に乗じて旧勢力が一揆を企てるなど荒れた地でもあった。一揆を収めた蒲生氏郷が伊達家に変わって統治するも、氏郷亡きあとの跡目争いによって諍いが絶えなかった。そんな荒れた地に入った景勝は会津を立て直し、豊臣家臣団第3位となる石高へ成長させた。結果的に会津を復興させたことが関ケ原の戦いの引き金となるが、福島は謙信にとっては跡取りが心血を注いだ地でもある。ケンシンコウが新潟で重賞を勝ち、ジュライステークスに4度も出走し、最後のレースとなったのも謙信への義を果たしたと思えば、誇らしい。

上杉謙信が正室を持たず、生涯不犯を貫いたのは有名なエピソードだ。諸説あるが、子孫をこの世に遺さず、それゆえに景勝に敗れた上杉景虎という悲劇の武将を誕生させたのも事実だ。さて、ケンシンコウは種牡馬入りするという。いよいよ謙信と重なるような現役時代から旅立つときがきたようだ。ぜひ、子孫から新潟や福島で活躍する産駒を出してほしい。そして、謙信がやらなかった中央覇権争いに食い込む姿もみたい。謙信を越えろとはいわないが、いつまでもケンシンコウの名を血統表に刻んでほしい。

写真:はまやん

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