彼らは、そこに居た。ローエングリンと後藤浩輝騎手の話。

中山記念を迎える時、私はいつも一頭の栗毛馬を思い出す。
そしてその馬を思い出す時、私はいつも一人のジョッキーを思い出す。

──その馬は世界の名血。金色の見栄えする体躯を持ち、才気に溢れ、華があった。

──その馬は大舞台に幾度も現れ、海を越え、多くの名馬と刃を交えた。

──その馬は一組の師弟の絆を深め、夢を叶えた。

馬の名はローエングリン。リヒャルト・ワーグナーのオペラ作品にその名を由来する。

血気盛んな4歳時に中山記念で飛躍の初重賞制覇を挙げたときも、競走馬として晩年を迎えた8歳時に復活の勝利を挙げたときも、その背には一人のジョッキーが居た。伊藤正徳調教師の弟子にあたるそのジョッキーにとって、ローエングリンでの勝利は師匠への何よりの恩返しであった。

そのジョッキーと共に大舞台で喝采を浴びた馬は数知れない。JRAG1初制覇を挙げて男泣きしたアドマイヤコジーン、2歳王者としてディープインパクトに挑んだマイネルレコルト、あっという間に頂点に上り詰めたアロンダイト、叩き上げで頂点を掴んだショウワモダン、絆の馬シゲルスダチ。

その中でもローエングリンと彼のコンビは、破天荒で、不器用で、真っ直ぐで、ファンに愛され、格別に”彼ららしさ”を発揮していたように思う。

今日はローエングリン、そして後藤浩輝騎手のことを思い出そう。


私がローエングリンを最初に意識したのは、折り返しの新馬戦で武豊騎手を背に広い府中を駆け抜けた姿だったと思う。自らに与えられた天性のスピードを楽しむように、弾力感のある走りで加速する栗毛の姿はとても眩しかった。

血統表を見ると、父はモハメド殿下の赤紫、白袖の勝負服を纏ってジャパンカップでファビラスラフインを打ち負かしたシングスピール、母はヴェルメイユ賞でダンスパートナーを破り、ジャパンカップにも来日したカーリング。一目見てわかる、ピカピカの、紛う事なきワールドクラスの良血だった。

ローエングリンと同世代のクラシック戦線は才能ある若駒が次々と名乗りを挙げ、その殆どがトラブルに見舞われることなく駒を進めた。ブライアンズタイムの仔らしいパワフルな末脚を誇るタニノギムレット、ベガの仔で2歳チャンプに輝いたアドマイヤドン、京成杯で勝利を分け合い無敗を守ったローマンエンパイアとヤマニンセラフィム、重賞を次々と射止めるチアズシュタルク、底知れぬスケールを伺わせるモノポライザー、巧みでクレバーな走りを見せるバランスオブゲーム……。群雄割拠のクラシック戦線。本番に向かってカレンダーが進む中で、ローエングリンも原石の一頭として多くのファンの注目を集めていた。

だが、天が与えた溢れる才能を持て余すように、彼はどこか気まぐれで奔放だった。

クラシックへの切符を求めた東京スポーツ杯2歳ステークスやスプリングステークスで力の半分も出せていないような淡白な走りで大敗を喫したかと思えば、7分の2の抽選に漏れた皐月賞、4分の3の抽選に漏れた日本ダービーの代わりにそれぞれ臨んだ若草ステークスと駒草賞では、一枚上の才能を誇示するようにライバルを圧倒した。

3歳馬としては異例の宝塚記念挑戦は、高い素質を持ち、例年ならば出走水準にあるはずの賞金を積みながらもクラシックへのゲートインが叶わなかった鬱憤を晴らすためだっただろうか。

最内枠からハナを奪ったローエングリンは、そのままグングン加速し大きなリードを奪って、溢れるスピードを年長馬たちに見せつける。勝負処で差を詰めてきたトウカイポイントを突き放し、エアシャカールを振り切り、残り100mを切ってもまだ先頭を保ったローエングリン。最後はダンツフレームの強襲に遭い3着に退いたものの、歴戦の古豪を相手に大健闘を果たし、G1クラスの才能を有することを結果で証明した。


秋を迎えたローエングリンの目標は勿論、菊花賞。タニノギムレットが戦線離脱し、シンボリクリスエスが天皇賞・秋に矛先を向ける中で、ローエングリンは皐月賞、ダービーの連続除外の不運を取り戻すべく、菊花賞のゲートにその身を収めた。

だが、彼の前向きすぎる性格は菊花賞の長丁場はあまりにも長すぎた。ノーリーズンのまさかの落馬で幕を開けたこのレースで、ローエングリンはダイタクフラッグと並走して競うように最初の1000mを58秒4で駆け抜ける。岡部騎手が懸命に宥めても、前進気勢が盛んなローエングリンはそう簡単に緩まない。オーバーペースで余力を失った彼は、直線を待たずに脚勢を失い、ヒシミラクルから遅れること約8秒、最後は歩くようにゴール板を通過した。

ほろ苦い結果となった菊花賞を踏まえ、ローエングリンは溢れるスピードを最も発揮できる距離短縮に舵を切る。岡部幸雄騎手に導かれたキャピタルステークスとディセンバーステークスを菊花賞の疲れも感じさせずに連勝し、改めて高い資質を示した。3歳を終えてオープン特別4勝。自信を取り戻した彼の前途は洋々で、翌年の大きな飛躍が約束されていたかに思えた。


明けて2002年。岡部幸雄騎手が左ひざのオーバーホールのために休養に入り、ローエングリンの鞍上は空席となった。伊藤正徳調教師は新たなパートナーに自身の愛弟子、後藤浩輝騎手を起用する。

この時後藤浩輝騎手は29歳。一時は師匠と袂を分かち疎遠となる時期もあったが、紆余曲折を経て、師弟は再び同じ道を歩み出していた。G1を制した相棒・アドマイヤコジーンを見送ったばかりの彼にとって、若く素質に溢れたローエングリンの手綱が回ってきたことは僥倖であり、師匠への恩返しのために期する思いがあったことだろう。

コンビ結成初戦は中山で施行された東京新聞杯。1番人気に支持されたローエングリンは競りかけてきたマルターズスパーブを制して伸び伸びと先頭でレースを進める。逃げ込み濃厚とも思えたゴール寸前で最後方から最内を馬群を縫ったボールドブライアンの強襲を受けて2着に敗れたものの、後藤騎手は前向きすぎるローエングリンをしっかり宥め、息の合ったレース運びを見せた。


コンビ2戦目は中山記念。前年にマイルチャンピオンシップを制してG1馬となったトウカイポイント、中山巧者として練度を増す同期のバランスオブゲームと同期のマイル王テレグノシス、この後稀代の追い込み馬として短距離戦線に君臨するデュランダル、脚部不安を乗り越えて1年ぶりに戦列復帰したラスカルスズカ。いずれ劣らぬG1クラスのライバル達を前に、ローエングリンは単勝1.8倍の1番人気に支持された。

黒い帽子のローエングリンは好発の勢いそのまま機敏に加速し、50mも走らぬうちにレースの主導権を握る。前半1000mを59秒5で通過すると、スピードに身を任せて淡々とペースを刻み、後続の余力を削いでいく。先に手が動く後方各馬を尻目に余力を持って直線を向くと、鞍上の叱咤に応えて中山の急坂を駆けあがり、最後まで一度も先頭を譲ることなくゴール板を駆け抜けた。

入線後、後藤騎手は噛みしめるように左手を握り締め。喜びを露わにした。ローエングリンにとって待望の初重賞タイトルは、後藤騎手と伊藤正徳調教師の師弟コンビで挙げた初めての重賞制覇ともなった。人と馬、人と人、それぞれの絆を一層強め、輝かしい未来への期待が膨らむ完勝劇だった。

続くマイラーズカップでローエングリンと後藤騎手は更に進化した走りを見せる。

前半1000mを55秒9の猛ペースで逃げたレギュラーメンバーを離れた2番手で追走。スピード比べはお任せあれ、と言わんばかりの抜群の手応えで先頭に躍り出ると、快速牝馬テイエムオーシャンやG1馬ダンツフレームらを置き去りにして1分31秒9のレコードタイムで重賞2連勝を果たした。

1番人気で臨んだ安田記念は、番手追走から直線入り口で先頭に立ち、横綱相撲で押し切りを図った。残り50m、最後の最後で脚が鈍りアグネスデジタルの強襲を許して待望の戴冠は逃したものの、皐月賞とダービーの2度の抽選で涙を呑んでから1年。心強い相棒を得たローエングリンは堂々とマイル路線の中心で存在感を放っていた。


一流馬が多くが休養に入る夏、ローエングリンは仏国に居た。

夏のドーヴィルを彩る伝統のG1 ジャック・ル・マロワ賞、そしてロンシャンで行われるトップマイラー決定戦のG1ムーラン・ド・ロンシャン賞。欧米の強豪が集結するマイル最高峰の2戦に、社台レースホースの同期・テレグノシスと共に臨むためである。

若き日より海外への武者修行を通じてキャリアアップを果たしてきた後藤騎手にとって、日本調教馬での海外遠征はこれが初めて。日の丸を背負い、師匠の管理馬で臨む戦いに燃えないはずがなかった。

ローエングリンの遠征をサポートしたのはシャンティイのリチャード・ギブソン厩舎であった。前年にはマンハッタンカフェの遠征をサポートし、後年フィエールマンの母でもあるリュヌドールでジャパンカップ遠征を果たしたように日本とも親交の厚い調教師の一人である。

遠征初戦のジャック・ル・マロワ賞では他陣営のラビットにペースを乱され10着に大敗したローエングリンだったが、敗戦を糧に前進する。遠征2戦目のムーラン・ド・ロンシャン賞ではハナを奪って主導権を握ると、人馬の息の合った走りで起伏のあるロンシャンを駆けていく。

最後は仏オークス馬・ネブラスカトルネードに僅かに及ばず2着に敗れたものの、直線半ばまで先頭を保ち、並ばれてからも差し返す根性も見せた走りは出色であった。数々の日本馬が苦戦を強いられてきた異国の地で、本場の競馬ファンにも「ローエングリン、ここにあり」を確かに示した。


9月中旬に帰国したローエングリンが秋初戦に選んだのは天皇賞・秋。晴天に恵まれスピードを存分に生かせる良馬場の府中は条件に不足なし。シンボリクリスエスに次ぐ2番人気の支持を受け、戴冠への期待は大いに高まっていた。譲れない一戦。大切な一戦。自身の競馬を完遂したい。そんな気合を漲らせて、人馬はゲートにその身を収めた。

だが、思わぬ落とし穴が待っていた。

好スタートからハナを奪ったローエングリンが自らのペースに持ち込もうとしたとき、外から楽はさせじとゴーステディが並びかける。引くに引けない形となった両馬は、そのままグングンと加速を続ける。

彼らが刻んだ前半1000m通過は56秒9。展開の綾に絡めとられるように無我夢中で走った両馬は、稀代の快速馬サイレンススズカをも上回るハイラップを刻んでいく。

勝負処を待たずにゴーステディが失速し、単騎先頭で直線を迎えたローエングリンだったが、その脚取りは見るからに重い。それでもローエングリンは力を振り絞り、ハミを取り、フラフラになりながらゴールを目指す。

だが、府中の直線はあまりにも長かった。残り200mでローエングリンを並ぶ間もなくあっという間に交わし去ったシンボリクリスエスの勝ち時計は1分58秒0。レコードタイムの立役者となったローエングリンは次々と後続に呑まれてしまい、またしても戴冠ならず13着に敗れ去った。


失意の結果となった天皇賞・秋以降、ローエングリンの背から後藤騎手は姿を消した。そしてローエングリン自身も長いトンネルに迷い込んでいった。

もちろん、結果を出なかったわけではない。一旦は先頭に躍り出た香港マイル(3着)を皮切りに、5歳時も連覇を狙った中山記念(3着)、マイラーズカップ(2着)、2年連続で1番人気の支持を集めた安田記念(5着)、女傑ファインモーションと競った札幌記念(3着)、同期のライバル・テレグノシスと真っ向勝負を演じた毎日王冠(2着)、前年の悔しさを晴らそうと挑んだ天皇賞・秋(5着)と、ハイレベルな一戦に身を投じ続け、常にゴール前を賑わせ続けた。目先を変えてダートに矛先を向けたこともあった。だが、勝利の女神は微笑まなかった。

6歳を迎えてマイラーズカップで2年ぶりの勝利を挙げたものの、3年連続の参戦となった安田記念では香港のサイレントウィットネスとの先行争いに巻き込まれて大失速。秋初戦として予定していた富士ステークスをザ石で自重したあたりから歯車も狂い始める。

年齢を重ねてもレースで見せる溌溂としたスピードには些かの衰えもない。だが、レースをすぐに諦めてしまう淡白さが目立つようになり、成績は徐々に下降線を辿りはじめた。

ローエングリンの復活を信じる陣営は、時に距離短縮を、時に控える競馬を、様々な試行錯誤を続けた。だが6歳、7歳とキャリアを重ねる中で、馬柱には徐々に大きな着順が並ぶようになっていった。

2007年。かつては世界を股にかけた逸材も気が付けば8歳を迎えていた。同期の盟友・バランスオブゲームやテレグノシスが前年秋にターフを去り、マイル路線はダイワメジャーが制圧。書き換わった勢力図の中で、口さがないファンの中では”過去の馬”となりつつあったローエングリンはかつての注目を浴びることはなくなっていた。

その背に再びあの男が戻ってきた。6歳時の安田記念で束の間のコンビ復活を果たしていたものの、それ以外の22戦、後藤騎手は時にはコースの外から、時にはライバルの上から、ローエングリンを見守っていた。弛まず着実にキャリアを重ねた後藤騎手は、名実ともに関東トップジョッキーの一人となっていた。競走馬としての晩年に差し掛かったローエングリンにとって、若き日に数々の冒険を共に歩んだ相棒の帰還は懐かしく、そして心強かった。

迎えた中山記念。ローエングリンは出走馬中最年長、シャドウゲイトやインティライミ、マルカシェンクら若い力に押されて6番人気の評価に甘んじていた。

慣れ親しんだ舞台、初めてのタイトルを手にした思い出の舞台で、人馬はもう一度だけ輝きを放たんと、手綱に、四肢に、残された力を込めていた。

ゲートが開くと同時にスタンドから歓声が上がる。ローエングリンはフライングと見まがうほどのロケットスタートを決めたのだ。

――速く、1秒でも速く、もっと前へ…!

このレースに賭ける人馬の気迫そのままに加速すると、1年ぶりにハナを奪ってレースの主導権を握った。

1000mの通過タイムは4年前と同じ59秒5。年齢を重ねて得た力も、年齢を重ねて衰えた力もあっただろう。その全てを吞み込んで、4年前をなぞるように、4年前よりも成熟した走りで、行く気のままに、思いのままに、ただ前だけをみて、お互いの存在を確認し合うように、ローエングリンと後藤騎手は疾走した。

勝負処で4歳のトウショウシロッコと5歳のシャドウゲイトが差を詰める。外からはダービー2着の5歳インティライミが、将来を嘱望され続ける4歳のマルカシェンクが捲り上げてくる。それでもローエングリンは、後続の動きを意に介せずに自らの走りに徹する。

ライバルが脚を使うのを待ってから再加速したローエングリンは、直線半ばで後続を振り切り、中山の急坂を勢いよく駆け上がる。どこまでも真っ直ぐで、不器用で、力強い、ローエングリンと後藤騎手らしい走りで、最後まで先頭を譲らずにゴール板を駆け抜けた。

師匠にとってはJRA通算400勝のメモリアル。誇らしげなローエングリンの背で、殊勲の鞍上は歓喜の雄たけびを挙げながら何度もガッツポーズを繰り返した。

――またチャンスを貰えたことが嬉しかった。この馬のことを本当にずっと大好きでいた。いつも一生懸命に乗ってきたつもりだった。先生に恩返しをできた。

検量室前で師と抱き合った彼は、目に涙を浮かべ、何度も言葉を詰まらせながら馬を称え、感謝を口にした。嬉しいこともたくさんあった。きっと後悔もたくさんあっただろう。その背に居なかった時間、忸怩たる思いもたくさん抱いただろう。

だからこそ、この日、ローエングリンと師弟が成し遂げた1勝は特別なものとなった。

ファンを盛り上げようと、茶目っ気たっぷりなインタビューを披露する後藤騎手の涙には、真っ直ぐな彼の思いが詰まっているように感じられた。


この中山記念がローエングリンにとって現役最後の勝利となった。G1を制する能力を示しながら、彼は最後まで頂点を掴むことはできなかった。

だがラストシーズンのスプリンターズステークスで後方から0秒4差まで追い上げ、マイルチャンピオンシップではスピードに身を任せた彼らしい逃げでファンを沸かせた。思うような結果は得られなかったが、最後までローエングリンの溌溂とした姿は変わらなかった。

ローエングリンが走り抜けた日々は足掛け7年、全48戦に及ぶ。屈託のない走りでいつもレースを盛り上げ続けた。ローエングリンがいるレースは面白かった。

2012年。決して多いとは言えない産駒の中からロゴタイプが現れ、ローエングリンが成し得なかったG1制覇を果たして2歳王者に輝いた。翌年には皐月賞のタイトルを手にし、ローエングリンはクラシックホースの父となった。

ダービー以降は苦戦の日々を歩んだロゴタイプだったが、2015年、後藤騎手が競馬界を去った2日後に、思い出のレース・中山記念で2着と健闘し、復活の狼煙を挙げた。

翌年、6歳になったロゴタイプは父が4度挑み、ついに及ばなかった安田記念に出走した。父と同じようにハナを奪ったロゴタイプは、父が守り切れなかった先頭の座を最後まで守り抜き、3年2か月振りの栄光を手にした。

2歳王者が6歳の安田記念で復活勝利を挙げる姿には、かのアドマイヤコジーンがどこか重なった。

こじつけかもしれない。それでもローエングリンと後藤騎手の不思議な”縁”は、時を超えても続いている気がした。


目を閉じれば、今でもローエングリンと後藤騎手が駆け抜けた日々を、昨日のことのように鮮明に思い出すことができる。

勝ち気な相棒と人馬一体になって、西日に照らされたターフを、自由奔放に走り抜ける姿を。

写真:Horse Memorys、norauma、I.natsume

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