西の空に日が沈むころ、「一番星」が輝きを放つ。
宵の明星、金星。
いっとき「一番星」は空の主役となるが、夜空が漆黒に染まり、数多の星々が瞬き始める頃には、金星は地平線の彼方に沈んでゆく。まるで彼らに主役を譲るかのように。
しかし今回記す一番星は、満天に星々が次々と広がってゆくその中でも消して沈まず、長く、長く輝き続けていたのだ。
種牡馬ステイゴールドにJRA初勝利をもたらしたその一番星の名は、エムエスワールドという。
20世紀末。競馬を「競馬」として見始めて間もない私の心を鷲掴みにしたのが、何度敗れても頂点に挑み続けるステイゴールドの姿だった。
喜びのあまりアルバイト先の休憩室で大声をあげてしまい、社員さんにしこたま絞られた目黒記念。
氷河期ど真ん中、就職活動で全国行脚のさなか、深夜の短波ラジオ、雑音の中から聞こえてきたドバイの奇跡。
そして50戦目、長い旅程の果てに香港でつかみ取ったGⅠの勲章。
当初は競馬新聞の馬柱すら全うに読めなかった私だったが、古馬王道路線を走りつづける彼に導かれるようにレース体系を知り、彼が挑み続けた名馬たちを知り、歴史を遡っては数多の伝説を知った。私を競馬に導いてくれたステイゴールドは、競馬ファンとしての私にとって、「太陽」だったといっていい。
2002年1月の引退式。そして種牡馬入り。我が「太陽」は沈み、しばしの黄昏が訪れた。
すっかり「競馬」そのものに引き込まれていた私ではあったが、時々の(今で言えば)「推し馬」を見出し、追いかけながらも、ステイゴールドが父となって輩出する産駒のデビューを、そして一つでも多くの勝ち星が夜空にきらめくことを、待ちわびていた。
そしてステイゴールド引退から3年後、2005年の夏が来た。ステイゴールドが父として産駒を送り出す時が来た。長く続く黄昏空に、一番星が輝きを放つのを、私は楽しみにしていた。
6月18日、函館競馬場。産駒初出走だったオルレアンシチーは10頭立てのシンガリ負け。
同日、その35分後に阪神でデビューしたコスモプラチナはそこから3戦連続2着と、いきなり父の苦闘の日々を想起させる戦績を刻んだ。
福島、新潟、小倉…。夏競馬が盛りに向かっていく中、数多のステイゴールド産駒がデビューし、そして着外に沈んでいった。
早々に結果を出さなければ、次世代のライバルによってその居場所を追いやられてしまう種牡馬の世界。抱いていた期待が、不安と焦りで覆いつくされようとしていた。
そんな8月20日。ステイゴールド産駒18頭目、26度目の出走となったのが、エムエスワールドである。
小倉競馬場、芝1200m。父ステイゴールドの蹄跡からはまるで適性が当てはまらないその舞台でエムエスワールドは鮮烈な輝きを放った。
楽に2番手につけ、4コーナーでは馬場の真ん中に持ち出すと、鞍上幸英明騎手が軽く促しただけで直線は後続を離す一方。8馬身、1秒3もの着差を付けて、圧勝したのである。
この、「新馬戦で2着馬につけた1秒3という着差」は、同世代の芝の新馬戦全165戦を通じて最大であり、また、ステイゴールド産駒の新馬戦勝ち馬(12年後、最後の新馬勝ちとなった2017年暮れのインディチャンプに至るまで)61頭の中でも、最後までトップの座を譲ることはなかった。
不安と焦りが一気に振り払われ、再び期待の光が、目の前を照らしていた。
その光は、私が見上げる黄昏空に輝いた、エムエスワールドという一番星によって、もたらされた。
翌2006年春の終わりまで、エムエスワールドはステイゴールド産駒のトップランナーであり続けた。
重賞2戦への挑戦(小倉2歳S8着、デイリー杯2歳S6着)を経て臨んだ11月、京都での500万下条件(現1勝クラス)で、武豊騎手を背に好位からの差し切りを決め、ステイゴールド産駒初めてとなるキャリア2勝目。
さらにGⅠ朝日杯(9着)、明け3歳GⅢシンザン記念(7着)への挑戦を経て臨んだ4月、阪神のマーガレットステークスでは、重馬場で馬群が横にばらける中、福永祐一騎手が見事に最内をすくって完勝。ステイゴールド産駒初のオープン勝ちを果たした。この時に4着に下した1番人気馬は、のちに高松宮記念連覇を果たすキンシャサノキセキであった。
そしてGⅠNHKマイルカップ挑戦(7着)を経て、秋山真一郎騎手と臨んだ中京、白百合ステークスでは初の1800mへの距離延長も克服。向こう正面で一気にまくり上がると直線馬群を縫いあげたエムエスワールドは、のちのグランプリホース、マツリダゴッホらを退けて1着。最後は同じステイゴールド産駒ソリッドプラチナム(次走マーメイドステークスでステイゴールド産駒初重賞制覇を挙げた)との初の産駒ワンツーフィニッシュを決めるという、ステイゴールドファンにとっては記念碑的なレースを制し、エムエスワールドは産駒初の4つ目の勝ち星を挙げた。
これでデビューから9戦4勝、ほぼ1か月に1戦走りつづけるタフネス、そして果敢に重賞の高みに挑み続けるというステイゴールド産駒「らしさ」と、重賞以外の4戦は狙いすましたように全て勝ち切るという、ステイゴールド産駒「らしくなさ」を併せ持ったエムエスワールド。
2006年5月末。彼はこの時点で、間違いなくステイゴールド産駒の中で最も強く、輝いていた。
それから6年の月日が流れた。
2006年暮れ、鮮烈な豪脚で朝日杯フューチュリティステークスを制し、父ステイゴールドに初のGⅠを捧げたドリームジャーニーは、3年後の2009年、春秋グランプリ制覇という偉業を成し遂げた。
翌2010年には、ナカヤマフェスタが宝塚記念で大本命ブエナビスタらを差し切ってGⅠタイトルをつかむと、秋には凱旋門賞への遠征を敢行。イギリスダービー馬ワークフォースをアタマ差まで追い詰め、同厩舎のエルコンドルパサー以来となる2着。
そして2011年。ドリームジャーニーの全弟オルフェーヴルが三冠馬となり、有馬記念も完勝。さらにはマイネルネオスが夏に日程変更となった中山グランドジャンプを制して父に初めての障害GⅠタイトルをもたらすなど、種牡馬ステイゴールドは年間GⅠ5勝を含むJRA重賞11勝の大活躍でリーディングサイヤー4位に躍進を果たした。
さらに翌2012年春には、ゴールドシップが忘れ得ないインパクトを残す「4角内まくり」で皐月賞を圧勝。
産駒の活躍は海外でも。2008年暮れにはシンガポールに渡ったエルドラドが地元のGⅠシンガポールゴールドカップを制覇。09年、11年と同レースを〆て3勝した彼は、のちにその名を冠した重賞「エルドラドクラシック」が開かれるほどのヒーローとなった。
私が見上げる星空は、当初抱いていた夢想を遥か凌駕する、数多の煌めきで満ち満ちていた。目がくらむようだった。
次から次へと新たな輝きが生まれ来る中で、私は恥ずかしながら、一番最初の輝きを、彼が走りつづけていることを、見失っていた。
*
2012年5月13日日曜日。2週前、天皇賞(春)でのオルフェーヴル完敗のショックがまだ尾を引く中、スポーツ新聞の競馬面を流し読みしていた私は、とある見出しを通り越し、気が付いて、二度見して、驚いた。
「エムエスワールド、京都ハイジャンプを制す。」そう書いてあった。
「一番星」は、輝き続けていたのだ。
あわててインターネットでエムエスワールドの名を検索する。
たどり着いた競馬専門サイトに記されていたエムエスワールドの戦績。長い長い旅程がそこには記されていた。
白百合ステークスの勝利からちょうど10戦目。9戦続けて掲示板にすら乗れない苦闘の日々を経てつかみ取った4歳夏、小倉での5勝目。
そこから更にちょうど20戦目、6歳5月からの1年にわたるブランクもありながら走りつづけて迎えた7歳秋の京都で、父ステイゴールドの相棒熊沢重文騎手を背に見せた、単勝174倍の低評価を覆す意地の3着。
そして引き続き手綱を取った熊沢騎手とともに、8歳にして障害転向。初戦を勝利で飾ると、着実に実績を積み重ねて迎えた9歳の春、J・GⅡ京都ハイジャンプ。
横山義行騎手とともに好位からレースを進めたエムエスワールドは、直線逃げ粘るテイエムハリアーを最後の最後にかわし切り、のちに中山大障害を制するマーベラスカイザーを3着に従え、歓喜のゴールへと飛び込んでいた。
勝ち時計4分21秒6は2025年に至っても残るレコード。
9歳以上でのJRA重賞初制覇は、1986年以降ではエリモマキシム(2009年新潟ジャンプS)以来2頭目という稀有な快挙だった。
そして、ステイゴールド産駒JRA1勝目を挙げたエムエスワールドによってもたらされたJ-GⅡの勲章は、父ステイゴールドにとって、実にJRA通算352個目の勝ち星であった。エムエスワールドの息の長い活躍ぶりがうかがい知れる数字といえるのではないだろうか。
返す刀で盛夏の小倉サマージャンプ。
別定重量62キロと、他馬より2キロ以上重い斤量を背負いながら、京都ハイジャンプのVTRを見るようにテイエムハリアーを再びゴール前とらえ、そして突き放し、乗り替わった高田潤騎手の派手なガッツポーズとともに、エムエスワールドは重賞の勲章を積み重ねた。その戦績は父ステイゴールドの大団円と同じ、ちょうど50戦に達していた。
9歳以上でのJRA重賞連勝は、2010年新潟ジャンプS、小倉サマージャンプと連勝した九州産の女傑コウエイトライ以来2頭目。その後この記録を達成したのは、2020年のオジュウチョウサンのみである。
それから月日が流れた。
ステイゴールドの名を血統表に記すサラブレッドは、JRA登録馬だけで4,000頭になろうとしている。そして私が見上げる夜空には、JRAだけで2,500に迫り、さらには地方競馬で、中東で、香港で、フランスで、アメリカで、オーストラリアで刻まれた数多の勝ち星が瞬いている。
一番星が輝くのを待ち焦がれていたあの日の私の夢想を遥かに超えた光景が、広がっている。
それでも私は決して忘れることはないだろう。エムエスワールドが見せてくれた一番星の輝きを。そして7年以上に渡って走りつづけ、その旅路の果て、9歳にしてつかみ取った2つの勲章を。
エムエスワールドは2025年5月現在も健在。愛知県で、乗馬として活躍しているという。