1998年10月26日横浜スタジアム。横浜ベイスターズ-西武ライオンズ 日本シリーズ第6戦
横浜ベイスターズが3勝2敗で日本一へ王手をかけていた。スタジアムに詰めかけた3万人のほとんどが横浜ベイスターズファンというある種、異様な空気だった。そんななか、0-0の緊迫したゲームは8回に動いた。8回表のピンチをこの年、ジャイアンツから移籍したベテラン左腕・阿波野秀幸が切り抜けると、その裏、一死から波留敏夫が四球で出塁し、西武の野選もあり、二死一、二塁。打者はベテラン駒田徳広。西武の西口文也が投じたチェンジアップをとらえ、2点適時打で先制。そして迎えた最終回。権藤博監督はマウンドに佐々木主浩を送った。意図的に左右に投げ分けられるフォークボールと安定したコントロールを武器に、ペナントレースでは51試合に登板し、1勝1敗45セーブ、防御率0.64という驚異的な成績を収めた。夏には鹿取義隆のセーブポイント、江夏豊のセーブ記録を更新し、17試合連続セーブ、2年連続30セーブなど日本記録を樹立する記録づくし。さらに優勝を左右する中日ドラゴンズとの3連戦で3連投するなど記憶に残る姿でファンから絶大なる信頼を得ていた。佐々木は野選がらみで西武に意地の1点を奪われるも、代打・金村義明を146キロのストレートで二塁併殺打に打ち取り、38年ぶりに横浜ベイスターズを日本一へ導いた。女房役の谷繁元信とのマウンド上の抱擁はプロ野球史に残る名場面のひとつだ。
この年、佐々木は「ハマの大魔神」で新語・流行語大賞を受賞した。マシンガン打線に大魔神がそろい、数々の逆転劇を演じたこの年の横浜ベイスターズはまさに神がかっていた。
現役引退後、佐々木主浩氏は馬主となった。その最初の所有馬はアドマイヤマジン。冠名「アドマイヤ」の近藤利一氏から譲り受けたアドマイヤマジンはダートで5勝をあげ、オープン馬になった。以後、キャプテンマジンなど自身の現役時代の異名をどこかに入れていた。佐々木氏といえば、「ヴ」を馬名に組み入れることで有名だが、これは佐々木氏が馬主になってしばらくたってからのことである。ヴィクトリアマイルを連覇したヴィルシーナはその最初の世代にあたる。
佐々木氏初期の所有馬の証「マジン」を配した馬のなかにマジンプロスパーがいる。
父は近藤利一氏が所有したアドマイヤコジーン。現表記の2歳王者に輝くも故障に悩まされ、6歳で約3年ぶりに復活勝利を飾り、その年、後藤浩輝と安田記念を制した非常にタフな馬だった。
マジンプロスパーは父より遅い3歳7月にデビューするも、未勝利を勝ちあがれず、名古屋競馬へ転出。そこで2勝し、再び中央に戻った、いわゆるマル地馬。再転入後、4歳春に芝とダートで2勝をあげ、その後も勝利を重ね、4歳終わりにはオープン馬になった。翌年の阪急杯で重賞初制覇。この2週間前、ヴィルシーナがクイーンCを勝ち、重賞タイトルを贈っており、わずかな期間で佐々木氏は重賞2勝目を手にした。その馬運の良さはこの頃から言われるようになる。
そして、5歳の夏、マジンプロスパーはCBC賞に出走した。この年、中京競馬場は現在の急坂を擁した姿に生まれ変わった。同時にCBC賞は時期が6月から7月に移り、サマースプリントシリーズに編入された。新コース最初の高松宮記念はマジンプロスパーも出走し、5着。勝ったのはカレンチャン。決着時計は1.10.3とかなり遅かった。
この年のCBC賞では逃げるエーシンダックマンが高松宮記念を0.8上回る前半600m33.7のハイペースを刻み、マジンプロスパーは外枠から2番手集団につける。急流のスプリント戦特有のサバイバル戦のため、脱落していく馬たちをよそに、急坂で力強く加速すると、残り200mでエーシンダックマンをとらえ、敢然と先頭へ立ち、後方から直線一気を狙うスプリングサンダーや前年覇者ダッシャーゴーゴーの急追を凌ぎ切った。勝ち時計1.08.7は当時のレコード。晩年に復活したアドマイヤコジーンの血は豊かなスピードを伝えるフォルティノの系統でもあり、マジンプロスパーはその両面を受け継いでいることを証明した。
その後もスプリント戦中心にハイレベルな戦いに挑むも、勝ち星から見放されたマジンプロスパーは1年後、復活と連覇をかけ、CBC賞に進む。距離に原因を求め、マイル戦へ活路を見出した前走マイラーズC6着に陣営のなんとか勝たせたいという試行錯誤がみえる。トップハンデ58キロはさすがにスプリント戦出走とあれば、仕方なしも1番人気は意外だった。なぜなら、高松宮記念3着の4歳ハクサンムーンがいたからだ。ムラッ気のある逃げ馬ではあったが、3歳で京阪杯も勝った実力馬がマジンプロスパーとの兼ね合いもあり、57.5キロで収まっており、マイペースの公算も高かった。当日の馬体重16キロ増が嫌われたかもしれない。
ハクサンムーンは案の定、マイペースだった。前年逃げたエーシンダックマンをダッシュ力の違いで抑え、ハナへ。勢いよく飛び出し、後ろを一気に引き離す走りに生粋の逃げ馬特有の鬼気迫るものを感じる。人が逃げ馬に惹かれるのはゴール前の力を出し尽くしながら踏ん張る姿もあるが、スタート直後のあらゆるものを置き去りにせんとする覚悟もまた心打つものがある。だが、ハクサンムーンの気迫とは裏腹に前半600m34.2とそこまでラップはキツくない。この幻惑も逃げ馬の醍醐味だ。後ろが追いかけないと、見た目よりも遅い流れを演出できたりする。そう、逃げ馬はレースの演出家でもある。そのさじ加減に観客もライバルも惑わされるから面白い。
さて、ハクサンムーンのマイペースを感じていたのがエーシンダックマンとその背後にいたマジンプロスパーだった。エーシンダックマンが早めにハクサンムーンに競りかけに行き、マジンプロスパーはその仕掛けのタイミングと脚色、ハクサンムーンの手応えを十分感じ取ってから、残り400m通過後の急坂でその差を詰めに行く。ハクサンムーンも前半、そこまで飛ばしていないので、手ごたえに余裕があり、マジンプロスパーが迫るタイミングを確認し、ラストスパートを開始した。2頭の脚色は目視では互角だったが、ゴールが近づくにつれ、わずかにハクサンムーンの脚色が鈍ってきた。マジンプロスパーはその機を逃さない。差をジリジリと詰めていき、ゴール板で計ったように差し切ってみせた。
後半600m33.8は前半より速く、確かにレースはハクサンムーンの掌中にあった。だが、そのハクサンムーンの競馬を利用したのがマジンプロスパーでもあった。スピードに立ち回りが加わった円熟味が連覇の原動力だろう。勝ち時計は1.08.0でまたもレコード決着。連覇に加え、2年連続レコード更新はそうそう出現する記録ではない。
1999年。前年、横浜旋風でプロ野球を席巻した横浜ベイスターズは開幕6連敗を喫し、投打のバランスを欠いた。チームは最終的に3位でシーズンを終え、連覇を逃した。佐々木主浩はシーズン中に故障で戦線を離脱し、最終的な登板数は23試合と出場機会を減らした。それでも19セーブ、防御率1.93と決して悪くはなかったが、先発陣が早めに崩れ、試合をつくれず、そもそもセーブシチュエーションも少なかった。前年、神がかった試合を続けてきたチームはわずか1年で崩れていってしまった。リーグ連覇の難しさと悔しさを噛みしめ、佐々木主浩はメジャーリーグへ移籍していった。
連覇という言葉にもがき苦しんだ佐々木氏の所有馬たちからヴィルシーナやマジンプロスパーなど連覇を成し遂げた馬たちが現れたのは不思議なめぐり合わせでもある。これも佐々木氏の馬運が引き寄せたにちがいない。
写真:Horse Memorys