黄金旅程の最後の焔 - マイネルヴァッサー

いつからだろう。

出馬表に彼の名を見る度に、胸の奥がかすかにざわめくようになったのは。

それはレース前の昂りでも、高まる緊張でもない。もっと静かで、もっと深い郷愁にも似た感情――「ひとつの血が、まだここに生きている」という実感だった。

ひんやりとした風が頬を撫でる晩秋のパドック、小柄な一頭の競走馬が淡々と歩いている。年齢と経験を重ねてもなお、その身体からは闘志の火が宿っているようにも思える。すごい馬だな、どうか無事に、と声が漏れる。


ひとつの時代がそっと幕を下ろした。

マイネルヴァッサー。ステイゴールドがこの世に遺したJRAでの最後の息子であり、12歳まで駆け抜けた孝行息子が、ついに競走馬生活に区切りをつけた。

黄金旅程を歩んだ父がこの世を去ってから、もう10年になる。

ステイゴールドは遅咲きだった現役時代と同様、種牡馬としても最初から順風満帆なわけではなかった。けれど、彼はいつも逆境を跳ね返し、しぶとく、しぶとく乗り越えて見せた。多くの名馬をこの世に送り、その血は世界の頂にも手をかけた。まごうことなき偉大な種牡馬だった。

時が流れるにつれ、血統表の一段目にいたはずの名前は二段目へ、三段目へと上がっていき、気づけば「懐かしい名馬」として語られることも増えてきた。代わりにその血はオルフェーヴルやゴールドシップらを通じて一層の存在感も放っている。

何も悲しいことはない。けれど、ときどき、寂しい想いも去来する。

あの、ときに繊細で、ときに狂気的なまでに強く、そして何よりも個性豊かな馬たち――ステイゴールド産駒独特の「あの強さ」を、私は確かに愛していた。孫の世代にも、少しずつ形を変えながらその気質は受け継がれているけれど、それでもやっぱり、直仔の見せるより研ぎ澄まされた「何か」を懐かしく思ってしまう。

だからこそ、その血がひとつ、またひとつとターフを去る中で、マイネルヴァッサーという存在は特別なものになっていった。

「まだ、ステイゴールドの名がここにある」。

そう思わせてくれることが尊かった。


ヴァッサーの歩みは、とても華々しいとは言えない。

デビューは2015年。そこから重ねること70戦。平地時代は未勝利、2016年に障害へ転じてからもずっと勝てなかった。初めての白星は6歳、入障22戦目のこと。

何かがひとつ違えば、もしかしたら、とっくに諦められてたかもしれない。ただただ走り、走り続けた苦難の先にようやく手にしたかけがえのない光だった。その軌跡に、キャリアの最終戦――あの香港ヴァーズで奇跡の末脚を見せた父の血の影が緩やかに重なる。

彼の歩んだ数字の裏側にも、ヴァッサーの魅力はぎゅっと詰まっている。

障害で63戦――驚くべきことに、その全てで競走中止がない。

レースで走破した距離は21万6440メートル。

この事実だけで、彼の丈夫さ、そして何より「生命力」がどれほど確かなものかがわかる。

8歳で1勝、9歳で1勝、10歳で1勝。競走馬としては黄昏を迎えるはずの年齢を迎えても、まるで一年に一度だけ咲く花のように、何度も存在感を示した。それどころか、年齢を重ねるほどに、強さは磨かれていくようだった。

10歳の冬には中山大障害にも挑んだ。彼なりの歩みでキャリアを重ねて重ねて、重ね続けた末に大きな舞台に立った。その事実に、ふと私まで勇気づけられた。

同期の俊英の仔がターフを駆け始めても、ヴァッサーは変わらず走り続けた。

430キロほどのその馬体は障害馬としては華奢にさえ見えた。だが、その実――骨は強く、筋肉はぎゅっと締まり、気持ちは驚くほどタフだった。彼は、小さな体をいっぱいに伸ばし、必死に、勇敢に障害を飛び越えた。

その走りはしぶとく、真面目で、決して諦めない。大きくない体のどこにこれだけの力を秘めているのか――何度見ても不思議だった。けれど、

「ステイゴールドの息子だものね」

と思うと、その謎は解けるような気もした。

そんなヴァッサーだからこそ、無事に引退の日を迎えられたことにほっと息をつく。

長く負担の大きい障害競走を生き抜き、力と心を削りながら、それでも前を向き続けた馬が、第二の馬生へと踏み出していく。その背中を見送れることに、胸の奥がじんわりと温かくなる。

父としてのステイゴールドの名前は、これでいよいよJRAから姿を消す。寂しさはあるけれど、今はただ、父に対しても、息子に対しても、心からの感謝の言葉を送りたい。

ありがとう、ステイゴールド。そしてその最後の焔。マイネルヴァッサー。

長い年月を生き抜いたその頑健さも、しぶとさも、優しさも。あなたが刻んだ長い旅路は、これからもきっと語り継がれていく。

どうか穏やかな余生を。あなたが守り続けてきた血が、永遠に続くことを祈って。

写真:よるぼん(@Jordan_Jorvon)

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