2016年の7月、種牡馬として韓国で繋養されていたメイセイオペラが惜しくもこの世を去りました。22歳でした。

メイセイオペラといえば、1999年にフェブラリーSを地方所属馬として初めて制覇し、岩手競馬の──ひいては地方競馬の星と呼ばれました。
JRA開催のG1を地方馬で優勝したのは、17年経った2016年の今になってもメイセイオペラただ一頭です。
これだけでもメイセイオペラの凄さがうかがい知れることでしょう。

その他、ダート統一G1帝王賞・南部杯勝利などの戦績から、メイセイオペラがダート競馬の一時代を築いた名馬であることは、誰の目から見ても明らかです。
実際、同時期に砂の王者として君臨したアブクマポーロとの戦いに、胸を踊らせたファンは多いと思います。
地方の強豪馬が中央馬に一歩も引くことなく勝利を重ねていた時は、今もなお色褪せない地方競馬の黄金期です。

さて、時代の看板役者であったメイセイオペラですが、その道のりは決して平坦ではありませんでした。
美しい栗毛の馬体をしならせ軽快な行き足で先行するというレース運びからスマートな印象があるメイセイオペラも、多くの紆余曲折を経ながらスターの地位を得たのです。
怪我・不調など、競走馬につきまとう不安は例外なく彼にも降りかかりました。ですが、そのたびにメイセイオペラは周囲の尽力に応え期待以上の結果を出し、行く手を阻む重い扉を開き前進したのです。

今回は、育成期・成長期・円熟期という節目において、メイセイオペラが開け放った3つの扉について触れていこうと思います。


「デビューへの扉」

サラブレッドが生まれ競走馬としてデビューする。どんなに注目を集める血統馬でも、そのレールに乗ることはけして簡単ではありません。ましてや血統的に期待されていないなら尚更です。

1994年6月6日、北海道平取町の高橋牧場で一頭のサラブレッドが誕生しました。
遅生まれの小さな栗毛の牡馬、それがのちのメイセイオペラです。

メイセイオペラの母は地方競馬で2勝したテラミス。
成績もさながら、父タクラマカンという血統的にも地味な馬です。
引退後、テラミスはいくつもの牧場から預託を断られますが、オーナーである小野寺氏の強い思いにより高橋牧場が引き受けることになり、ようやく繁殖に上がったという馬でした。また、メイセイオペラの父グランドオペラも代表産駒アマゾンオペラ(95年川崎記念優勝)が活躍する前で、種付け料の安さが決め手となり交配相手に選ばれたのでした。いかに最小限の負担で繁殖するか。経済性に重きを置いた交配により、メイセイオペラは生まれたのです。

多くのサラブレッドが春先に生まれるなか、遅生まれだったメイセイオペラは比較的体も小さく、取り立てて見どころのある馬ではありませんでした。
褒めるところを見つけるのが難しい……そう言われ、周囲からまったく期待されなかった一頭が目覚ましく変わったのは、2歳の夏、門別の白井牧場に移動し昼夜放牧されてからです。

増える運動量、目覚める闘争本能、そして遅ればせながらも着実に成長する馬体。それらが上手く噛み合い、メイセイオペラの競走馬としての素質が露わになりました。血統を裏切る好気配に関係者は目を丸くし、おのずとその可能性に期待を抱きました。

こうして順調に成長したメイセイオペラは、3歳(旧年齢表記)になると、ある人物の相馬眼を惹きつけます。
水沢(岩手競馬)の調教師である佐々木修一師です。自分の厩舎で走らせたい。師の強い願い出に、はじめは中央競馬に所属させるつもりだった小野寺氏もほだされ、メイセイオペラは佐々木厩舎所属の競走馬としてデビューを果たしました。

埋もれていた仔馬が一転、将来を嘱望されデビューするに至ったのは、牧場側の努力はもちろんのこと、何よりも小野寺氏の情熱の賜物でしょう。
小野寺氏がテラミスを是が非でも繁殖牝馬に上げた、その思いの強さがなければ、そもそもメイセイオペラが生を受けることはありませんでした。
さらにオーナーの想いを受けメイセイオペラを育んだ高橋牧場、成長を促した白井牧場の努力が実を結び、ついには佐々木調教師を惚れ込ませるほどの魅力的な競走馬が誕生したのです。

1996年7月。
人々の期待を背に、成長を遂げたメイセイオペラはデビューへの扉を力強く開けました。

「岩手から全国へ、新たな活躍の場へ続く扉」

デビュー戦を4馬身差で逃げ切ったメイセイオペラでしたが、活躍を心待ちにした小野寺氏の死後、しばらくの間低迷を続けました。
さらにはトレード話も浮上し、メイセイオペラの行く手にはさらなる暗雲が立ち込めました。

いくら才能の片鱗を見せようが、まだレースの走り方も分からないデビューしたての若駒。
騎手に従いレースを覚えるまでは、馬体の成長と共に精神的な成長も不可欠です。多くの素質馬が能力だけで初勝利を飾った後、力の使い方を覚えぬまま長期スランプに陥った例は枚挙に暇がありません。
不調から抜け切れず、このまま活躍の芽が摘まれるケースも十分考えられました。
しかし、小野寺氏の妻・明子さんがオーナーとなり周囲が落ち着いた頃、メイセイオペラはもう一度成長を遂げました。競馬を学んだのです。

道中で我慢を覚えたメイセイオペラは、通算6戦目にして2勝目をあげ、つづく3歳限定の上級戦、さらに特別レースの白菊賞でも勝利しました。白菊賞でコンビを組んだ菅原勲騎手(のちの主戦騎手)も、メイセイオペラの圧勝に確かな手ごたえを感じていたといいます。

4歳になりスプリングC・ダイヤモンドCで有力馬を蹴散らし連勝を伸ばす頃には、ファンの誰もが岩手の王者としてメイセイオペラを認め始めました。さらに初重賞勝利となった東北優駿で東北地区の同世代を負かし、地元の不来方賞を手堅く制すると、いよいよ古馬との初対戦を迎えます。
しかし、もはや岩手競馬に敵なしと言われた本馬にとって、重賞でもない地元のA級レースは通過点でしかありませんでした。

王者として、目指す先はダート統一重賞。
ユニコーンS・ダービーグランプリ・スーパーダートダービーで成る、地方・中央競馬の世代トップ馬が集結するダート三冠へ。メイセイオペラなら全国でも勝てるかもしれない。陣営だけでなく、強さを目の当たりにしたファンも期待と確信を抱いたのです。

ところが、昇竜の勢いのメイセイオペラに敵が襲い掛かります。
予想外の怪我に見舞われたのです。
頭がい骨骨折──運が悪ければ競走生命を奪いかねない大怪我でした。しかし関係者の努力の甲斐あり、獣医も驚く回復力を見せたメイセイオペラはダービーグランプリにて復帰を果たしました。結果は10着。
全国の地方競馬場、さらにJRAからも有力馬が集まるなか、故障明けの初戦ではやむを得ない結果でしょう。続いてスーパーダートダービーに出走したものの、同じく結果は10着。
人が思い描く通りに競馬は進まない。その現実に地元のファンも衝撃を受けました。しかし、ファンはあたたかくメイセイオペラを出迎えました。

1997年、大晦日。
桐花賞で古豪を下し勝利を遂げたメイセイオペラは、ファンによる祝福の歓声を浴びました。
佐々木調教師も感激を隠せず涙を流し、ここに集う人々は皆王者の復活に胸震わせながら、さらなる飛躍への光を見たのです。数時間後には年が明け、古馬となるメイセイオペラの挑戦に明るい兆しが差した年の瀬でした。

こうして再び歩み出したメイセイオペラですが、ダート統一G1への出走は、己の力量を思い知る旅の始まりでもありました。
1998年1月、5番人気で出走した川崎記念にて、けして本調子では無かったとはいえ4着に敗れたのです。
なみいる中央馬を抑え優勝したのは船橋競馬・出川厩舎所属のアブクマポーロ。差し脚鋭く抜群の安定感を誇り、砂の王者として全国に名をとどろかせた名馬です。
のちに時代を沸かす2頭はここで初めて相まみえました。と同時に、メイセイオペラ陣営のアブクマポーロへの挑戦が始まったのです。

川崎記念の後、岩手競馬のシーズンオフを利用し、メイセイオペラは福島県天工トレーニングセンターで過ごしました。
陣営が選んだのは休養ではなく、全国の一線級、とりわけアブクマポーロと戦うための自力強化の道でした。
素晴らしい設備で鍛錬されたメイセイオペラは、またもや周囲の期待を上回る大成長を遂げます。遅生まれのメイセイオペラにとって成長期はまだまだこれから。もちろん、与えられた負荷に対応し自らの力とする吸収力は天与のものでしょう。かくして帰厩後、菅原騎手をして「別馬」と言わしめたメイセイオペラは、みなぎる力で扉を破り新たな活躍の場に踊り出たのです。

「フェブラリーSで開け放った希望への扉」

天工トレーニングセンターから戻り、シアンモア記念を圧勝したメイセイオペラは、ダート統一G1である帝王賞へ向かいました。
地方・中央の強豪が集まる中、あくまで地域限定王者と見なされていたメイセイオペラは7番人気。
しかしそうした低評価を尻目に3着に食い込み、快進撃の狼煙を上げます。その後、メイセイオペラはマーキュリーカップで実力差を見せつけるとみちのく大賞典を危なげなく制し、地元開催の統一G1南部杯へ照準を合わせました。
今回はアブクマポーロを地元で迎え撃つ立場。地の利を生かし、遠征に一抹の不安があるアブクマポーロに一矢報いることができるのではないか。陣営が選んだ策は内枠を活かした逃げの戦法でした。

かくして策が功を奏し、また馬自身の強化も相まって、初めてメイセイオペラはアブクマポーロに勝利しました。
あくまで挑戦者の立場でしたが、アブクマポーロに土をつけ、匹敵する実力を持っているのだと全国へ宣言することができたのです。ついに迎えたメイセイオペラとアブクマポーロ、地方所属馬同士の頂上決戦の日々。
それはダート交流重賞が実施されて以来、地元のレースを中央勢に攫われ、何度も辛酸を舐めてきた地方競馬ファンにとって眩しい時代の到来でした。ファンの視線はこの2頭の動向に俄然集まりました。

同年、年末の東京大賞典で再び2頭はぶつかりますが、軍配はメイセイオペラではなくアブクマポーロに上がりました。
関東開催のレースにおいてアブクマポーロは盤石、しかも南部杯とは違い得意の中距離です。
2馬身半の実力差を見せつけられ、メイセイオペラも苦い思いをせざるを得ませんでした。

年が明け、1999年。
アブクマポーロを睨み己を磨き上げていくうち、メイセイオペラもまたトップホースの地位を揺るがぬものにしていました。川崎記念を始動に定めたライバルに遅れ、メイセイオペラはフェブラリーステークスへの挑戦を表明します。中央の実力馬たちに混じり、地方所属馬ただ一頭の参戦。しかも強豪ワシントンカラーに続く2番人気。地方競馬に馴染みの薄いファンの視線も注がれています。
ここでメイセイオペラが勝利すれば、「地方馬が中央競馬のG1に勝った」という字面のインパクトにとどまらず、全国の競馬ファン・関係者にとって歴史的瞬間を迎えることになるのです。

「歴史的」とは、けして大袈裟な表現ではありません。
これまで地方競馬出身の名馬たちは皆、中央競馬に籍を移した後に中央のG1を勝利していました。地元の誇りと言える名馬を、地方所属のままで中央G1に勝利させる。
それは地方ファン・関係者の長らくの悲願でもあると共に、地方競馬場の調教技術・騎乗技術の質を証明、向上させるにおいてエポックメイキングな勝利となり得るのです。

実際、フェブラリーステークス当日は岩手から多くのファンが駆け付け声援を送っていました。
地元を離れた馬を応援するのとは違う、「おらが町」の代表馬を応援する熱気は真冬の空を温めました。

本場馬に現れたメイセイオペラは、わざわざ地元の飲み水を持ち込んだという陣営の配慮もあり、いつも通りの素晴らしい馬体でした。明るい栗毛は輝きを放ち、ややテンションの高い状態から次第に落ち着く様子は風格すら漂っていました。
鞍上の菅原騎手もすでに府中のコースで勝利しており、人馬ともに万全の態勢。夢や希望をはらんだ風がスターターの旗をなびかせ、ついに第16回フェブラリーステークスが発走しました。

結果、桜花賞馬キョウエイマーチの作る流れのなか、絶好の位置につけ追走したメイセイオペラは、スムーズに馬群を抜け出したまま後続馬を抑え一着入線。
地方競馬が待ち望んだ、地方所属馬による中央G1の勝利を果たしたのでした。

誰もが納得するクリーンで鮮やかな勝ち方に、中央競馬の関係者たちもメイセイオペラの強さを讃えました。
一方、スタンドは菅原騎手に向けた「イサオコール」で湧きあがり、祝福ムードで満ち溢れていました。素晴らしい環境の大舞台で、周囲の期待に応え華々しく実力を解き放ったメイセイオペラ。地方競馬の無限の可能性を示した黄金の馬体は、力強くターフを駆け抜け希望の扉を開き、さらなる高みへ突き抜けようとしていました。その先に待つアブクマポーロとの対戦へ向け、ひたすらに邁進するはずだったのですが。

結局、川崎記念優勝後にアブクマポーロが戦列を離れ、2頭の対決は実現しませんでした。
ライバルの復帰を待ちつつ、メイセイオペラは帝王賞を制しました。ところがその後、メイセイオペラが南部杯を球節炎で回避した同時期に、アブクマポーロの引退が発表されたのです。

南部杯回避後、メイセイオペラの目標は打倒アブクマポーロからドバイワールドカップ挑戦へ移り変わります。
しかし東京大賞典で謎の大敗を喫したメイセイオペラは、以来不調に見舞われ、復調の兆しを見せたみちのく大賞典後、南部杯を前に浅屈腱炎を発症し引退が決定しました。

生き物である以上、永遠に強い馬は存在しない。時代は移り変わるもの。
──そう分かっていても、当時、メイセイオペラの引退という時代の終焉に、寂しさを感じずにはいられませんでした。

しかし、種牡馬としても地方競馬で活躍し、さらには韓国への移籍後、G1馬ソスルッテムンを誕生させるなど、どんな環境でも周囲の期待に応え、立ちふさがる扉を割き道を拓くところは生涯変わりませんでした。


人々の想いと努力、それに応える馬の頑張り。

メイセイオペラの例に限らず、連綿と重ねられた人と馬の物語は競馬の大きな魅力です。
ファンはギャンブルとしての楽しみだけでなく、馬に懸ける情熱や期待も含めて競馬を長らく愛してきました。これからも、きっと物語は続くでしょう。
競馬の素晴らしさを認識させてくれる馬。メイセイオペラはまさにそんな競走馬の一頭だったと実感し、あらためてご冥福をお祈り申し上げます。

ありがとう、メイセイオペラ!

写真:みれちか

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