年に一度、世界最強馬を決める大イベント、凱旋門賞。毎年のように日本馬の挑戦は続いているが、その中で1999年に日本馬の4頭目として参戦したのが、後に年度代表馬となるエルコンドルパサーである。

G1勝利数こそ3勝と少ないが、これには大きな理由もある。それ以上に、勝った時の内容がどれも日本歴代最強クラスとも言われるパフォーマンスだったからこそ、ロンシャンの世界最高峰の舞台での活躍は、勿論期待されていた。

今回はエルコンドルパサーの現役、種牡馬生活を振り返る。

外国産馬に突きつけられた現実

父はキングマンボ、母はサドラーズギャル。母の父はサドラーズウェルズと超良血馬であり外国産馬であったエルコンドルパサー。
そしてこの「外国産馬」という事が、彼の運命を大きく左右する。

新馬戦、条件戦をダートでどれも最後方から豪快に差しきりオープン入り。その後、降雪によりダートに変更されてた共同通信杯4歳Sでも中団からレースを進め、メンバー最速の切れ味で完勝。
周囲では世代最強の呼び声が高まっていた。
しかし、ここで厳しい現実を突き付けられる事となる。この当時、外国産馬はクラシック競走、天皇賞春秋への出走登録を全面的に禁止されていたのだ。
内国産馬限定、つまり日本で産まれた馬しかクラシックや天皇賞春秋に出走出来ないという、鎖国のような状況にエルコンドルパサーは巻き込まれたのである。しかし一方で、エルコンドルパサーの活躍もあったからこそ、2001年からは外国産馬のクラシック競走、天皇賞春秋への出走登録が認められるようになっているとも言えるだろう。

東京で行われたニュージーランドT4歳Sで、初の芝コースを走ったが、これも危なげなく快勝。
続くNHKマイルカップでは、マイネルラヴやシンコウエドワードなど、後にG1や重賞で活躍する並居る強豪をまとめて一蹴し圧勝。もはや世代最強馬も同然。そんな声が多くなってきたエルコンドルパサーは、次のレースで歴史的な戦いを演じる当事者となる。

音速の貴公子というあまりにも高い壁

エルコンドルパサーは毎日王冠で古馬との初対決に挑んだ。
そのレースには、グランプリレースで逃げ切り勝ちを収め、音速の貴公子の異名を持つ、サイレンススズカも出走を表明していた。
そして、エルコンドルパサーと同い年で同じ外国産馬だったもう1頭の世代最強クラス馬の復帰戦でもあった……3歳王者、グラスワンダーである。

レース前ではこの3頭で熱戦を繰り広げられると思われていた。
スタート直後、グラスワンダーは出遅れて後方からの競馬に。そして大方の予想通りでサイレンススズカが逃げる。その後ろにエルコンドルパサーはいい位置につけていた。逃げるサイレンススズカは1000m通過タイム57秒7というハイペースを刻んでいく。しかし大欅に差し掛かる手前に後方からの競馬になったグラスワンダーがビックサンデーと共に奇襲を仕掛けた。これにより後続もペースが激しくなり、エルコンドルパサーも巻き込まれる形に。一時は先頭に立つ勢いだったが、サイレンススズカはこれを阻止するかのように加速する。エルコンドルパサーはここから仕掛け始めた。
迎えた最後の直線、グラスワンダーは完全に力尽きてしまったが代わって出たのはエルコンドルパサーだった。
ここから逃げるサイレンススズカに並びかけるかと思われたが、差がなかなか縮まらない。そして先ほどグラスワンダーが作った厳しいペースに巻き込まれた分もあってか外にヨレてしまった。この時、東京競馬場では柔らかい西日が射しており、馬の影も長く伸びていたが、その影をサイレンススズカは全く踏ませてくれなかったのである。

初めて味わった挫折。
これがエルコンドルパサーにとって初めての敗戦であったが、同時にサイレンススズカ、グラスワンダーとの対決はこのレースが最初で最後のレースとなった。
次走、サイレンススズカは天皇賞秋で故障発生、この世を去った。そしてグラスワンダーは、エルコンドルパサーとは対照的に、国内制圧を目論む事となる。

孤高の怪鳥として挑んだ凱旋門賞

続くジャパンカップでは毎日王冠で見せた前目の競馬を行い、同い年のダービー馬であったスペシャルウィークや女傑エアグルーヴの追撃を見事に封じて日本を代表する絶対王者となった。
後に休養を経て年が明けた1999年。
エルコンドルパサーは凱旋門賞を見据える為にフランスへ長期遠征をする事になった。
第一戦目は、エイシンヒカリが10馬身差で圧勝したのが記憶に新しいイスパーン賞。このレースには後にフォア賞、凱旋門賞でも対決する事になったクロコルージュに差しきられてしまう。
二戦目はサンクルー大賞。このレースではタイガーヒルやドリームウェル、前年の凱旋門賞馬サガミックス、ボルジア等の豪華メンバーによる一戦だったが、中団でレースを進めて持ったまんま逃げたタイガーヒルを捉えるとそのまま独走し、2馬身半もの差をつけG1 3勝目を獲得する。
三戦目はフォア賞。イスパーン賞で苦渋をなめた相手であるクロコルージュとの対決をいとも簡単にねじ伏せてリベンジを果たし、いざ凱旋門賞へと駒を進めた。
このレースにはニエル賞を圧勝したモンジュー、ボルジア、デイラミなど、14頭の出走馬のうち、エルコンドルパサーを含めG1馬が8頭もいるという豪華メンバーになった。
レースではエルコンドルパサーがハナを切って先頭でレースを進める。道中はしっかりと折り合う事ができ、脚をじっくりと溜めながらレースは最後の直線へ。蛯名正義騎手のゴーサインに応え、エルコンドルパサーは一気に加速。その差は2馬身、3馬身と、グングンとリードを広げていく。クロコルージュなどの後方集団は伸びあぐねている。その中から4歳馬のモンジューが飛んできた。しかしそのモンジューもまた伸びあぐねる。

「遂にこの時が来たか」

だが残り200m、モンジューは確実にエルコンドルパサーとの差を縮めて来たのだ。
1馬身半、1馬身、半馬身。そして夢は残り100mで潰えてしまった。
これが世界の壁だった。
日本調教馬として初めての凱旋門賞2着であったが、その壁はあまりにも高かった。
しかしエルコンドルパサー自身も、日本の王者として悔いのないレースをした上である。事実、現地からは「チャンピオンが2頭もいた」という声が多かったと聞く。
私自身も、勝ったモンジューだけではなく、エルコンドルパサーにもチャンピオンの称号を与えるに等しいと感じる。

わずか3年間ながら大物を出した、種牡馬としての素質

既にこの凱旋門賞をもって引退と決まっていたエルコンドルパサーは、種牡馬生活としても幸先の良いスタートを切った。
掴む事の出来なかった凱旋門賞の夢を産駒に託す事となる。この当時はサンデーサイレンス旋風が巻き起こっていたが、それに対抗すべくエルコンドルパサーに大きな期待をかけられていたのだ。

初年度産駒から、ルースリンドや根岸S勝ち馬ビックグラスなどを輩出。
2年目はダート交流G1含め9勝という偉業を成し遂げたヴァーミリアン、ステイヤーズS勝ち馬トウカイトリック、オーシャンS勝ち馬アイルラヴァゲインというビックネームを輩出し注目を浴びる事となる。
しかし種牡馬生活がスタートしてからわずか3年目、エルコンドルパサーは2002年の夏、腸捻転により突然この世を去ってしまっていた。
まさにこれからだという時に、日本競馬界の英雄の急死はあまりにも衝撃的だった。競走馬が如何に生涯を全うするのが難しいかを思い知らされる。
その後も、ソングオブウインドが当時のコースレコードを叩き出して菊花賞を、アロンダイトがジャパンカップダートを5連勝で制した。この産駒の活躍ぶりを見ても、余りに勿体なさ過ぎた。
もし生きていれば、どれだけの代表産駒を出していたのだろう。

きっと、エルコンドルパサー旋風が巻き起こっていたに違いない。

しかしエルコンドルパサーの血脈は確実に受け継がれている。クリソプレーズは韓国の重賞で圧勝したクリソライト、宝塚記念を勝利しグランプリホースとなったマリアライト、神戸新聞杯勝ち馬リアファルを輩出。
フェザーレイはプリンシパルS勝ち馬サムソンズプライドを輩出し、そしてエルコンドルパサーの後継種牡馬でもあるヴァーミリアンは、フェアリーSを勝ったノットフォーマルを輩出した。

私から1つだけエルコンドルパサーの血脈に関して提案がある。それはサンデーサイレンス系で、オルフェーヴルやナカヤマフェスタの血統と掛け合わせてみるのはどうか、という事だ。ステイゴールド産駒であるオルフェーヴルとナカヤマフェスタは、凱旋門賞では惜しい結果の2着。更にオルフェーヴルは2年連続の2着となっている。後に両馬はエルコンドルパサーと同じく凱旋門賞の夢を産駒に受け継いだのだから、これから先やってみて欲しいものだ。もし仮にこれらが受け継がれたら、夢は大いに広がっていくだろう。
そして数年後になればきっと、エルコンドルパサー自身が壊せなかった世界の壁を尽く打ち砕いてくれる馬が現れるのではないかと期待している。

写真:ラクト

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