禍福は糾える縄の如し - メジロボサツとメジロドーベル

1.新たな「メジロ」の誕生

2025年1月、1頭の馬の名前が話題を呼んだ。その馬の名は「メジロピオラ」。「メジロ」は日本屈指のオーナーブリーダーとして名を馳せたメジロ牧場の冠名であるが、2011年のメジロ牧場解散に伴って姿を消していた。命名の経緯について、メジロ牧場の後継であり、メジロピオラを生産したレイクヴィラファームの公式Xでは次のような紹介がされている。

メジロピオラは
母 メジロシャレード
父 リオンディーズ
の、綺麗な青毛の2歳牝馬です。

昨年のセレクトセールで、フィールドレーシング様にご購買いただきました。

オーナーから
「『メジロ』という名前をつけても大丈夫ですか?」
と、いうご相談がありました。
(許可を取る必要はもちろんありません)

実は、メジロピオラのお兄さんの
『ハイコンテクスト』も、フィールドレーシング様の所有馬でした。
セリ前に馬産地からは離れたレイクヴィラ洞爺まで馬見せにきてくださいました。
もともと骨の成長に問題があり、セプテンバーセールでもその旨を公表しておりましたが、それでも馬を気に入って下ってご購買いただきました。
残念ながら、もともと弱かったところとは別の場所を痛めてデビューする事はできませんでしたが、とても思いを持ってくださっている血統です。
(今は高校馬術部で頑張っているようです)

そんなご縁もあり、私達に馴染み深い
『メジロ』という言葉が馬名につく事になりました。

──LakeVillaFarm X(@villa_lake)、2025年1月11日ポストより引用
(https://x.com/villa_lake/status/1878013269635731917?t=R_ZXhD6TUfLVfE15henUIw&s=19)

オーナーのフィールドレーシングとレイクヴィラファームの縁が生んだ、新たな「メジロ」の誕生であった。引用したポストにあるように、メジロピオラの母はメジロシャレード。この馬には牧場が大切にしてきた「メジロ」の血が流れているのだ。

そんなメジロピオラの五代血統表を私が見たとき、目にとまったのは一番右下の名前。「メジロボサツ」という牝馬である。父系を見ればキングカメハメハやスペシャルウィーク、母系にはマンハッタンカフェやメジロライアンといった名馬が並ぶ血統表で何故この馬に注目したのか。それは私淑する文筆家・寺山修司がメジロボサツに格別な眼差しを送ったからである。

2.「生ける墓標」メジロボサツ

メジロボサツの母はメジロクイン。名伯楽・大久保末吉調教師に管理され、4勝を挙げて繁殖入りしている。父モンタヴァルはフランス生まれの競走馬で、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスなどに勝利し、種牡馬入り。1961年日本に輸入された。メジロボサツは良血馬と言って良いだろう。

しかし、母メジロクインは1963年に初仔を産み落とした後に死亡した。母の死とともに生まれた仔馬は「仏の血」を継いだという意味で「メジロボサツ」と名付けられる。しかも、父モンタヴァルもメジロボサツのデビューと同時期に世を去る。寺山修司は「孤児馬」になった彼女を「生ける墓標」と呼んだ(寺山修司「モンタヴァル一家の血の呪いについて」『馬敗れて草原あり』角川書店、1979年)。

不幸な生い立ちを背負ったメジロボサツだったが、競走馬としては良血馬に相応しい素晴らしい才能を見せた。母と同じ大久保末吉調教師に預けられると、牡馬との混合戦である朝日杯3歳ステークスで逃げ切り勝ちを収めるのである。寺山は、当時のファンの声として、次のような評を紹介している。

あれは、自分の不幸な生い立ちへ復讐しているのだ。勝つほかに、メジロボサツが愛される道はないのだ

──寺山修司「二人の女」(『馬敗れて草原あり』角川書店、1979年)より引用

メジロボサツの走りは「不幸への復讐」と解釈されていた。「結果を残さねば愛されない」という焦燥感は、高度経済成長に伴う激烈な競争社会を生き抜く人々のマインドに起因するものかも知れない。

図らずも、メジロボサツの同世代には「幸運」を体現したようなライバルがいた。ワカクモというその馬の母・クモワカは桜花賞で2着するなど活躍したが、馬伝染性貧血の診断を受けて殺処分命令が下されてしまった。しかし関係者の努力で匿われて繁殖牝馬となる。ワカクモはその5番仔で、クモワカによく似ていることから母の名に因んでその名がつけられた。すんでのところで命を救われた母に生き写しのようなワカクモもまた、多くのファンに支持された。寺山は、1966年の桜花賞を次のように表現している。

このレースは、まるで「不運」と「幸運」とどっちが強いかという感じであった

──寺山修司「二人の女」より引用

レースはワカクモが勝利し、メジロボサツは3着に終わった。寺山は考える。

不運は幸運には勝てなかったのだ。現代はやっぱり、幸運でなければ生きられない時代なのだろうか。

──寺山修司「二人の女」より引用

寺山の眼はメジロボサツだけでなく、彼女と同じように「不運」に見舞われた多くの人々を見ている。「幸運」の側に立てなかっただけで落伍することになるのか、という問いは、この桜花賞から60年を経た現在でも通用するだろう。

メジロボサツの「不運」は続く。距離延長で巻き返しを期したオークスは土砂降りの嵐に見舞われた。300kg台と小柄な馬体のメジロボサツには不向きな不良馬場で、逃げたヒロヨシに9馬身差をつけられる2着に終わってしまう。この頃はまだ秋華賞どころかエリザベス女王杯も無かったから、秋に名誉挽回することも出来なかった。メジロボサツは次戦の函館記念こそ勝利するものの、その後は着外が続き、5歳(現・4歳)で引退することとなる。

寺山が、

モンタヴァルの子で、二度幸福が続いた馬はいない。

──寺山修司「モンタヴァル一家の血の呪いについて」より引用

と語ったように、3歳王者になるという「幸福」を掴んだあとは精彩を欠いた競走生活だった。

3.「強運の女王」メジロドーベル

メジロボサツ産駒のメジロナガサキと、メジロアサマやシンボリルドルフなど多くの名馬を輩出した名種牡馬パーソロンとの間に生まれたメジロビューティーという牝馬がいた。大久保末吉調教師の子・大久保洋吉調教師が管理したが、3歳春に骨折を発症しオークスを目前に無念の引退となる。このメジロビューティーに、1991年の宝塚記念を制した「メジロ」を代表する優駿・メジロライアンを配合して生まれたのがメジロドーベルである。

素質馬の母から生まれたメジロライアンの初年度産駒として期待されたドーベルであるが、その幼駒時代は2つの「不運」に見舞われた。

まず、母メジロビューティーが特殊な血液型であったことが判明し、「血液型の不適合」により母から初乳を貰えない状況だった。同時期に出産した別の繁殖牝馬から初乳を貰うことで乗り越えたものの、タイミングが合わなければここでドーベルの馬生は終わっていたかも知れない。加えて1歳時に重度の剥離骨折を発症。これは社台ホースクリニックの協力を得て治療に成功し、事なきを得た。この馬には「不運」を乗り越えるだけの力がデビュー前からあったと言えるだろう。

メジロドーベルを管理したのは母と同じ大久保洋吉調教師。大久保師はこの素質馬を厩舎所属の若手ジョッキー・吉田豊騎手に託した。吉田騎手も起用に応えて新潟で行われた新馬戦を勝利に導くが、2戦目の新潟3歳ステークス(この年は振替で中山開催)は5着に終わってしまう。だがそこからサフラン賞・いちょうステークスと東京コースで2連勝しているから、中山1200mというコースへの適性の問題だったと言えるかも知れない。

3歳女王決定戦・阪神3歳牝馬ステークスは初の関西遠征となった。外国産馬シーキングザパールが圧倒的支持を集めたレースだったが、メジロドーベルはレコード勝利。大久保調教師と吉田騎手に初のGⅠタイトルをもたらした。また、最優秀3歳牝馬のタイトルは曾祖母メジロボサツと同じ。メジロボサツが果たせなかったクラシック制覇を目指し、翌1997年を迎えた。

一冠目の桜花賞は生憎の不良馬場。後方から追い込むが、先行策を取った1番人気のキョウエイマーチを捕らえられず、2着に終わる。しかし二冠目のオークスでは2着に2馬身半差をつける快勝で、メジロボサツが手に出来なかったクラシックのタイトルをもたらした。夏休みを挟んだ秋初戦は古馬重賞オールカマーを選択。歴戦の猛者たちを相手にした一戦はオークスから一転、ハナを切って逃げる展開になったが、吉田騎手が上手く折り合いをつけて勝利。勢いそのまま本番の秋華賞は中団からレースを進めて2馬身半差の快勝を収め、二冠牝馬となる。最優秀4歳牝馬の称号獲得は、3歳女王に輝きながらクラシック無冠に終わったメジロボサツの雪辱を果たしたものと言えるだろう。

古馬となってからの活躍も期待されたメジロドーベルだったが、彼女の現役当時、古馬牝馬GⅠはエリザベス女王杯のみでローテーションが組みづらかった。必然的に強豪牡馬との対戦が多くなり、苦戦を強いられることとなる。その中でもエリザベス女王杯連覇の他、牝馬重賞では完全連対だったことを考えると、時代が違えばもっと優秀な戦績を残しただろう。1999年のエリザベス女王杯が引退レースとなったドーベルは、2年連続で最優秀5歳以上牝馬を受賞し、ターフを去った。

大久保調教師は後年、メジロドーベルの強さについて次のように振り返っている。

強い馬でしたし、競馬に行って不利を受けることもなかった。そういった運の強さもあったと思います。

──「ドーベルらを輩出 そして受け継がれる師弟関係・大久保洋師」(『競馬ラボ』2015年2月22日、https://smart.keibalab.jp/column/interview/1363/)

曾祖母メジロボサツが「不運」な「孤児馬」として競走生活を送ったことと対照的に、メジロドーベルは「運の強さ」を持った馬であった。寺山が言うように、「不運は幸運には勝てなかった」かも知れない。しかし、「不運の血統」は「強運の女王」を生んだのである。

4.禍福は糾える縄の如し

繁殖牝馬となったメジロドーベルは、サンデーサイレンスやディープインパクトなどの大種牡馬と交配されたが、重賞馬を送り出すことは出来なかった。メジロ牧場自体もメジロドーベルや同期のメジロブライトが活躍して以降は古馬GⅠ馬を輩出することが出来ず、成績は下降線を辿る。そして東日本大震災が起こった2011年に解散が決定し、レイクヴィラファームが後を継いだ。これにより、日本競馬史から「メジロ」の名が一旦姿を消すこととなる。

しかし、次世代の芽は着実に育っていった。2014年にメジロドーベルの4番仔メジロシャレードの産駒・ショウナンラグーンが青葉賞を制覇し、2021年には5番仔メジロオードリーの産駒・ホウオウイクセルがフラワーカップを制覇。ドーベルの孫世代で重賞勝ち馬が登場したのである。ホウオウイクセルは2023年に引退し、レイクヴィラファームで繁殖牝馬となった。メジロボサツ・メジロドーベルの血は、今もレイクヴィラファームに息づいているのである。

不運な生まれを持つ「生ける墓標」メジロボサツが繋いだ血統は「強運の女王」メジロドーベルを生んだ。ドーベルの引退後、「メジロ」は不運に見舞われたが、それも永続することはないだろう。「禍福は糾える縄の如し」とはよく言ったものだ。メジロピオラから始まる新たな「メジロ」の物語は、きっと幸福に彩られたものになるはずである。

Photo by I.Natsume

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