兄よ、弟よ - ニュービギニングが放ったひとつの輝き

私には、6つ年上の兄がいる。

兄は幼少期からずっと賢くて、私とは違う速度で物事を理解していた。

兄の背を追って地元の中学、高校に進学した私に、先生方は決まって兄の話をした。

兄は博士号を取得し、文筆の道に進んだ。

毎日大量の本を読み、思索に沈みながら紡いだ言葉は、やがて賞や書籍という形になった。兄は今、自らの名でキャリアを歩んでいる。

6年遅れの私にとって、兄は誇りであり、常に視界の先にある存在だった。とりわけ勉学の分野では、私がどれだけ足を動かしても、その距離は縮まらなかった。

今こうして書いている文章も、兄ならばもっと深みを持たせることができるはずだ。

私は技術者の道を選び、人と人を繋ぐ役割に身を置くことにした。

それは兄とは異なる道で、兄がほんの少しだけ苦手にしそうな道だった。

すべてが兄の影響ではない。けれど今の自分は兄と無関係ではない。

そんな背景からか、私は名馬の弟や妹たちについ肩入れしてしまう。

たとえ華やかでなくとも、自らの名で、自分たちらしい道を歩いてほしいと願っている。

ニュービギニング。

「ディープインパクトの弟」と呼ばれ続けた、一頭の鹿毛馬。

ニュービギニングが残した39戦3勝の戦績は、偉大な兄には遠く及ばなかった。多くの期待を受け、おそらくそのすべてに応えることはできなかった。

彼がどれほどの重圧を感じていたのかは、わからない。それでも私は、競馬場で彼を見るたび、心の中でそっと声をかけていた。

兄には及ばずとも、一個の存在として彼なりの花を咲かせ、息長く走り続けた彼のことが、私は好きだった。


毎年、日本では数えきれないほどのサラブレッドが生まれ、そして去っていく。優勝劣敗の法則に従い、静かに淘汰されていく世界。その中でも、G1馬の弟妹は生まれながらに特別な視線を浴びる存在だ。ファンは喝采を浴びた兄姉のかつての姿を重ね、デビュー前から「夢よ再び」と大きな期待を寄せる。

2006年の秋、ニュービギニングは兄・ディープインパクトと同じ、栗東・池江泰寿厩舎の門を叩いた。

このころ、ディープインパクトはフランスで失意の敗戦を喫し、年内での引退が発表されていた。

日本競馬の悲願がかなわなかったこと、そしてリベンジの機会が失われたことにファンはどこか心に穴が開いた気持ちで過ごしていた。

だから、「新しい始まり」と名付けられたディープインパクトの弟は、多くの期待を集めた。

――ディープの弟が、ゲート試験に受かったらしい

――ディープの弟が、初時計を出したらしい。

――ディープの弟が、ディープの弟が……

彼の動静には、常に兄の名がついて回った。

別格の名馬である兄と肩を並べられる存在など、そうはいないと理解していても、その血に期待せずにはいられなかった。

初陣は12月3日、阪神芝2000mに決まった。それはかつて兄が第一歩を踏み出した舞台と同じだった。

前週のジャパンカップで、ディープインパクトは再び飛んでいた。その余韻が残る中の初陣。ファンはニュービギニングに対し、1番人気、単勝2.3倍の支持を寄せた。

モタつきが目立ち動ききれていない調教過程は、競馬を長く見てきた人であれば、おそらくは「まずは使ってから」と評価するものだった。1番人気という支持には、兄の背を追いかけてほしいという願いが、色濃く滲んでいた。

初めての実戦のゲートが開く。

武豊騎手は10番枠から飛び出した相棒を少し促し、2番手の外に導く。1000メートル通過は65秒6。新馬戦らしい慎重な流れだった。

残り400m。空気が張り詰め、レースは一変する。各馬が一斉にスパートを始め、一団となった馬群が加速する。武豊騎手はチラリと外を視認し、ニュービギニングにゴーサインを送る。

だがニュービギニングの反応は、ひと呼吸遅れた。なんとか逃げ馬に並びかけたところで、外から勢いをつけたサダムカアナパリに呑み込まれる。

――まだ、動ききれないか……

――兄のようにはいかないか……

ファンの溜息が漏れた残り200m。武豊騎手は左鞭を抜き、二度、三度と相棒を叱咤した。

瞬間、ニュービギニングはもう一段、後肢を深く踏み込み、前肢を伸ばし、身体を大きく前へと蹴り出す。一旦は完全に前に出られたサダムカアナパリとの差が、少しずつ縮まり始める。

「来た!ディープの弟が来た!!」

ファンの大きな声援が飛ぶ。残り100mで先頭を奪い返したニュービギニングは、最後の数完歩でライバルを突き放し、1馬身半差をつけて先頭でゴールを駆け抜けた。

競馬場が暖かい歓声に包まれた。

軽々と飛んだ2年前の兄とは、比べ物にならないかもしれない。

それでも、ニュービギニングは1頭の競走馬として、立派にその第一歩を踏み出した。


3週間後。12月24日。中山競馬場。有馬記念の日。

この日、競馬場にはディープインパクトのラストランを見届けようと多くのファンが詰めかけていた。

ディープの最後の衝撃が競馬場を揺らす2時間と少し前。第6レース、ホープフルステークスのパドックに、ニュービギニングは兄と同じ装いで姿を現した。

11月の未勝利戦をスケール感たっぷりに勝ち上がったクルサードを筆頭に、後のオープン馬や重賞馬たちが顔を揃えていた。

展開の後押しもあったデビュー戦のパフォーマンスはこの中では低調に思えたけれど、ニュービギニングには2番人気の支持が集まっていた。

本馬場を駆け抜けるニュービギニングに歓声が上がる。彼自身が持つ力以上の期待が、その双肩にかかっているように思えた。兄への餞として、多くが託されているように見えた。

ゲートをゆっくりと出たニュービギニングは、先行した新馬戦とは一転、最後方に構えた。先手を争うライバル達を見送り、初めて経験する速いペースに目を回さぬようにと、武豊騎手はニュービギニングのリズムを整えることに専念している。

ハナを奪ったニシノプライドにヒカルオオゾラとインパーフェクトがプレッシャーをかけたことで、レースは淀みのなく流れた。1000m通過58秒5のハイペースに馬群が大きく縦に伸びる。ニュービギニングは喧噪を避け、置かれすぎぬようにと時折促されながら、なんとか堪えて追走する。

4角。過酷なペースを刻んだ先行馬の脚が上がり始める。武豊騎手は大きく横に広がる馬群の一番外に進路を求め、ステッキを一発入れる。瞬間、ニュービギニングは身体を沈み込ませる。

「行け! ユタカ! 行け! ニュービギニング!!!」

ファンの歓声が交差する。馬群の一番外から、一頭だけまるで違うスピードでニュービギニングは駆けていく。一頭、また一頭とパスし、先頭に迫る。

その瞳が目指すのは先行するライバル達か。あるいはその遥か先を駆ける兄の背中か……

軽やかで楽しげなフォームに、ターフを沸かせた誰かの姿が重なる。

兄との距離は、生涯を賭けても埋まらないかもしれない。

それでもニュービギニングは一歩一歩、確かに地面を蹴り上げる。

その蹄音が、偉大な兄に挑む小さな鼓動のように響く。

「今日は少し、飛びましたね」

祝福の拍手に場内が包まれる中、名手は兄に準えたコメントを発した。それは、ファンが何より聞きたかった言葉だった。

彼は兄とは違う。けれど同じ血を分けた名馬なのだ。ディープの後継がこの馬だったら…そんな物語をファンは夢想した。

この日、ニュービギニングは兄と同じ馬運車で中山入りしたという。

馬運車の中で兄と何を話したのだろうか。

去り行く兄と、未来ある弟。優秀な兄と、兄の背を追いかける弟。

2頭の蹄跡は、その日、確かに交わっていた。

偉大な兄の前で、ニュービギニングはクラシックへの道を切り拓いた。

兄を見送り、弟は自らの物語として、クラシックの大海原へと漕ぎ出した。


――2011年2月26日。池江泰寿厩舎解散の日。

7歳を迎えたニュービギニングは阪神の準オープン、御堂筋ステークスに出走していた。

鞍上には3年ぶりの手綱となる武豊騎手。

あの栄光のホープフルステークスから4年と3ヶ月の月日が流れていた。

余勢を駆って臨んだ共同通信杯でフサイチホウオーに及ばず4着。すみれステークスと毎日杯を経て辿り着いた皐月賞も、15着と振るわなかった。大目標だった日本ダービーは、賞金が足りず舞台に立つことすら叶わなかった。

クラシックでの戦いを道半ばで終えたあと、彼は準オープンクラスで大きな休みもなく、長く長く戦い続けた。ホープフルステークスから歩むこと36戦。年齢とともに成績は下降線を辿ったが、後方から脚を伸ばし、時折ゴール前を賑わせた。

池江泰寿厩舎解散の日に、着外続きの同馬の手綱が武豊騎手に戻った。その背景に、偉大な兄の存在がなかったとは言えない。 結果は8着。奇跡は起こらなかったけれど、ニュービギニングはこの日も元気にターフを駆け抜けた。

その少し前、兄の産駒で同じ厩舎のダノンバラードが父ディープインパクトに初めての重賞タイトルをプレゼントしていた。

その調教パートナーを務めていたのはニュービギニングだった。厩舎の年長馬として、置かれた場所で、自らの役割を果たしていた。


ホープフルステークスのレース後、武豊騎手は「兄と比べるとかわいそうですが」と言葉を続けていた。陣営はきっと彼のことを誰よりも理解し、「まだまだこれから」と彼なりの道程で華を咲かせる日を信じて接し続けた。

競馬ファンもまた、早い段階で兄ほどの才能ではないことに気づいていた。

それでも大きなタイトルと縁はなかった彼のことを、今も多くのファンが覚えている。

おそらくは、残した戦績以上に、多くの名馬の弟妹以上に。

背負い続けた「ディープの弟」という看板は重荷だったかもしれない。それでも彼は一個の存在として、自らの脚で精一杯キャリアを重ねた。きっと少なくないファンが、兄の名を通じて、彼自身にもエールを送っていた。


彼のキャリアのハイライトとなったホープフルステークスは、公式な後継レースではないけれど、暮れの2歳の大一番として定着している。

新時代の担い手候補が覇を競う傍らで、私は今でもこの時期になると不意に彼のことを思い出す。

弟が見せた、新しい時代の幕開けを告げる小さな衝撃を。

ニュービギニング今、どこで何をしているのだろうか。

偉大な兄の名の下で、どんな思いですごしただろうか。

あの日、彼が見せた走りは、かけがえのない、彼自身の輝きだった

懸命に走り続けた6年間は、他ならぬ彼だけの、尊く誇るべき蹄跡だった。

名馬の弟や妹が、彼ら自身の道を歩む姿に、私はいつだって心を打たれ、勇気づけられる。

――自分だけの道を、一歩ずつ。

写真:しんや

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