[阪神大賞典]ナリタブライアンにディープインパクト…。武豊騎手が騎乗した阪神大賞典の勝ち馬を振り返る。

競馬の言葉に「馬七人三(うまななひとさん)」という言葉がある。
これは、競馬では馬の力だけじゃ決まるものではなく、鞍上の騎手の力も30%ほど影響するものであるという言葉である。

実際は、必ずしも「馬七人三」とは限らないだろう。特に長距離レースにもなれば、騎手の腕に左右される場面が多く見られる。事実、日本で最も長い芝平地重賞であるステイヤーズステークスは岡部幸雄元騎手が7勝、横山典弘騎手が6勝など、特定の騎手が大活躍している。

2022年で70回目を迎える、芝3000mの阪神大賞典。過去69回を振り返ると、武豊騎手の8勝が阪神大賞典における最多勝(2位は岩田康誠騎手の5勝)。そして武豊騎手が阪神大賞典で跨った馬には、記録にも記憶にも残るような名馬が多い。

今回は武豊騎手とのコンビで阪神大賞典を制した馬から3頭を振り返りたい。

※馬齢はすべて現在の表記に統一しています。

メジロマックイーン(1991年、1992年)

武豊騎手が初めて阪神大賞典を制したのは、1991年メジロマックイーンによる勝利であった。1987年にデビューして5年目、阪神大賞典における3回目の騎乗であった。

菊花賞や有馬記念を制したメジロデュレンの弟としてデビュー前から注目度の高かったメジロマックイーン。しかし、3歳(1990年)の2月にダート戦で行われたデビュー戦を勝ったものの、その後は500万下(現在の1勝クラス)で善戦しつつなかなか2勝目が挙げられなかった。2勝目は9月の函館競馬のダート戦。そこから連闘で臨んだ900万下(現在の2勝クラス)も制し、兄のメジロデュレンと同様、夏の上がり馬として注目を集めていった。

菊花賞の出走に向けては、菊花賞トライアルの京都新聞杯で5着以内に入ることが確実な道ではあった。ただし陣営は、兄と同様、菊花賞と同じ京都競馬場の芝3000mで行われる1500万下(現在の3勝クラス)の嵐山ステークスを選択。そこでメジロマックイーンは直線で進路を見つけることができず2着に敗退し、菊花賞の出走が危うくなってしまった。

幸いなことに賞金上位の馬から菊花賞を回避する馬が出て、出走にこぎつけたメジロマックイーン。ファンは、兄が菊花賞馬である事、同世代の馬で数少ない芝3000mの経験を持つ事などから、4番人気に支持した。レースでは、2周目の4コーナーで早めに先頭に並びかけ、ホワイトストーンやメジロライアンの追撃を振り切り優勝。騎乗した内田浩一騎手にとって、初のG1レース制覇となった。

9月の復帰以降、菊花賞までの2か月間で5回走った事もあり、有馬記念の出走は回避。4歳(1991年)春となり、内田騎手に替わってメジロマックイーンの背には武豊騎手が跨る事となった。そしてメジロマックイーンと武豊騎手とのコンビ初戦となったのが、1991年の阪神大賞典であった。

ちなみに、1991年の阪神大賞典は阪神競馬場改修工事に伴い中京競馬場で行われたが、現在のコースとは違い、第1コーナーに設けられたポケット地点からのスタートであり、改修前の中京競馬場のコーナーを7か所回る特異なコース条件となった。阪神大賞典は、1994年にも中京競馬場で行われたが、その際は中京競馬場のスタンド改修工事のため、芝2800mで行われた。

1番人気メジロマックイーンの単勝オッズは1.2倍と、圧倒的な支持。2番人気には鳴尾記念(当時は阪神競馬場芝2500mで施行)2着のゴーサインが6.3倍、3番人気には嵐山ステークスでメジロマックイーンを破ったミスターアダムスが8.0倍と続いた。

1周目の4コーナーに9頭が差し掛かる。ここでメジロマックイーンが前へ行こうとするが、武豊騎手はそれを宥める。そのまま武豊騎手が前に行く馬の直後にを付けると、メジロマックイーンようやく落ち着きを取り戻した。スローペースの中でレースは2周目の4コーナーを回り、最後の直線に入った。

スローペースで流れた分、瞬発力勝負となった。内からゴーサインが先頭に立つが、武豊騎手が軽く仕掛けたメジロマックイーンが更に加速する。離れた3番手にミスターアダムスが上がってくる。ゴーサインの南井克己騎手はステッキを振るう中、残り100mでようやく武豊騎手がステッキを1発入れるとゴーサインを突き放したのだった。終わってみればメジロマックイーンがゴーサインに1馬身1/4(0.2秒)差を付けてゴールイン。ゴーサインから2馬身1/2(0.4秒)差でミスターアダムスがゴールした。

武豊騎手との新コンビで結果を出したメジロマックイーン。次に向かったのは天皇賞・春であった。ここにはメジロマックイーンの同期で有馬記念2着のメジロライアン、菊花賞2着と有馬記念3着のホワイトストーンが出走。しかし、距離が長距離の3200mで行われるのであればメジロマックイーンに分がある。メジロマックイーン、メジロライアン、ホワイトストーンの3頭に単枠指定(特に人気が集中しそうな時、その馬を単枠=1枠1頭に指定する制度。1991年9月まで導入)にされたが、単勝オッズはメジロマックイーンが1.7倍に対し、メジロライアンは4.3倍、ホワイトストーンは4.6倍と差がついていた。

そしてレースは菊花賞のリプレイを見るようであった。道中7番手で追走したメジロマックイーンは4コーナーでは3番手に付け、直線では抜け出すと、2着のミスターアダムスに2馬身1/2(0.4秒)差を付けてゴールイン。祖父メジロアサマ(1970年の天皇賞・秋)、父メジロティターン(1982年の天皇賞・秋)に次ぐ史上初の親子三代に渡る天皇賞制覇となった。

宝塚記念では積極的な競馬をしたメジロライアンをとらえきれずに2着に終わったものの、秋初戦の京都大賞典を快勝したメジロマックイーン。ただし天皇賞・秋は先頭でゴールしたものの、他馬の進路を妨害した事で18着に降着してから、メジロマックイーンにとって良く無い流れが続く。ジャパンカップではゴールデンフェザントの4着に敗れ、有馬記念では先頭に立つもののゴール前でダイユウサクに差されてしまい2着に終わった。

4歳秋を消化不良のまま終えたメジロマックイーン。5歳(1992年)の初戦は前年と同様に阪神大賞典に照準を合わせる。激しい雨が降る中、阪神競馬場で行われた1992年の阪神大賞典は6頭が出走した。

レースは、これといった逃げ馬がいなく、加えて天気も悪かったため、前半1000mの通過タイムが66.0秒とスローペースで流れる。2周目の第4コーナーで2番手に付けたメジロマックイーンが直線で抜け出すと、2着のカミノクレッセに5馬身(0.8秒)差の大差をつけて先頭でゴールイン。1983年と1984年の阪神大賞典を制したシンブラウン以来2頭目となる阪神大賞典の連覇を果たした。

そして迎えた1992年の天皇賞・春。前年の皐月賞・日本ダービーを制し、産経大阪杯を制したトウカイテイオーとの「世紀の対決」を迎え、普段は競馬を取り扱わないメディアからも注目を浴びた一戦。しかし、3200mの舞台でメジロマックイーンは再び輝いた。直線でトウカイテイオーが後退する中(トウカイテイオーは5着)、メジロマックイーンが快勝、史上初となる天皇賞・春連覇を達成した。また、武豊騎手にとっては1989年イナリワンとの勝利を皮切りとした天皇賞・春4連覇という記録を達成した瞬間でもあった。

次走の宝塚記念に向けた調教中に骨折したメジロマックイーン。6歳(1993年)は産経大阪杯で復帰し快勝する。3連覇が掛かった天皇賞・春はライスシャワーの2着に敗れたが、宝塚記念でG1レース4勝目を挙げた。京都大賞典を制したものの、天皇賞・秋に向けての調教で繋靱帯炎を発症し引退した。

メジロマックイーンは、史上初となる獲得賞金10億円を突破した名馬でもある。引退後は種牡馬となり、クイーンカップを制したエイダイクインをはじめ牝馬の活躍馬を送り出した。また、父ステイゴールド、母の父メジロマックイーンの配合からは有馬記念を制したドリームジャーニー、牡馬クラシック三冠を達成したオルフェーヴル、宝塚記念を連覇したゴールドシップといった名馬の母父として血統表に名を残している。

ナリタブライアン(1995年、1996年)

阪神大賞典が現在の春開催に移行した1987年以降、阪神大賞典は日曜日に行われる重賞レースである。ところが、1996年の阪神大賞典は3月9日の土曜日に行われた。そしてその阪神大賞典は、20世紀の日本競馬史に残る名勝負となった。

実況したKBS京都(京都放送)の宮本英樹アナウンサーが「スーパーサタデーとでも言うでしょうか」と言ったほど、阪神競馬場には多くの競馬ファンが駆け付けた。JRA発表によると、土曜日にしては異例の5万9千人が阪神大賞典のスタートを待ったのである。それもそのはず、この年の阪神大賞典は豪華メンバーが揃っていた。芝3000mの日本レコードを持つノーザンポラリス、前年の菊花賞2着馬トウカイパレス、さらにこの年の日経新春杯を制したハギノリアルキングなどが出走していたが、注目は2頭に絞られた。

1頭目は1994年の牡馬クラシック三冠を達成したナリタブライアンである。

牡馬クラシック三冠を圧倒的な強さを見せ、1994年の有馬記念でもヒシアマゾンやライスシャワーなどの強豪に圧勝。年が明け1995年の阪神大賞典も圧勝し、シンボリルドルフが記録したG1レース7勝を更新するのも時間の問題とまで言われていた。

だが阪神大賞典を制したのち、天皇賞・春を目指す途中で関節炎を発症してしまう。天皇賞・春をはじめとした春のG1シリーズを休養したナリタブライアンは秋に復活を目指していたものの、天皇賞・秋を2週間前に、ナリタブライアンに騎乗していた南井克己騎手が負傷してしまう。急遽、的場均騎手とのコンビで挑んだ天皇賞・秋は12着と大敗。武豊騎手とのコンビで挑んだジャパンカップと有馬記念では6着、4着に終わり、1年前に見せた圧倒的なパフォーマンスとは別馬のような戦績となってします。的場騎手や武豊騎手にしろ、レース後「途中まではいい感じだったが、直線で止まってしまった」とコメントしていたように、本気で走ることが難しい馬になっていたのかもしれない。そんな状況下で迎えた1996年シーズン。春の初戦は、武豊騎手とのコンビ継続での阪神大賞典だった。

そしてもう1頭は、1995年の有馬記念と菊花賞を制した4歳馬マヤノトップガンである。

3歳だった1995年には春の日本ダービーや皐月賞に出走できなかったが、夏以降に力を付けたマヤノトップガン。神戸新聞杯、京都新聞杯(当時は菊花賞トライアル)を2着で優先出走権を獲得すると、菊花賞を京都競馬場芝3000mのコースレコードで制した。

菊花賞を制したものの、有馬記念では6番人気と、どちらかといえば伏兵的な評価に収まる。有馬記念に向けて馬の状態を見極めての出走で体調面が絶好調でなかった事、重賞制覇は菊花賞のみだった事などから、ナリタブライアンにヒシアマゾン、それにサクラチトセオーなどの強豪が揃った中で通用するのか疑問符がついたのだろう。

スタート直後に先頭に立つと、騎乗した田原成貴騎手はそのまま逃げる戦法を選択する。そしてスローペースに落とすと、他の馬の追撃を振り切っての逃げ切り勝ち。菊花賞と有馬記念の勝利で1995年の年度代表馬ならびに最優秀4歳牡馬(現在の最優秀3歳牡馬)に輝いた。そんな長距離戦で実績を残してきたマヤノトップガンの1996年シーズン初戦も、阪神大賞典となったのである。

迎えたレース当日。単勝オッズの1番人気はマヤノトップガンの2.0倍、2番人気はナリタブライアンの2.1倍。3番人気に支持されたハギノリアルキングが9.2倍と、「マヤノトップガンVSナリタブライアン」の構図となった。

レースが動いたのは2周目の第3コーナー付近だった。最初の1000m通過タイムが63.0秒、2000mの通過タイムが2分7秒1とペースが上がらないなか、マヤノトップガンが先に動いた。マヤノトップガンは瞬発力勝負より持久力勝負に長けているため、得意のロングスパートで勝負に出たのである。ターフビジョンに映し出されたマヤノトップガンの姿に、阪神競馬場のファンが大歓声をあげた。

残り800mを通過。マヤノトップガンの仕掛けに反応したのはノーザンポラリスとナリタブライアンだった。特に武豊騎手の手綱は動かずにマヤノトップガンに付いていくナリタブライアンの姿がターフビジョンに姿が映し出されると、阪神競馬場のファンのあげる歓声はさらに大きくなる。

そして残り600mを通過。マヤノトップガンとナリタブライアンが鼻面を併せて先頭に並ぶ。ファンの歓声に実況の宮本アナウンサーも「阪神競馬場はボルテージが最高に上がって来た」と興奮気味に実況。スタミナ勝負に長けていたノーザンポラリスですら、マヤノトップガンとナリタブライアンには付いてこられない。レースはマヤノトップガンとナリタブライアンのマッチレースとなり、残りは高低差1.8mの坂がある直線での攻防であった。

ノーザンポラリス以下8頭を大きく引き離して、内にマヤノトップガン、外にナリタブライアンが馬体を併せて追い比べに入る。残り200mの標識を過ぎると、マヤノトップガンがクビ一つ抜け出すところ、必死になってナリタブライアンが迫って、再び並ぶ。しかし、マヤノトップガンが再び残り100m地点でクビ一つリードした。ナリタブライアンもここまでか──と感じた、次の瞬間。

ナリタブライアンが、再び闘志を見せた。

武豊騎手が必死になって追うと、ナリタブライアンが再度加速し、マヤノトップガンに並んだのである。そして、ゴール板手前でナリタブライアンが僅かに出たところがゴールとなった。着差はアタマ(0.0秒)差であった。

一時期の圧倒的な強さは見られなかったものの、前年の年度代表馬に輝いた馬とのデッドヒートを制したナリタブライアン。メジロマックイーンに続き、史上3頭目の阪神大賞典連覇となった。復活した主役を迎えようと、ウィナーズサークルは多くのファンが押し寄せた。

もっとも、当の武豊騎手は「あの馬の全盛期はあんなものではなかった」と後日コメントしたように、他の馬を圧倒する強いナリタブライアンの姿は見られなかった。ただ、多くのファンは前年秋のレースで馬群に沈むナリタブライアンの姿を見ていたので、復権への狼煙を上げる勝利であった。南井騎手が怪我から復帰する日も、近づいていた。

前哨戦の阪神大賞典でのレースぶりを見て、次の天皇賞・春は「ナリタブライアンVSマヤノトップガン」の2強構図が描かれた。だが、今度はナリタブライアンが単勝オッズ1番人気(1.7倍)に支持され、マヤノトップガンは単勝オッズが2.8倍の2番人気と人気が逆転した。

レースは再び前を行くマヤノトップガンにナリタブライアンが並ぶという展開になった。しかし、最後の直線でマヤノトップガンが後退。ナリタブライアンが復活のG1レース勝利となると思った次の瞬間、2頭の争いを見ていたサクラローレルがナリタブライアンを交わして先頭に立ちゴールイン。ナリタブライアンは2着、マヤノトップガンは5着に終わった。

ナリタブライアンはその後、芝1200mのG1レースになったばかりの高松宮杯(現在の高松宮記念)に再び武豊騎手とのコンビで出走し、4着でゴール。その後、競走馬にとって致命的な病である屈腱炎を発生し引退となった。引退後は種牡馬になったものの、僅か2世代しか子供を残せずに1998年に急逝。僅か2世代の子供からは、札幌2歳ステークス2着のマイネヴィータや毎日杯2着のダイタクフラッグらが活躍した。

ディープインパクト(2006年)

三冠や牝馬三冠の達成後、古馬との対戦を迎えて戦法を変える馬がいる。例えば、アーモンドアイ。秋華賞までのアーモンドアイは後方から追い込む競馬で牝馬三冠を達成したが、3歳のジャパンカップでは2,3番手と早めに先行して抜け出す競馬を見せ、2分20秒6という驚異的なタイムで制した。その後のアーモンドアイが勝ったレースを見ても、牝馬三冠の時とは異なり、先行して抜け出す競馬が多かったように思う。

ディープインパクトという馬のキャリアを振り返ると、やはり3歳時のディープインパクトは最後の直線で豪快に追い込む競馬が多い印象がある。それが4歳になると、武豊騎手がディープインパクトの思うがままにレースをするようになっていったように感じる。ディープインパクト絡みの馬券を買ったファンからは「こんなところからスパートして、大丈夫かよ」というレースが多かったのではないだろうか。

そんなディープインパクトの新境地を見せたレースが、2006年の阪神大賞典である。

3歳(2005年)の有馬記念で初めて敗れたディープインパクトであったが、牡馬クラシック三冠を達成した実績を踏まえ、2005年の年度代表馬ならびに最優秀3歳牡馬に輝いた。2006年1月に行われたJRA賞受賞式で金子真人オーナーは夏場に海外遠征を行う意向を示す。そして2月になり、池江泰郎調教師が春は阪神大賞典から天皇賞・春へ向かい、天皇賞・春の後にイギリスのキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス(以下キングジョージと略)かフランスの凱旋門賞のどちらかに出走する事が発表された。まずは国内の4歳以上古馬戦線に挑みそこから海外へ、というプランであった。

阪神大賞典で、ディープインパクトにはいくつかの課題があった。

一つ目は初めて背負う58Kgというハンデ。442Kg(阪神大賞典でのディープインパクトの馬体重)と小柄のディープインパクトには58Kgのハンデがどう影響するのか。ここで不甲斐ない結果を残したら、同じ58Kgのハンデで挑む天皇賞・春やそれ以上のハンデを背負うキングジョージや凱旋門賞に向けての不安点が出てくる。

二つ目は初めて挑む、稍重馬場でのレースである。これまで良馬場で行われたレースでしか走った事のないディープインパクト。阪神競馬場の稍重馬場で苦しむようであれば、芝がもっと深く、タフなコンディションで挑むアスコット競馬場のキングジョージやロンシャン競馬場の凱旋門賞では惨敗も見えてくる。

その他にも直線で吹き付ける強い向かい風、菊花賞で見せた武豊騎手との折り合いの悪さを懸念する声、更に直前の調教でラスト200mのタイムが掛かり、新聞には「ディープインパクト 不安」の文字が躍ったが、ファンはディープインパクトを単勝オッズ1.1倍の圧倒的な支持で迎えた。そして約3万3千人のファンの前でディープインパクトは、更なる進化を見せたのである。

1周目の第4コーナーを回るときにディープインパクトが行きたがる素振りを見せ、武豊騎手が宥めながらレースを進めた。バックストレッチに差し掛かると、先頭を行くトウカイトリックがバックストレッチに吹く追い風を利し、2番手のインティライミに10馬身近い差を付けた。ディープインパクトはトウカイトリックから20馬身近く離された後方6番手でレースを進める。

2周目の第3コーナーに差し掛かり、阪神競馬場のファンから歓声が上がった。トウカイトリックの大逃げではなく、後方から一気に上がっていくディープインパクトの姿である。前を行く馬を交わし進出してきた。3番手を追走していたデルタブルースの手綱は押しているのに対し、武豊騎手の手綱は持ったままで、馬なりでスッと上がっていくディープインパクトは4コーナーでは前を行くトウカイトリックを交わし先頭に立った。

阪神競馬場の最後の直線は向かい風が吹いていた。加えて、最後には坂がある。デビュー戦や神戸新聞杯で阪神競馬場の坂を経験しているが、今回は3000mのレースである。3コーナーからのロングスパートで馬が疲れてしまう恐れもあるのではないかの不安もあった。

しかし、最後の直線では武豊騎手が肩鞭を放つと、更に加速したディープインパクトはトウカイトリック以下を5馬身近く引き離す。ゴール前100m地点では武豊騎手が追うのを止めて、全力疾走を止めたディープインパクトだったが、2着のトウカイトリックには3馬身半(0.6秒)差を付けてのゴールイン。最後の直線が強い向かい風が吹き、レースの上がり3ハロン(ラスト600m)のタイムが37.5秒と要したが、ディープインパクトはラスト600mを36.8秒と圧倒的なタイムで駆け抜けた。

後日、武豊騎手がディープインパクトの強さを感じたレースの1つとして、この阪神大賞典を挙げている。この日の阪神競馬場に吹き付けた風で、ほとんどの馬がまともに走れない状況で、最後の直線では伸びない馬もいた。そして、上位に来たトウカイトリックやデルタブルースは3000m以上の距離を得意としている馬を相手に楽勝したディープインパクトに対し、欧州の芝がどうなのかとかを語るレベルの馬でない、と思ったとの事であった。

向かい風で行われた阪神大賞典を制したディープインパクト。続く天皇賞・春では京都競馬場の第3コーナーの坂の手前、距離に換算すると残り1000m地点からロングスパートを開始。ゆっくりと下ることがセオリーとされる坂の下りでもロングスパートを続けたディープインパクトは2着のリンカーンに3馬身半(0.6秒)差を付ける圧勝。しかも、上がり3ハロンのタイムが33.5秒と驚異的な脚で3200mを駆け抜けた。宝塚記念でG1レース5勝目を挙げたディープインパクト。金子オーナーや池江調教師が告知した欧州遠征は日本ホースマンの憧れのレースである凱旋門賞に進む事となった。その凱旋門賞では3位入線(その後、禁止薬物が検出され失格)に終わり、日本の競馬ファンに凱旋門賞の重みを痛感させた。

日本に帰国したディープインパクトはその後ジャパンカップと有馬記念を制し引退。2019年に亡くなるまでの間、数多くの子供を送り出した。2017年にはサトノダイヤモンドがディープインパクト産駒として初めて阪神大賞典を制し、親子による阪神大賞典制覇を達成したのである。

写真:Horse Memorys、かず

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