向正面でゲートが開くとスタンドの空気が一変した。確かな密度があって、息が詰まりそうなほどだった。最初の障害が近づくにつれて、ひとかたまりの大きな祈りに包まれているのだと察知した。どこかの国の荘厳な教会みたいに人びとは一心に全馬の無事を祈っていた。馬たちが最初の障害を飛越した一瞬、それが不意に緩んだ。どっと拍手がわいた。
そしてまた祈りは形を取り戻し、再び観衆の肩をこわばらせる。
これが中山大障害だ。とりわけ今日は障害GⅠ・9勝を打ち立てた王者・オジュウチョウサンの引退レースなだけに、いつもよりもずっと多くの人々が集まり、押し黙ってレースを見ている。
最初のスタンド前に差し掛かる頃には、先頭から最後方まですっかり緩やかなペースに落ち着く。4100mの長丁場だから、なるべく余力を残しておかなくてはいけない。次々出てくる障害を軽やかに飛び越える。丹念な訓練や熟練の騎手の技によってなされることではあるが、どこか本能で飛び越えているようにもみえる。まるで子どもたちが道路の白線のみを駆けていくみたいに。
でも、障害レースを走る馬たちの白線が、踏み外したら戻れないほどの危ういものと自覚したのはいつからだろう。
この7年、オジュウチョウサンは障害界の頂点に君臨し続けた。そして、さまざまな馬たちが王者に挑んできた。そのうちの一頭がシングンマイケルだ。シングンマイケルは、王者が平地出走直後で不在だった2019年の中山大障害を制していた。シングンマイケルならいつか、オジュウチョウサンを打ち負かせるかもしれない。
でもそれは叶わなかった。翌年の春、王者との対決となった中山グランドジャンプ。大雨の険しいレースだった。最後の障害、シングンマイケルは転倒して亡くなった。
レースの後、雨が嘘のように止んだ。そのことが余計に憎らしかった。もしこの晴天で走っていれば、運命は変わっていただろうか。生きて帰ってこられただろうか。すると中山のコースから天に向かって虹が伸びた。シングンマイケルを育てた師が少し前に亡くなったことを思い出す。「あの橋をわたって、マイケルは高市先生に会うのだろう」と言い聞かせるしかできなかった。
観衆はどこまでも無力だった。
そんなふうに、彼らの生きる世界のことを少しずつ知ってきた。たくましく障害を飛び越える馬たちを前に、死と隣り合わせだなんて軽はずみには言えない。でもそういうところで戦っていることは確かだ。レースの度に全馬が生きて帰ることへの祈りに押しつぶされそうになる。最後までこわばりながら見続けるのも苦しいもので、われわれは無意識に一瞬の解放を探してしまう。ひとつひとつの障害を超えるたびに起こる拍手は、そういう緊張からの刹那の解放のようにも思う。
障害レースは進行方向がめくるめく変わり、ドラマティックに場面が移りゆく。飛越の瞬間、よどみなく内目をとりつくオジュウチョウサンと石神騎手がいた。次に待ち構えるコーナーをなるべくシャープに曲がるための戦法だ。優れた指揮官の巧みな展開作りに安心する。
こんなふうに卓越した人馬の頂点を決めるのが中山大障害だ。中山大障害がいかに特別かを、トップジャンパーたちはここ数年身をもって、われわれに確かめさせてきた。
そしてこれほどの前途多難なレースを、オジュウチョウサンは3度も制覇している。
オジュウチョウサンは先頭から少し離れたところで先ゆく馬を見届けている。2番手のニシノデイジーが向正面で果敢に先頭に立ち、続く馬も加速を始める。その勢いから少しずつ終幕に近づいていることを知る。その中でオジュウチョウサンもまた、最後のラストスパートを仕掛ける。
われわれは何度も、終盤でオジュウチョウサンが先頭を射程圏内に入れるのを見てきた。いつのことだろう。ずっとオジュウチョウサンは強かったから咄嗟に浮かばないほど。でも確かに何度も目撃してきたのだ。たとえば前王者アップトゥデイトとの決戦。後続が見えなくなるほどのアップトゥデイトの勇敢な大逃げに、みるみるうちに迫っていった。あの日のオジュウチョウサン、無慈悲すぎるほどの強さがあった。
最終コーナーに馬群が近づくと、どこからともなくオジュウチョウサンの名を呼ぶ声が次々あがってきた。
オジュウ、がんばれ。いけ。オジュウ。オジュウ。
声をあげればあの日を呼び戻せるのではないか。もう一度あの強さを見られるのではないか。みんな、そんな思いですがっているように思えた。
しかし石神騎手が懸命にオジュウチョウサンにステッキを入れる一方で、先頭のニシノデイジーが勢いを緩めことなく遠ざかっていく。次第に歓声は先頭のニシノデイジーの名を呼ぶ声も、明日でステッキを置く植野騎手の名前もまじって、もみくちゃになる。
最後の直線を前に、われわれはいつかの「あの日」とは違うのだとゆっくりと受け止めた。2022年の中山大障害では、新しいスターが誕生しようとしている。数秒のことだが、とても長い時間のようにも思えた。オジュウチョウサンがもう先頭には届かないことを、ありありと自覚した。
ニシノデイジーが一番にゴールラインを越える。歓声は新星の誕生を祝福する。ニシノデイジーはかつては日本ダービーにも出た馬だった。長く勝ち星から遠ざかり、今年になってから障害に歩を進めて才能を開花。たった4戦でスターダムにのし上がった。
オジュウチョウサンは6着で最後のレースを終えた。でも、無事に走り切った。
走り続けるオジュウチョウサンを見るたびに、勝利への希望と命の安全を振り子のようにいったりきたりして、曖昧なバランスは彼が歳を重ねるにつれて消極的な方に偏ることもあった。でも懸命に今を戦い続けるオジュウチョウサンと石神騎手、そして大事に育ててきたスタッフを悲しませるようなことだけは考えたくなかった。でも単に王者の勝利をと叫ぶこともまた、何かを見ないふりをしているようでおぼつかなかった。
それでも生命力たっぷりに飛越を続けるオジュウチョウサンを前にすると、逡巡は吹き飛ばされ、最後にはいつも勝利を願って声を枯らすばかりだった。
それも今日で最後だ。これから先、彼があの白線をひた走ることもない。今までのように、ひとつひとつの飛越に振り子の緊張を重ねることもない。今日、ちゃんと送り出せたような気がして、ふっと安堵に満たされた。次第に肩の力が抜けて、引退式を迎える頃には、オジュウチョウサンのいた時代を見届けた自負すら沸き始めた。
でも、オジュウチョウサンにとってこの解放は一瞬のものかもしれない。これから先、熾烈な種牡馬争いが待ち構えている。オジュウチョウサン自身と馬を生み育てる人々のみの戦いに身を投じることになる。優れた雄馬のみが知る孤独な争いだ。
でも、引退式でのオジュウチョウサンはそれを案じるでもなく、いつもみたいに活力に満ちていた。父のように眼光鋭くしてみたかと思えば、不意に立ち止まって、観衆を仰ぎみた。オジュウチョウサンは賢いから、自分がどういう状況にあるかわかっているような気もする。そんなふうに人間味みたいなものを見出しては、微笑ましく思った。そして彼はきっとこれからも、たくましく生きていくだろうと確信した。
今日のところはさようならだけど、やっぱりわれわれはこれからも、オジュウの無事の帰還を静かに祈り続けることになりそうだ。数年後彼は父の名でターフに戻る。その時がきたらきっと、彼の強さと「無事に帰ってこい」と願った日々を、重ね続けたおかえりなさいを思い出しては何度も胸を熱くするに違いないのだ。
写真:手塚 瞳