![[連載・片目のサラブレッド福ちゃんのPERFECT DAYS]自分を信じ続けることができるか(シーズン1-35)](https://uma-furi.com/wp-content/uploads/2025/02/IMG_0713-scaled.jpg)
これ以上、傷口を広げない、生きて下山することを意識し始めたとき、繁殖牝馬を売るという考えも浮かびました。ダートムーアとスパツィアーレを繁殖牝馬セールに出すということです。どちらも現在、お腹に子どもを宿していますので、購買者としては買いやすいはず。2頭とも売りに出すという選択肢もありますし、一方を残して一方を出すこともできます。売るというと語弊があるならば、誰かに譲るという言葉に置き換えても良いかもしれません。いずれにせよ、甲斐性がないばかりに、抱えきれなくなって手放すという事実に変わりはありませんが、言葉が違うと、残酷な事実が少し和らぐのではないでしょうか。
どちらを譲るか? と考えたとき、ダートムーアの方ではないかと考える自分がいます。ダートムーアは今年16歳と高齢であり、繁殖牝馬として売れる最後のタイミングかもしれないからです。来年になって17歳になってしまうと、買う側としては躊躇してしまう可能性は高い。20歳までにあと何頭子どもを取れるかと考えると、生産者にとって16歳と17歳の差は大きいのではないかと思います。
ダートムーアには福ちゃんという後継者がいるのも理由のひとつです。その能力は未知ですが、繁殖牝馬として碧雲牧場に戻ってくるのはほぼ確定しています。これは考えたくないのですが、もしかするとダートムーアの23も売れずに僕が走らせて、繁殖牝馬になるかもしれません。ダートムーアが牝馬をたくさん産んでくれたおかげで、血を継ぐ馬たちはたくさんいるのです。
しかも今年、ダートムーアはダノンレジェンドの仔を受胎していますので、僕が買う立場だったとしても魅力的に映ります。ダノンレジェンド×ダートムーアの牡馬が生まれたら、いかにもダートで走りそうですよね。大げさかもしれませんが、競走馬として活躍したら、ゆくゆくは種牡馬になる可能性もある血統背景です。もし牝馬が生まれてきたとしても、ダノンレジェンド産駒の牝馬の勝ち上がり率は異常に高いので、競走馬として活躍しつつ、繁殖牝馬としての期待も十分に持てます。自分が欲しいものを売るという商売の原則に照らし合わせると、買いたい人はたくさんいるでしょう。そういう意味でも、ダートムーアを売りに出すとすれば今年がチャンスです。
もちろん、福ちゃんのお母さんが碧雲牧場からいなくなってしまうのは寂しい限りです。この秋には離乳をして、ダートムーアと福ちゃんは離れ離れになってしまうので、もう二度と会うことはないかもしれませんし、もし再会したとしてもお互いに覚えている可能性は低いのですが、それでも福ちゃんにとっても母ダートムーアが碧雲牧場にいるのといないのでは大きな違いがあるはずです。僕にとっても、ダートムーアは初めて所有した繁殖牝馬であり、この幸福で苛酷な物語は彼女から始まったのです。今でも僕の机の前には、Dartmoorと銘打たれた無口が飾ってあります。

ジェイエス繁殖馬セールに上場するとすれば、8月19日が締め切りです。サマーセールが行われる前に申し込みをしなければならないのです。スパツィアーレの23がいくらで売れるのか(もしくは売れるのか売れないのか)さえ分からない時点で、ダートムーアをどうするべきかの判断をしなければいけません。これは単にお金の問題です。もしお金が無限にあるのであれば、ダートムーアを誰かに譲る必要はなく、一生養い続けることができます。でもそれが空絵事に過ぎないことを肌で感じ始めている今、愛情と割り切りのバランスを欠いたひとつの判断が、生死を分けてしまうことになりかねない危機感を覚えて仕方ありません。
この頃の僕は、追い詰められていました。2頭の繁殖牝馬を買って、3年間待ち続けた挙句、1頭も健康な状態でセリに上場できていないのですから当然です。何をやっても上手く行かないと自信を失い、常に最悪の事態を想像してしまうようになりました。もしかすると、僕はネギを背負って生産の世界に入ってきた美味しい鴨なのかもしれない、と疑心暗鬼にもなってしまうのです。これ以上傷を負わないように、全てを売り払って、何もなかったあの頃に戻って出直そうと思い始めていました。
頼みの綱は、慈さんがコンサイニングをしてくれているスパツィアーレの23です。彼は雄大な馬格を誇っていますし、何と言っても牡馬ですから、家を出て稼いでくれるでしょう。まさかお前までレポジトリの写真を撮ったら怪我をしていて…なんてことないよな? それじゃあ、まるで引きこもりじゃないか。高校を中退して、この1年半をずっと自宅で過ごしている我が息子と重なってしまい、僕は背筋が凍りました(笑)。次はどんな悪い事態が起こるのかと身構えてしまうほど、全てのことに悲観的になってしまっていたのです。

そんな僕に追い打ちをかけるように、慈さんからLINEが入っていました。月に1度の川崎競馬のパドック解説の日でした。解説中は携帯電話の電源を切っていますので、ちょうどそのときに連絡をくれたのでしょう。何かなければ基本的に慈さんから連絡が来ることはありません。僕が電話に出ないのでLINEを入れておいてくれたのです。
嫌な予感がして、休憩時間中にチラッと内容を見てみると、「お疲れさまです。お忙しいところ申し訳ありませんが、手が空いたときで大丈夫ですので電話をいただけたらと思います」と書いてあります。僕はスパツィアーレの23のレポジトリのことだと直感しました。まさにレントゲン写真の結果が出るタイミングだからです。「今、川崎競馬のパドック解説をしていますので、終わり次第、電話しますね」と返して、携帯の電源を切りました。
この日はパドック解説の調子も優れず、当たったり外れたり、当たっても人気どころの決着ばかりという、重苦しい状況でした。スパツィアーレの23のことがあったからではありませんが、この日のメインレースにて、事前に注目していた馬を推奨馬に入れるかどうか迷った挙句に切ってしまい、その馬が2着になるという(僕にしか分からない)大失態を犯してしまいました。
僕は全ての出走馬の前走パドックをチェックしてから臨むようにしており(当日のパドックはじっくり観られる時間がないので)、そこで馬体や雰囲気の良い馬はあらかじめ〇や△▲などの印を打っておくようにしています。前走パドックを見て、ある程度の絞り込みをかけ、その日のパドックに臨んでいるということです。
試行錯誤を経てたどり着いたこの方法には意外なメリットがあり、それは冷静で客観的な判断ができることです。当日のパドックだけを見ると、どうしても僕たちは複雑な感情に振り回されてしまい、大して良くないものが良く見えてしまったり、悪くないものが悪く見えたりすることになります。事前にチェックしているときは、当たり外れやオッズ(人気)などは気にしていないので、主観的になってしまうのを防ぐことができます。良いものは良い、悪いものは悪いと、比較的フラットな視点で判断することができるのです。
当然ながら、前走から馬体や雰囲気が変わってくる馬がいるので(ほとんどの馬は前走のパドックと今回のパドックはほとんど変わりませんが)、その変化に応じて評価の上げ下げは必要ですが、当日の感情的な判断よりも、事前の理性的なそれの方が正しい確率が高いのです。
ただこの日は序盤から、あらかじめ印をつけていた馬が好走しておらず、それもあって僕の中で自身の事前評価に対する信頼が下がっていたのだと思います。メインレースで僕が事前に印をつけていたのは、5番と13番と14番の3頭でした。特に13番は馬格も十分で、仕上がりも良く、落ち着きのある様子で前走のパドックを歩けていたので、好走しそうな雰囲気があったので〇をつけていました。
事前に〇をつけていた馬は当日も1番手に推奨するか、推奨順を下げたとしても、推奨馬に入れないことは一度もなかったと記憶しています。ところがなぜかこの日のメインレースは、他に良く見えた馬が多かったのもあり、まさかの推奨馬5頭から11番を外してしまったのです。事前には落ち着いているのが良く映ったのに、当日は落ち着きすぎていると思ってしまったのでしょうか。
結果は14番(4番人気)が勝ち、13番(7番人気)は2着に粘り込み、5番(1番人気)が3着に差してきました。何と僕が事前に印をつけていた3頭でワンツースリー決着。3連単は96,670円もついたのです。こういう大きな配当を当てるためにパドック解説を担当させてもらっているのに、事前に〇印を付けていた馬がまさかの抜けになってしまったのです。
僕の悪い癖が出てしまいました。長い目で見れば、事前の作戦(戦略)どおりに遂行すれば結果は良いことが分かっているのに、目の前の現象にどうしても心を左右され、目先の結果を求めて判断をコロコロ変えてしまうのです。上手く行かなくても予定どおり行動していれば結果的には良いのですが、途中で予定を勝手に変更して、全てがダメになってしまうのです。長期戦のギャンブルをやると、こうした自分の弱さが身に染みて分かります。上手く行かないときこそ、グッと我慢して、最後まで自らのスタイルや考えを貫く必要があるのです。
そう考えると、ダートムーアの23が主取りになっただけで、生産事業を縮小したり、撤退を考えてしまうのは、僕の悪い癖なのかもしれません。ちょっと予定どおりに行かなかっただけで、弱気の虫がうずいてしまい、守りに入ってしまうのです。ただ僕たちには未来が見えませんので、このまま攻めてしまって、破滅の道を辿ることに恐怖を感じてしまいます。未来が分からないからこそ、僕たちは迷い、結果的に判断を誤ってしまうのでしょう。当たり前のことを言っているようですが、僕にとって見えない未来に向かって強気に突き進むことは永遠の課題です。競馬が行われる当日のたった12レースの間ですら、自分の進む道を信じきれないのですから、年単位の長期にわたる生産事業において、目の前の現象に左右されることなく、自分の幸運を信じ続けることができるのでしょうか。僕は試されているのですね。
(次回へ続く→)

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