![[連載・片目のサラブレッド福ちゃんのPERFECT DAYS]僕たちが手がけているのは命のある生き物(シーズン1-37)](https://uma-furi.com/wp-content/uploads/2025/03/2025030903.jpg)
川崎競馬のパドック解説を終え、入場門の外に出ると、僕は真っ先に慈さんに電話をかけました。もう遅い時間だから寝ているかもと心配しましたが、慈さんは日高の生産者たちとの飲み会がちょうど終わったところだったようで、あっさりと電話に出てくれました。
「スパツィアーレの23のレポジトリの結果が今日出ましたので」と慈さんが切り出してきましたので、また何か悪い箇所があったのだろうと思いつつ、できれば軽傷であってもらいたいと願いながら聞いていると、「獣医師さんにざっと見てもらったところ、問題ないようです」とのこと。さらに「喉も全く問題ありませんね」と付け加えてくれました。全てのことに疑心暗鬼になっている僕は、何もないことはないだろう、何かあるはずだという疑念が払しょくできず、「何もないのも逆に気持ち悪いですね」と変な返しをしてしまいましたが、本当のところは心の底から安心しました。「便りがないのは良い知らせ」と昔、うちのおばあちゃんが良く言っていましたが、生産においては「何もないのは良い知らせ」ですね。
スパツィアーレの23の立ち写真と動画はどうしましょう? という話になりました。碧雲牧場で昔から撮影してもらっているカメラマンさんは忙しそうなので、最近出てきたノードネットワークスという会社に依頼してみてはと提案されました。立ち写真(横からと前後ろからの3枚)で3万円、動画が2万円の計5万円だそうです。一般の人たちが聞いたら高いと感じるかもしれませんが、スパツィアーレの23にとっては初めての晴れ舞台ですから、できる限りのことはしてあげたいと思うものです。人間でいうところの七五三みたいなものでしょうか。写真館で撮ってもらったり、出張カメラマンに来てもらったりして、数万円はかかりますよね。
ノードネットワークスさんに写真と動画のセットをお願いすることにしました。セリの登録料からレポジトリのレントゲン撮影代、さらに立ち写真や動画の撮影費など、セリに出るまでには決して安くはない費用が細かく発生するのです。だからこそ少しでも高く売りたい、主取りになったら最悪だと思う生産者の懐事情が良く分かります。
2、3日後、スパツィアーレの23の写真と動画を録り終わったと、慈さんから連絡がありました。さっそく見てみると、1か月前に撮影した写真と打って変わって、馬体全体にメリハリがついてきているのが手に取るように分かります。光の加減も背景も完璧です(背景は芝の緑色が僕の好みです)。動画もトモから背中、前躯そして首、頭までパワーがしっかりと連動するバイタルウォークができていて素晴らしい。写真や動画の出来がどの程度、売却額につながるのか分かりませんが、僕にやれることはやったという気持ちで一杯です。さらに獣医師からレポジトリに問題なしとの正式な報告もあったようです。上手く行くときは何もかも上手く行くものですね。
サマーセールこそは胸を張って臨めそうです。スパツィアーレの23の出番は3日目の遅い時間帯になりそうなので、その日は碧雲牧場にもう1泊させてもらい、ささやかながらも祝勝会をした翌日に東京に戻ろうと企て、飛行機のチケットを取りました。
少し希望が出てきたこともあり、この頃になると、ダートムーアを売るべきかという迷いは薄らいでいました。もともとダートムーアを売りたくないという心情があり、スパツィアーレの23が高く売れるかもしれないという皮算用をあてにした、ある意味、現実逃避だったのかもしれません。結局、ダートムーアを繁殖馬セールへ申し込むことはしませんでした。いや、やはり僕はダートムーアとダノンレジェンドの仔をこの目で見てみたいという想いが強かったのではないでしょうか。福ちゃんの弟か妹か分かりませんが、元気なとねっ子をこの手で抱きしめてみたいという気持ちが勝ったのです。


1週間後、お盆の真っ只中、田舎である岡山に帰省している僕の携帯が鳴りました。「長谷川慈明」と表示されています。碧雲牧場の慈さんからです。「サマーセールはいつこちらに来られますか?」とのこと。「前日に入って、おそらく当日は遅くなりそうなので、帰りは翌日のチケットを取りました。お昼ぐらいに帰る予定にしています。大丈夫ですか?」
それを聞いて、慈さんは、「うーん、そうですか。実はサマーセールが終わったあと、福ちゃんの離乳をしようと思っていまして…。最初に7頭中4頭の繁殖牝馬を抜こうと考えています。4頭の母馬を別の放牧地に連れていかなければならないので、4人分の人手が必要になります。ダートムーアは理恵(慈さんの奥さま)が撮影すると、福ちゃんのことを撮影する人がいなくなってしまうので、治郎丸さんにお願いしようと考えていたのです」とプランを明かしてくれました。
離乳は秋ごろかと思っていましたし、サマーセールの結果も分からないのに、翌日に福ちゃんの離乳という一大イベントが待っていることに驚き、少し困惑しましたが、たしかに僕が立ち会えるだけではなく、手伝いもできる最良のタイミングです。ただ、慈さんが少しだけ唸っていたのは、お昼ぐらいのタイミングで離乳をしたかったからでした。僕の飛行機の出発時刻を考えると、10時には碧雲牧場を離れなければならないので、遅くとも8時ぐらいには離乳をスタートしなければいけません。
朝いちで離乳すれば時間的な余裕はあるのではと聞いてみたところ、夜間放牧が終わって馬房で休憩した直後は、元気が有り余っているので、暴れしてしまうのが怖いとのこと。昼ぐらいになると馬たちも疲れてくるため、母馬と仔馬が引き離されてしまっても、ひとしきり暴れると元気がなくなって大人しくなるそうです。僕の飛行機のタイミングに合わせると、少し早い時間に離乳を開始しなければいけないことを慈さんは難しがっていたのでしょう。「もう少し考えます」と慈さんは言って、その話は終わりになりました。
当然のことながら、サマーセールに上場するスパツィアーレの23の話になり、先日、静内のセリ会場までスクーリングに行ってきたと聞きました。スクーリングとは業界用語で事前の下見に馬を連れていくこと。初めて競馬場に行ってレースで走るときや、初めての競馬場で出走するときにスクーリングすることはよくありますが、セリもスクーリングをするのですね。
スパツィアーレの23を馬運車に乗せ、片道1時間走らせてセリ会場に向かい、馬運車から下ろし、馬房や会場内をひととおり歩かせて見せるのです。そうすることで、馬が(一度体験したことなので)本番で戸惑わずにいられること、さらに人間側もその馬がどのような反応をするのかある程度把握しておくことで、アクシデントを未然に防ぐことができるのです。たとえば、この場所では馬が嫌がって暴れそうになるとあらかじめ分かっていれば、人間側は慌てずに対処できます。こうしたスクーリングの期間を、セリの1週間前からセリ主催者側が設けてくれています。福ちゃんのお姉さん(ダートムーアの23)は輸送で減ってしまうのを恐れ、スクーリングをすることなく、ぶっつけ本番で臨みましたが、スパツィアーレの23は牡馬でもあり、そうした心配はいりません。どれぐらい輸送で入れ込んで、馬体が減ってしまうのかを知ることも含めて、スクーリングをしておくことはメリットが大きいそうです。
ちなみに、スパツィアーレの23は輸送をしたあと、セリ会場の馬体重計に載せてみたところ487kgだったとのこと。慈さんは「輸送しても何ともなかったので、輸送自体は全く心配ないのですが、あまりこの時期に(馬体重が)重すぎると動きも重いと思われかねないので、そこをどうしようか悩んでいます」と言います。最近は、馬格があって大きすぎると、重苦しくてスピードに欠けると思われてしまうため、たとえ馬格があってもシュッとしているのが好まれるとのこと。
先日の立ち写真やウォーキング動画を見る限り、重苦しさは全くありませんし、個人的には馬格はあればあるほど走ると思っているので、「無理に絞る必要はありませんが、無理に太らせる必要もなく、夜間放牧をしながら運動させて負荷をかけ、その中で出来上がった馬体で臨めば良いのではないでしょうか」と無難な返答をせざるを得ませんでした。
慈さんが少しでも馬を良く見せて、高く売ろうとしてくれているのはありがたいのですが、この時期の僕は半ばあきらめモードに入っていて、主取りにさえならなければ良いと本心で思っていました。多くは望まないし、大きな期待もしない。期待どおりには行かないことに疲れてしまったから、期待しないようにして、自己防衛している面もあるのかもしれませんが、つまりは生産の世界の厳しさを知ったということだと思います。
僕たちが手がけているのは命のある生き物であり、思ったように上手く行くことの方が有難いのです。そのラインをわきまえるとすれば、あまり大きな期待はしないのが正しいスタンスなのではないでしょうか。今回、スパツィアーレの23が生まれてから、これといった怪我や事故もなくここまで健康に育ってきてくれたことが有難く、レポジトリを撮ってもどこにも悪いところはなくセリに参加できそうなところまで持ってこられたことにも感謝です。むしろ順調に来すぎていることが気持ち悪いぐらいです。悪いことばかり考えても仕方ありませんが、ここまで来てもまだ最後の最後に何か起こるのではないかと僕は疑っているぐらいです(笑)。
測尺の値を聞きました。「体高は159cm。大きいですね」と慈さん。種牡馬であるニューイヤーズデイやダノンキングリーの体高が159cmですから、1歳夏の時点ですでに背の低い種牡馬と同じぐらいの身長があるということです。ダートムーアの23も背が高いタイプでしたが、スパツィアーレの23は横にも縦にも大きいタイプですね。「胸囲は182cm、管囲は22cmです。胸囲はそれ以上大きいと太って思われますので、上限かと思います。管囲も太くて、とにかく体のパーツパーツが大きいですね」と慈さんはコメントを添えてくれました。僕からすると、スパツィアーレの23は太かったり重苦しいタイプではなく、各パーツも大きく、全体的なフレームも大きいため、将来的には500kgを超すバランスの取れた大型馬になるはずです。
サマーセールまであと6日間です。
(次回へ続く→)