[連載・片目のサラブレッド福ちゃんのPERFECT DAYS]重賞を勝つより新馬戦でデビューすることの方が嬉しい(シーズン1-56)

今年の北海道日高地方は、繁殖牝馬の発情が早めに来てしまうほど暖かく、2月9日に種付けが解禁になってから、もう大忙しです、と慈さんの激しい息遣いが電話から聞こえてきます。

例年であれば、ライトコントロールをして発情を促したりするのですが、今年はそんなことをする必要もなく、バッチリと発情が来ているそう。そして、2月10日にユメノシラベが女の子を産んだのを初めとして、これから続々と生まれてくる出産シーズンにも入ります。3月末にはダートムーア、4月上旬にはスパツィアーレも出産を控えています。この時期は毎日、気が休まることはなく、お産が近づいてくると寝ずの当番を交代で行うため、寝不足にも陥ります。そんな中でも福ちゃんの動画を撮影してくださる、碧雲牧場の皆さんには頭が下がります。

慈さんが電話をかけてきてくれたのは、冬が例年よりも暖かくて忙しいことを伝えたかったわけではなく、福ちゃんの預託料のことです。当歳の間は福ちゃんの預託費は要りませんから、という言葉に甘えさせていただき、無料で育ててもらっていました。ようやく1歳になり、1月から預託費が発生するという心構えをしていたところ、請求書の中に福ちゃんの預託費が入っていないではないですか。請求し忘れたのか、それとも…と思って、「1歳になったので福ちゃんの預託費は請求してくださいね!」とLINEで入れたところ、「お気になさらず!」というスタンプが理恵さんから送られてきました。何を気にしなくて良いのか分からないでいたところ(笑)、その日の夜に慈さんから連絡をもらったという経緯です。

「1歳から預託料は払うという約束だからね。そのためにYouTubeチャンネルをつくって、視聴者の方々にグッズを買ってもらって、福ちゃんの預託費がようやく半年分ぐらいは集まったんだから」と僕が主張すると、「福ちゃんがこの先、碧雲牧場を離れて、育成場に入るともっとお金がかかりますので、その時のために使ってください。福ちゃんはもう家族のようなものなので、うちにいる間は(預託費は)いりませんから」と慈さんは言ってくれました。

家族のように思ってくれている気持ちは嬉しく受け止めつつ、「いや、育成に入った後の費用のことはその時にまた考えるけど、とりあえず視聴者の皆様からは福ちゃんを大切に育ててくれている碧雲牧場に渡すために預かっているお金だから」と反論すると、「僕たちにとって、いちばん嬉しいのは育てた馬たちが競馬場でデビューをすることなんです。大きな重賞を勝つよりも、新馬戦で無事にデビューすることの方が嬉しいかもしれません。福ちゃんがいつかは僕たちの手を離れ、競走馬としての育成が始まりますが、それ以降は治郎丸さんにお任せするしかないのです。牧場にいるときとは比べものにならないぐらいにお金がかかりますから、その時のためにも取っておいてください。福ちゃんをデビューまで持って行ってくれたら、それで僕たちは十分です。もちろん活躍してくれたら嬉しいですけど」と言ってくれました。

その話を聞いたとき、たしかにそのとおりだと思いました。僕の甲斐性だけでは、福ちゃんがデビューするまで余裕で育ててあげられると言い切れる自信はありません。だったら今から一円でも多く福ちゃんの育成代としてお金を貯めておくべきです。そこまで考えられていないのは、僕が慈さんよりも先が見えていないことと、心のどこかで誰かに支援してもらえば良いと考えているからではないでしょうか。

福ちゃんが病気も障害もない普通の馬であれば、デビューさせるために誰かの支援を募るのはおかしな話です。福ちゃんがたまたま小眼球症として生まれ、片目が見えなかったからこそ、多くの心優しい方々に見守ってもらえて、ここまでたどり着いたのです。最初は何とかして福ちゃんの道をつくりたいと必死で活動してきましたが、気がつくと僕は自分の力で福ちゃんを守ろうという気概を忘れてしまっていたのです。

本当は自分ひとりでも福ちゃんを背負って歩かなければいけないはずなのに、誰かが手を貸してくれることを常に期待して、助けてくれる誰かをあてにしてしまっているのではないか。誰かを頼ることや、助けてくださいとお願してみることの大切さは福ちゃんから学びましたが、いつの間にか僕の中で甘えという名の逆転現象が起こっていたのではないかと反省したのです。まずは俺が何とかする、という強い気持ちがなければ、最終的に福ちゃんを守ることはできないのではないでしょうか。

「ありがとうございます。必ず福ちゃんをデビューさせて、碧雲牧場に恩返ししたいです。ある意味、福ちゃんは碧雲牧場の看板を背負って走りますからね」と僕は慈さんに伝えました。福ちゃんが無事に競馬場まで辿り着けること、そして競走馬として活躍することが、たくさんの人たちに対する恩返しになることを改めて実感した瞬間でした。もう福ちゃんは僕だけの馬ではないのです。

「そういえば、シモジュウ(下村社長)のところにも小眼球症の馬が生まれたの知ってる?」と聞くと、「理恵から聞きましたよ」と慈さんは平たく返してきました。「碧雲牧場と大狩部牧場で続くのはもはや偶然ではない気もするし、(シモジュウを含め)うちらは昨年一度経験していて(小眼球症の馬について)知っているから、まあ大丈夫でしょ、みたいな感覚だよね」と煽ってみると、「いや、そうは言っても牧場にとっては大変だと思いますよ」とあくまでも慈さんは冷静で乗ってきません。

たしかに僕たちは、福ちゃんという事例を身近で見ているので、小眼球症の馬が普通の馬たちと同じように健康に育つことを経験していますし、中央競馬はダメだとしても地方競馬の一部の競馬場ならば競走馬になれる可能性があることも知っています。福ちゃんが生まれた時の道なき道を進むような手探り感が今はないのが事実です。

それでも、セリで小眼球症の馬は売れない(上場できない)以上、牧場にとっては収入が途絶えることを意味しますし、ということは自分たちで育て、育成場に入れてトレーニングしてもらい、競馬場の厩舎に入ってデビューして、引退するまで走らせ、繁殖牝馬として牧場に戻ってきてから役割を終えるまで、その生涯にわたって面倒を見続けることが生まれた瞬間に確定するのですから、綺麗ごとだけでは済みません。経済的な負担は数千万単位に及びます。生産牧場は馬主ではないので、馬が売れないことは致命的です。

さらに福ちゃんと大狩部牧場に生まれたシンギュラーチャームの25の違いは、父がタイセイレジェンドかエフフォーリアというところです。どちらが良い悪いではなく、種付け料が全然違います。片や30万円でもう一方は400万円。400万円を投資して生まれてきた仔が、(言い方は悪いですが)売り物にならないとすれば、僕だったら頭を抱えるどころか、一瞬で破産してしまいます。処分して死産という扱いにすれば、翌年はフリーリターンの制度を使って無料で種付けすることができるのですから、たとえ1年間という時間は無駄にしたとしても、種付け料という面ではマイナスになることはありません。その選択をせず、シンギュラ―チャームの25を生かす決断をしたシモジュウはさすがです。

この仔は当歳時にセレクトセールに持って行こうと思っていた、とシモジュウは語っていました。初年度産駒の、しかもエフフォーリアのような注目されている種牡馬の産駒をセレクトセールに上場することができれば、バイヤーの新しいもの好きも手伝って、1000万円ぐらいの値が付く可能性は十分あるでしょう。牡馬であればもっと上の価格で取り引きされる未来だってあったのです。にもかかわらず、生まれてきたのは牝馬であり、しかも小眼球症であったとなると、プラス1000万円以上だと見込んでいたところから一転、マイナス数千万に没落してしまったのです。牝馬だからとか、病気があるからとか、僕だってそんなことで優劣をつけるつもりはありませんが、サラブレッドは経済動物であり、それを生業にする者たちからすれば、生まれ落ちの違いは極めて大きいのです。

そんな落胆はおくびにも出さず、もしかすると海外の競馬場に連れて行くかもと夢を語るシモジュウには拍手を送ります。そして、福ちゃんが小眼球症の先輩として、この先の道を切り拓いて行けたらと思います。福ちゃんの開いた道をシンギュラーチャームの25が踏み固め、のちに続くはずの後輩たちにとっての歩む道ができる限り滑らかになることを願います。

シモジュウとも電話した中で、「福ちゃんとシンギュラーチャームの25が走れば、片目の馬は走るという噂が広まって、小眼球症の仔が産まれてきたら逆に牧場は喜ぶようになるといいね」と夢を語りました。

スパツィアーレの23をサマーセールで購入いただいたモリケンこと森本研太さんが、ヴェルトライゼンデをオークションで落札したことにも話は及びました。モリケンさんはヴェルトライゼンデの出資者であり、命名者でもあるそうで、思い入れが強く、何としても種牡馬にしたいという想いで落札されました。多くの人たちが競りかけましたが、モリケンさんの強い想いには歯が立たず、最終的には760万円でハンマーが降ろされました。おそらく、最初の時点から、1000万円までは降りないという設定をしていたのではないかと思われます。

ご存じのとおり、ヴェルトライゼンデは父ドリームジャーニー、母マンデラ、兄にワールドエースやワールドプレミアがいる超良血馬です。母マンデラはドイツのMラインと呼ばれる優秀な牝系であり、実は碧雲牧場にいるマンちゃんのお母さんマンドゥラはマンデラの半妹にあたります。

モリケンさんに落札されて、ヴェルトライゼンデが種牡馬になると知って、慈さんが「種付けしようかな」と言ったのも、この牝系は身体こそ大きくはないのですが走ることを知っているからです。ヴェルトライゼンデは馬格的には恵まれていて、ワールドエースやワールドプレミアよりもひと回り大きく、かつ馬体の薄い馬ですから、現代の日本競馬には適している馬体です。もしかすると、種牡馬としては兄たちを凌ぐ可能性もあるのではと思ってしまうのは、僕だけでしょうか。モリケンさんにはスパツィアーレの23で迷惑をかけてしまったので、今回の挑戦は上手く行ってもらいたですし、応援したいです。

注)後日、ヴェルトライゼンデは馬房内で転倒して大腿骨を骨折、予後不良と診断され安楽死処置となりました。ご冥福をお祈りいたします。

(次回へ続く→)

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