グランシルク~中山マイルの神話~

ひざに置いた フォトグラフ

あなたの街は

出会いの喜びと 涙をくれた

──VOICE「24時間の神話」より引用

ちょうど30年前。列島の端北海道のさらに端で、多感で内気な青春を過ごしていたティーンエイジャーの私の一風変わった琴線に触れた曲の1つが、北海道出身のデュオ「VOICE」が歌い上げる「24時間の神話」だった。

歌詞にあるような甘い、せつない思い出が実際の私に刻まれたかどうかは黙秘するが、双子であるVOICEの2人が、その清らかで、それでいてどこか寂しげなハーモニーで奏でるサビの歌詞は、強く、若き私の心に刻まれた。

あの日見た夢が 今でも こころ さまよう

24時間の神話としても

あの日見た夢は 覚えていてはいけない

離れていかない あの人の夢

──VOICE「24時間の神話」より引用

「あの日見た夢は 覚えていてはいけない」

その歌詞とは裏腹に、齢を重ねるにつれて、離れていかないあの日の夢が、思い出が、後悔が、私の脳内に記憶の地層となって積み重なっていった。そして今、目の前の出来事を見つめるときに、そこから受ける感動に、記憶のフィルターが勝手にかかってしまう。

それは、競馬観戦においても同じだった。

私が競馬を「競馬」として見始めた’90年代後半、私の周囲は「追込といえばマティリアルの’87年スプリングS」「大逃げといえばプリテイキャストの’80年天皇賞(秋)」という空気に満ちていた。

当時の私は「みんな、昔のことばっかり言って……」と、オールドファンの醸し出す空気が好きになれなかった。

しかしそれから20年の時を、ほぼステイゴールドとその血を盲目的に追って過ごした私は、2010年代後半にもなると「奇跡のラストランといえばステイゴールドの’01年香港ヴァーズ」「まくりといえばドリームジャーニーの’08年小倉記念」等々、強い思い入れで脳内が凝り固まった、立派な懐古主義者となっていた。私は、そんな自分が好きになれなかった。

そして2017年の初秋。中山開幕週メインのGⅢ、京成杯オータムハンデの舞台に駆け出すステイゴールドの仔をテレビ越しに見ながら、その時も私は不随意に懐古の情に浸っていた。

「やっぱりこの馬と言えば、あの日ここで見せた末脚だったよなぁ……」

「この馬」とは、グランシルク。

「あの日」とは、2年5か月前のGⅡ、ニュージーランドトロフィーである。


グランシルク(Gran Silk)。

父ステイゴールド、母はアメリカ産のルシルク(Le Cirque)。

母名の日本語読みから着想を得たのであろうその馬名には、所属馬から「シルク」の冠名が外れて3世代目にして、久方ぶりに、オーナーである「シルク」レーシングの名が織り込まれた。

直訳すれば「偉大なシルク」。その期待の大きさがうかがえよう。

デビュー前の評判も高く、2歳11月の新馬戦から1番人気に推されたグランシルクは、初戦、2戦目と芝1800mで惜敗するも距離をマイルに縮めた3戦目、正月の中山で好位から悠々と抜け出して完勝。一息入れたのち3月、再び中山マイルの500万下(現1勝クラス)平場。またも好位から残り250mまで持ったまんまで押し切って連勝。

1か月後、みたび中山マイルに、NHKマイルカップに続くトライアルレース、ニュージーランドトロフィーの舞台に立ったグランシルク。前走GⅢアーリントンカップ勝ちのヤングマンパワーら重賞転戦組を押しのけて、ファンは彼を単勝1番人気に支持した。

「1番人気は当然。ここは通過点なはず……」

高を括って実況中継を見ていた私の感情は、1分35秒弱の間にジェットコースターのように乱高下することになる。

ゲートが開いた。

「……!」

グランシルクがいない。

おり悪くゲート内で立ち上がっていたグランシルクがゲートを駆け出すまでに、実に1秒半の空白があった。

頭を抱えた。

「ドリームジャーニーの朝日杯(2006年)よりひどい……。これは無理か……」

中山マイルでの過去の記憶が呼び起こされる。

完全に呆けた状態で中継を虚ろに見ていた最後の直線、馬群の一番外、信じられないところからグランシルクがぶっ飛んできた。

どん底から最高潮へ、普段の倍のアドレナリンが身体中を駆け巡る。

大外からグランシルク!届くか……!

「この豪脚は、GⅠ級だ……!」

勝ったヤマカツエースにこそ0秒1及ばなかったものの、その末脚はグランシルクの代名詞として、私の脳に強く、濃く、刻み込まれた。いや、焼き付いてしまった。

それまでの連勝が好位抜け出しであったことなど、完全に上書きされてしまった。

その直線一気が、グランシルクにとっての最適解なのかどうかを冷静に顧みることは、高揚しきった当時の私には、できなかった。


2年5か月後、グランシルクは競走生活22戦目にして実に10度目となる、中山マイルのゲートに入っていた。

あのニュージーランドトロフィーの次戦、通算6戦目となるGⅠNHKマイルカップで1番人気に推されるも伸びきれず、「流れ込む」形で5着。

その後15戦中13戦で、グランシルクは全体3位以内の上り3Fをたたき出す末脚を繰り出したが、勝鞍は4歳夏に1000万下(現2勝クラス)に降級後勝ち上がった条件戦2戦のみ。

オープンに復帰し、5歳となった2017年に至っては、夏までの5戦すべて「差し届かず」の2着→3着→3着→2着→2着。3回の2着は、前を行く同じステイゴールド産駒であるマイネルアウラート、そしてウインガニオン(2回)に押し切りを許してのものだった。

オープンで、重賞で、これだけ上位で安定して活躍し続けるなど、ほんの一握りのサラブレッドしか為しえない類まれなることなのだが、GⅠを勝つに違いないという「あの日見た夢」が頭から離れていかない当時の私には、グランシルクのその立派な成績も、物足りなく映ってしまっていた。

実に12度目の1番人気に推されたグランシルク。惜敗続きの流れを断ち切りたい思いがあってか、鞍上には通算6人目のパートナーとなるテン乗り、田辺裕信騎手が配された。

フルゲート予定から1頭、唯一のGⅠホースであるダノンプラチナが取り消しとなり、出走は15頭。

秋競馬のプロローグ。GⅢ、第62回京成杯オータムハンデの幕が、切って落とされた。

ゲートが開いた。

「……!!!」

グランシルクが見違えるようなスタートで、真っ先に飛び出していった。出遅れたあの日の記憶が、一つ、上書きされる。

のちの世に「平成逃げ馬列伝」が編纂されるのであれば必ずその名を刻すであろうマルターズアポジーが注文を付けてハナを切る。

1000m通過は57秒1。逃げ馬の格、そして開幕週の馬場を考えれば「速い!」とまではいかないが、馬群は縦に長くなっていた。

超抜スタートを決めたグランシルクはそのちょうど半ば、8番手の外。前からも外からも圧のかからない、絶好の位置取りに見えた。そしてやおら田辺騎手の手綱が動き出す。グランシルクのギアが一段上がる。

1列前にいたダノンリバティの松若風馬騎手が後ろを振り向き、遅れてなるかと仕掛けにかかる。

2頭が併せ馬のように、外、外から前を一気に飲みこみにかかったのが、4コーナーだった。先頭までは4馬身。勝利を信じられる位置取りだった。絶望的な位置にいたあの日の記憶が、また一つ、上書きされる。

残り200のハロン棒を待たずして、ダノンリバティを振りほどき、グランシルクは抜け出した。解き放たれた。もう彼の前には、緑一面のターフが、広がるのみだった。

田辺騎手が右を向く。ターフビジョンで追うものなきを確かめる。

田辺騎手が左を見やる。その視線を後ろに向け、セーフティリードを確かめる。

そして手綱を緩めたところが、グランシルク重賞初制覇のゴールだった。

重賞に挑み続けること10度目。2度の2着、2度の3着を経て、苦闘の果てにつかんだ、初めてのタイトルだった。

「この豪脚は、GⅠ級だ……!」

私はあの日とおんなじことを、つぶやいていた。

私が中山マイルで見た2年5か月前の「あの日見た夢」は、目の前の現実で完全に上書きされた。しかしそこから得られた感動は、興奮は、2年5か月前に見た夢が頭から離れなかったからこそ、かくも鮮烈なものなのだ。

懐古厨も、自己完結できる分には、悪くないのかもしれない。

そんなことを、一人、考えていた。


それから月日が流れた。

グランシルクはその後富士ステークスを挟んで勇躍秋のマイル王決定戦、マイルチャンピオンシップに出走。全体で3番目の上り34秒4の末脚を繰り出したが、4コーナー17番手では時すでに遅し、9着に敗れる。そして明け6歳、中山記念での復帰を期して調教中に左前脚を骨折。志半ばでの引退となった。

私はその後も毎週末のように、競馬からもらった新たな記憶と夢を脳裏の地層に積み重ね、そして周囲に少しばかり気を付けながら、時折、一人懐古に浸っている。

あの日見た夢は、覚えていてもいいけど、こだわってはいけない。押し付けてはいけない。

グランシルクが紡いだ「中山マイルの神話」が、私に教えてくれたことだ。守れているかどうかはわからないが。

そして私は、その神話の続きを楽しみに待っている。

彼は引退翌年である2019年から、種牡馬として第2の馬生を送っているのだ。

毎年片手で数えられるほどしかない種付け数から、彼の血にかけた関係者の夢が、ターフで、砂上で、叶うその日が来たら、どうしよう。

そんな夢想も、これまた競馬の醍醐味なのかもしれない。

写真:かぼす、Horse Memorys

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